2020年11月1日日曜日

ガルシア・ロルカとニーチェの引用について

 お約束ですので。。。昨晩のライブで朗読した
ガルシア・ロルカとニーチェからの引用について
原文と訳を掲げておくことにします。
訳は、自分でやってもいいのですが、僕が読んで感銘を受けた
いずれも岩波文庫の翻訳を掲載させて戴きます。
番号は、昨晩の演奏順、そして曲のタイトルになります。

3. Esa Luna(おお、月よ)

Esa luna se va, y ellos se acercan. De aquí no pasan. El rumor del río apagará con el rumor de troncos el desgarrado vuelo de los gritos. Aquí ha de ser, y pronto. Estoy cansado. Abren los cofres, y los blancos hilos aguardan por el suelo de la alcoba cuerpos pesados con el cuello herido. No se despierte un pájaro y la brisa, recogiendo en su falda los gemidos, huya con ellos por las negras copas o los entierre por el blanco limo. ¡Esa luna, esa luna! (Impaciente.)

追っ手が迫ったのに 月が隠れた。
でも二人は ここから動くまい。
川と木々のささめきとが相まって
おどろしい叫喚(さけび)をかき消すだろう。
ここで起こるんだ 今すぐに。
あたしは もう待ちくたびれた。
棺(ひつぎ)のふたは開けられ 白いシーツが
寝室の床で 待ちうけている
喉びこを切られた 重い体を。
小鳥よ目ざめるな そして風よ
二人の死の呻(うめ)きをスカートに包み
暗き梢(こずえ)をふき渡れ さもなくば
呻きをぬかるみに埋めるのだ
(もどかしそうに)
月よ、おお月よ!
(岩波文庫・牛島信明訳、以下同)

ガルシア・ロルカの戯曲『血の婚礼』の第3幕からの引用です。
この劇のストーリーは、若い男と女が結婚式を迎えるはずでしたが、
結婚式の当日、花嫁がかつて付き合っていた男が
花嫁を略奪して馬で逃亡、怒った花婿が二人を追いかけ決闘になる、
というもので、第3幕は、結婚式の夜、逃げた二人は山へ入り、
それを花婿が追いかける、というシーンです。
冒頭、次のト書きがあります。

「森。夜である。数本の湿気をおびた太い樹幹。あたりは闇につつまれている。二台のバイオリンを奏でる音が聞こえる。」

二台のバイオリンの音は、この第3幕の第1場の間ずっと聞こえ、
二人の男の悲鳴が聞こえたところで途絶えます。
僕の曲は、このシーンに作曲したもので、
故にバイオリン2本の線が絡むのが曲の中心ですが、
僕自身はキーボーディストなので、それにピアノの音を入れてます。
そして、原作は老婆のセリフですので、「待ちくたびれた」のところ、
"Estoy cansada." と女性形になっていますが、僕が喋ってるので
"Estoy cansado." と男性形に直しています。


4. An Arrow of Longing I(あこがれの矢・パート1)

Ich lehre euch den Übermenschen. Der
Mensch ist Etwas, das überwunden werden soll. 

わたしはあなたがたに超人を教えよう。人間は克服されなければならない或物なのだ。
(岩波文庫・氷上英廣訳、以下同)

これは、学生時代の僕に、そして社会人になってからも
かなり影響を与えた一文です。
ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』の冒頭、
「ツァラトゥストラの序説(Zarathustras Vorrede)」の第3節
その冒頭にある言葉ですが、僕がこれを読んだきっかけは
やはり映画「2001年宇宙の旅」から来ていて、
あの、冒頭に流れるリヒャルト・シュトラウスの音楽、
その原典に接してみたいという思いからでした。
そしてわかったのはあの映画の原作は、アーサー・C・クラークより
寧ろニーチェのこの本ではないか、ということでした。
この本を読んで初めてあの映画がわかった気になったからです。
「人間は克服されなければならない何か」って、
それが正にあの映画で描かれていたことだって思いません?

