2022年7月25日月曜日

【翻訳記事】『資本論』を読む(3)〜商品の2つの要素・使用価値と価値(その2)

前回は『資本論』冒頭の1節の前半を読みました。
マルクスの論法は明解で、

1. 資本主義社会の富は「商品の蓄積」として現れる
2. 従ってまず「商品」を分析することにする
3. 商品には使用価値と交換価値がある
4. 商品から使用価値を抜き取ったものがその商品の価値
5. 使用価値を抜き取ったあとに残るのは人間の労働

というわけで、もう最初の1節でマルクス経済学の
本質に近いところに迫って来るわけです。
それでは今日はその続きを見ていきましょう。

     *   *   *


   第1節 商品の2つの要素・使用価値と価値
      (価値の実体、価値の大きさ)〜続き

 商品自体の交換関係においては、その交換価値はその使用価値から全く独立しているもののように私たちの前に現れました。労働生産物から使用価値を取り除いてしまう時、その生産物の価値を手に入れることができる、これが今定義されたことです。商品の交換関係の中に、或いは交換価値の中に姿を表す共通なもの、それがその商品の価値なのです。研究を進めるにつれて、私たちは再び価値にとって必要な表現方法、或いは表現型としての交換価値に戻って来ることになるでしょう。しかし今は、これらの形から離れて価値というものを観察することにします。
 ある使用価値、或いは有用なものというのはたった一つの価値しか有していません。それはそれらの中に抽象化された人間の労働が具現化され、物質化されているからです。それでは、それらのものの価値の大きさはどのように計ればよいのでしょうか? それは、その中に含まれる「価値を形作る物質」、即ち、労働の量によって、ということになります。その労働の量は時間の長さによって計量されるもので、その労働時間には更にそれを一定の部分、即ち、時間だとか日だとかに切り分ける物差しがあるのです。
 もし商品の価値がそれを生産するために継続的に使用された労働量によって決定されるとすると、人が怠けたり不器用だったりするほどその商品の価値が高くなるように思えて来ます。というのは、それを製造するためにより多くの時間を必要とするからです。しかしながら、価値の本質を形成する労働というのは、人間による均一な労働のことを、即ち、同じだけの人間の労働力が使用されることを言っているのです。商品世界の価値に現れる社会全体の労働力は、一つの、均一な人間による労働力と見做してよいのです。それが数えきれぬほどの個々の労働力から成り立っているにも拘わらず、です。これら個々の労働力というのはそれぞれが他のものと同じです。その労働力が社会の平均的な労働力の性質を備えており、そのような社会の平均的な労働力として機能している限りに於いて。即ち、ある商品の生産に当たって平均的に必要とされるだけの労働時間、或いは社会が必要とするだけの労働時間がかかる限りに於いてです。社会が必要とするだけの労働時間とは即ち、利用可能な社会的な基準を満たした生産条件とその仕事を行うための社会的に平均的なレベルの熟練や集中力をもってある使用価値を産み出すために必要な労働時間のことなのです。例えば、イングランドに於いて蒸気機関による力織機が導入されて以降は、一定量の糸を布地にするには、それ以前と比べて恐らく半分の労働で十分でした。イングランドの手織物業者は、実際にこの糸を布地に変えるのにそれ以前と同じ時間がかかっていたのですが、一人一人が1時間の労働で生産できるものは、今や社会がその半分の時間の労働で生産できるものに過ぎなくなっていて、その結果、それ以前の半分の価格にまで下がることになったのです。
 このように、ある物の価値の大きさを決めるのは、その社会が必要とするだけの労働量か、或いはその使用価値の生産にその社会が必要とするだけの労働時間の何れかのみとなるのです。ここでは個々の商品は、一般的に言ってその商品が属する種類の平均的な見本と見做すことができます。このようにして、同じ大きさの労働量が含まれている商品、或いは、同じだけの労働時間によって生産され得る商品は、同一の価値を持つようになるのです。ある商品の価値と、他の商品の価値の比率は、あるものの生産に必要なだけの労働時間と、他のものの生産に必要なだけの労働時間の比に等しいのです。「価値として見るならば、あらゆる商品は労働時間を固めて明確な形を与えられた塊に過ぎないのである。」
