2022年7月24日日曜日

【翻訳記事】『資本論』を読む(2)〜商品の2つの要素・使用価値と価値(その1)

それでは、以下、冒頭の第1節をお届けします。
冒頭の一文、普通は関係節が頭に来るように訳すと思うのですが、
ドイツ語の出だし、 "Der Reichtum der Gesellschaften"
(英語版では "The wealth of those societies")は、
明らかにアダム・スミスの『諸国民の富』 (Wealth of Nations)
を意識していると思われるので敢えて日本語でも
この言葉が冒頭に来るようにしてみたものです。

     *   *   *

第1巻 資本の生産過程
 第1編 商品と貨幣
  第1章 商品

    第1節 商品の2つの要素・使用価値と価値
       (価値の実体、価値の大きさ)

 社会の富——とりわけ資本主義的生産形態が支配的な社会の富——は「夥しい商品の集合体」として現れます。そしてそれを構成する要素は、個々の商品という形をとっています。そこで私たちの研究は、まずその商品の分析から始めることにします。
 商品とは、第一に、自分の外に存在する対象、ある物であって、その属性を通じてある種の人間の欲求を満たすものです。これらの欲求の性質は、例えばそれが胃袋に由来するものなのか、或いは想像や妄想に由来するものなのかといった、そうした事情によって変わるものではありません。また、物がどのように人間の欲求を満たすか、食べ物のような、つまり快楽の対象として直接か、或いは生産の手段として間接的にか、ということもここでは問題にはなりません。
 有益な物というのはどのようなものでも、例えば鉄だとか紙だとか、そのようなものは二つの観点から観察することができます。つまり、質と量とです。このように有用な物というのはどのようなものでも、多くの属性から成る集合体であって、従って、様々な面に於いて有用となるのです。このような、物が持つ様々な側面と、そこから生じる多様な使用方法を発見するのは歴史的な仕事です。有益なものの量を測るための社会的基準を見つけることもまた然りです。商品を測る基準がいろいろあるのは、或いはその測られる対象の性質に、また或いは慣習に由来しています。
 ある物の有用性は、それ自身に使用価値というものを与えます。しかしながら、この有用性というものは、宙に浮いている存在ではありません。有用性は商品の物理的な形が持つ属性によって決まるので、その商品の形が持つ属性を離れては存在し得ません。商品の形というのは、例えば鉄だとか小麦だとかダイヤモンドとかであって、その形自体が使用価値、つまり役に立つ良い物となっているのです。これら商品の形が持つ特徴は、その使用属性を取得するのに人がどれだけ働いたか、その働きが多かったか少なかったかによって変わるものではありません。使用価値を考えるにあたっては、常にある明確に決められた量を前提とします。例えば、時計なら何ダース、リネンなら何ヤード、鉄なら何トン等といったように。この商品の使用価値は、ある特殊な学問、即ち商品学とも言うべきものに研究の材料を与えるものです。この使用価値が現実のものとなるのは、実際に使用された、或いは消費された時になります。使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであっても、その富の物質的な内容を形成します。そして私たちが考えようとしている社会形態に於いては、使用価値は更に物質的な支えの器を形成するのです。即ち、交換価値です。
 交換価値は、まず量的な関係、つまりある種の使用価値が別な種類の使用価値と交換される比率として現れますが、これは時間や場所と共に常に変化する関係です。従って、交換価値は幾分偶然的な、そして純粋に相対的なものに見えますから、ある商品に内在する、その商品に固有の交換価値 (valeur intrinsèque) というのは形式矛盾 (contradictio in adjecto) であるように思えます。そこでこの事をもっと詳しく見てみることにしましょう。
 ある商品は、例えば1クウォートの小麦は、X個の靴磨き、Yヤードの絹、Zグラムの金等、一言で言えば、極めて異なった比率で他の商品と交換することができます。従って、小麦はただ一つの交換価値を持つのではなく、多様な交換価値を持っていると言えます。しかしここで、X個の靴磨き、Yヤードの絹、Zグラムの金は1クウォートの小麦との交換価値を持つわけですから、X個の靴磨き、Yヤードの絹、Zグラムの金は互いに交換可能な、または互いに同等な大きさの交換価値でなければなりません。ここで次の事が導き出されます。先ず第一に、ある商品の妥当な交換価値は、何かある同等のものを表しているということ。第二に、しかしながら、この交換価値というのは一般的に、商品に内在するもので、交換価値とははっきりと区別できるものの単なる表現方法、「現象形態」に過ぎないということです。