あ、この曲ではその次の第4節からも引用してました。

Der Mensch ist ein Seil, geknüpft zwischen Thier und Übermensch, — ein Seil über einem Abgrunde.

Ein gefährliches Hinüber, ein gefährliches Auf-dem-Wege, ein gefährliches Zurückblicken, ein gefährliches Schaudern und Stehenbleiben.

Was gross ist am Menschen, das ist, dass er eine Brücke und kein Zweck ist: was geliebt werden kann am Menschen, das ist, dass er ein Übergang und ein Untergang ist.

Ich liebe Die, welche nicht zu leben wissen, es sei denn als Untergehende, denn es sind die Hinübergehenden.

Ich liebe die grossen Verachtenden, weil sie die grossen Verehrenden sind und Pfeile der Sehnsucht nach dem andern Ufer.

Ich liebe Die, welche nicht erst hinter den Sternen einen Grund suchen, unterzugehen und Opfer zu sein:
sondern die sich der Erde opfern, dass die Erde einst des Übermenschen werde.

 人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ、——深遠のうえにかかる綱なのだ。
 渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身震いして足をとめるのも危険である。
 人間において偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ。人間において愛さるべきところ、それは、かれが移りゆきであり、没落であるということである。
 わたしが愛するのは、没落する者として以外には生きるすべを知らない者たちである。かれらはかなたへ移りゆく者たちであるからだ。
 わたしが愛するのは大いなる軽蔑者たちである。なぜならかれらは大いなる尊敬者でもあり、かなたの岸へのあこがれの矢であるからだ。
 わたしが愛するのは、おのれの没落し、犠牲となる理由を、星空のかなたに求めることをしないで、いつか大地が超人のものとなるように大地に身を捧げる人たちである。

「かなたの岸へのあこがれの矢
 (Pfeile der Sehnsucht nach dem andern Ufer)」
これこそがこの曲のテーマになっています。


7. An Arrow of Longing II(あこがれの矢・パート2)

ここでは、4. と同じく「克服されなければならない何か」の台詞を
繰り返しつつ、次の「古い石の板と新しい石の板
(Von alten und neuen Tafeln)」の第30節を読んでいます。

— bereit zu mir selber und zu meinem verborgensten Willen: ein Bogen brünstig nach seinem Pfeile, ein Pfeil brünstig nach seinem Sterne: —

— ein Stern bereit und reif in seinem Mittage,
glühend, durchbohrt, selig vor vernichtenden Sonnen-Pfeilen: —

— eine Sonne selber und ein unerbittlicher Sonnen-Wille, zum Vernichten bereit im Siegen!

——わたし自身とわたしの最も深く隠れた意志を、すこしもためらわず迎えるように。——おのれの矢をはげしく恋い慕う弓となり、おのれの星をはげしく恋い慕う矢となるように。——
——その星は、おのれの正午をいまはためらわず迎える星。燃えかがやき、射ぬかれた星、破壊する太陽の矢に亡ぼされて恍惚となる星。
——さらに太陽そのもの、そして勝利をおさめつつ、ためらわず破壊する、きびしく仮借ない太陽の意志!

矢を恋い慕う弓、星を恋い慕う矢、
弓は英語では "Bow" で、「2001年」の主人公の名前は
ボウマン(Bowman)=弓を射る人、でしたね。
そう考えて宇宙船ディスカバリー号を思い出してみると
あれは「矢」の形をしていないでしょうか?
そしてそのディスカバリー号は星の彼方に向かって
飛んでいったのではないでしょうか?
こうしたこと全てが、僕が『ツァラトゥストラ』を
「2001年」の原作だと考える次第なのです。
そうであれば、あのテーマ曲は最初から決まっていたようなもの、
そう思いませんか?

以上が昨日のライブのタネ明かしになります。
ガルシア・ロルカもニーチェもおもしろいので、
まだという方、是非お勧めしますよ!^^

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