 2つのかけ離れた商品、例えば小麦と鉄を例にとってみましょう。その交換比率がいかなる値をとろうとも、それは常にある等式で表現できるのです。その等式に於いては、与えられた量の小麦に対してある量の鉄がバランスします。例えば1クウォートの小麦=aキログラムの鉄といったように。この等式は何を意味するのでしょうか。それは、2つの異なる物の間に、それ自身の大きさを持った共通な何かが存在するということです。つまり、1クウォートの小麦、aキログラムの鉄と共通な何かが、です。従って、先の二者は、ある第三者、それ自体は二者のどちらでもない第三者と同じなのです。交換価値に関する限り、先の二者は何れも、この第三者に還元されなければなりません。
 このことを簡単な幾何学の例を用いて説明しましょう。直線からなる多角形の面積を計算し、比較する時に、人はそれらの図形を三角形を使って解きます。三角形それ自体は見かけとは全く異なる図形に還元されます。即ち、その底辺に高さをかけた積を2で割るのです。同様に、商品の交換価値もある共通なものに還元され、それによって価値の大小が表されるのです。
 この共通なものは、幾何学的な、物理的な、化学的な、その他自然発生的な商品の属性ではあり得ません。商品の物理的な形状の属性が考慮されるのは、凡そそれ自体を使用しようとする時、従って使用価値として扱う時だけです。一方で商品の交換関係をはっきりと特徴づけるということは、その商品から使用価値を抜き取ってしまうということに他なりません。ある使用価値がそれ自体で他の使用価値と同程度に妥当であるのは、その使用価値が適切な比率で存在している場合だけです。或いは昔バーボンが言った言葉を借りれば、
 「ある種の商品が別なある種の商品と同じ程度に良いとされるのは、その交換価値の大きさが等しい場合である。同じ交換価値を持つ物の間には、差異や識別可能なものは何もない。」
 使用価値として見れば、商品とは、とりわけ様々な質を持ったものとして存在します。しかし、交換価値としては、商品は単に様々な量を持ったものとしてしか存在し得ず、従って使用価値の原子のようなものは全く含まれていないのです。
 商品の形が持つ使用価値を置き去りにすると、ある一つの属性、労働生産物の属性だけが残されます。ですが、その労働生産物もまた私たちの手の中で既に変わってしまっています。使用価値を切り捨ててしまったことで、私たちはまた、生産物に使用価値を与えている物理的な構成要素と形をも切り捨ててしまっているからです。そのような生産物はもはや、テーブルでも、家でも、糸でも、その他いかなる有用なものでもありません。その生産物を構成する目に見えるものは全て消え失せてしまうのです。それはもはや、大工が働いて産み出したものでも、建築家が働いて産み出したものでも、紡績工が働いて産み出したものでも、その他何か決まったものを生産するための労働による生産物ではありません。労働生産物の有用な特徴と共に、その生産物に見ることのできた労働の特徴も、従ってまたこれらの労働の具体的な形も消えてしまい、どれもこれも還元されて皆同じような人間の労働、抽象化された人間の労働というものになり果ててしまうのです。
 それではここでその労働生産物の残りを見てみましょう。そこに残っているのは、それ自身の実体のない塊、人間の労働がそれが何であったかわからないような形でゼリーのように凝り固まった物に過ぎません。即ち、そこには人間の労働が費やされているにも拘らず、どのように費やされたのか、その形態については全く考慮されていない状態です。これらのことは、今や私たちに次のことを示してくれます。つまり、それらを生産する過程で人間の労働力が費やされ、人間の労働が積み上げられたのだと。これらの生産物に共通する[労働という]社会的実体が結晶化したもの、それこそが価値ーー商品価値なのです。

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お疲れ様でした。
それではこの続きはまた明日!

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