 ここに於いて、ある商品の価値の大きさが変わらないでいられるのは、生産に係る労働時間が一定である、という前提に基づいています。しかしながら、後者の労働時間というのは、労働生産能力のありとあらゆる変化によって変わるものです。労働の生産能力は、実に様々な条件によって決定的されます。その中でも特に、平均的な労働者の熟練の度合い、科学とその技術の応用可能性の発展段階、その社会で各生産過程がどのように組み合わされているか、生産手段の規模とそれがもたらす効果の大きさ、そして自然の諸条件といったものが挙げられます。例えば、天候に恵まれた季節に8ブッシェルの小麦をもたらすのと同じ労働量で、不順な季節だと4ブッシェルしかもたらしません。同じ労働量を用いても、豊かな鉱山ではそうでない鉱山に比べて遥かに多くの金属を産出することができる等々です。ダイヤモンドは地殻の中に殆ど見出すことが出来ないので、これを手に入れるには平均的に多大な労働を伴うのです。従って、どんなにたくさんの労働を費やしたところで、ダイヤモンドは非常に少量しか採れません。金が未だ嘗てその価値に対して十分に支払われたことがあるか疑わしい、と言ったのはジェイコブですが、このことはダイヤモンドについてはもっとよく当てはまると言えます。エッシュヴェーゲによると、1823年には、ブラジルのダイヤモンド坑80年間の総産出量は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園1年半の平均生産量の価格に満たなかったというのです。ダイヤモンドの方が遥かに多くの労働力を要し、従ってより多くの価値を産むにも拘らず、です。豊かなダイヤモンド坑であれば、同じ労働量でより多くのダイヤモンドを産出でき、従ってその価格はより安くなることになるでしょう。より少ない労働量で石炭をダイヤモンドに変えることが出来れば、ダイヤモンドの価格は煉瓦よりも安くなることだってあるでしょう。一般的な言い方にまとめるとこうなります。即ち、労働の生産力が大きければ大きいほど、ある物の生産に必要な労働時間はより短くなり、従って、その物に集約された労働量はより少なくなり、従ってその物の価値もより小さくなるのである。反対に、労働の生産力が小さければ小さいほど、ある物の生産に必須な労働時間はより長くなり、従ってその物の価値もより大きくなるのである、と。故に、商品の価値の大きさは直接的にはその量によって変化し、また反対の方向としては、その商品に注ぎ込まれた労働の生産力によって変化するものなのです。
 ある物は使用価値として存在し、それ自身は価値を持ちません。これが当てはまるのは、労働を媒介とせずに人の役に立つものの場合であって、このようなものとしては、空気、人が入ったことのない未開の処女地、自然のままの草原、野生の樹木等々があります。またある物は、有用であって人間の労働による生産物でありながら商品としては存在しない、というものもあります。誰でも自分の生産物を通して自らの欲求を満たそうとする者は、使用価値を創造してはいるが、商品を創造していることにはなりません。商品を生産するためには、使用価値を産み出すだけでなく、他人にとっての使用価値、即ち社会的使用価値を産み出さなければならないのです。(但し、文字通り他の人のために生産すればよいというわけでもありません。中世の農民は領主に納める年貢としての穀物や僧侶に納める十分の一税ととしての穀物を生産しました。が、年貢としての穀物もにしろ十分の一税の穀物にしろ、他人のために生産されたからと言って商品とはならなかったのです。商品となるためには、生産物は他の人たちにとって使用価値としての役割を果たさなければならず、また、その物が交換されることによって広く伝播していかなければならないからです。)最後に、どんな物でも日用の役に立たないでは価値あるものとはなりません。もしそのものが役に立たないのであれば、その中に含まれている労働もまた役に立たないものであり、労働としては数えられませんから、故に何の価値も産み出さないのです。

     *   *   *

はい、以上が冒頭の第1節「商品の2つの要素・使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)」の全文になります。
私の『資本論』の翻訳はこの後同じ第1章の第4節を予定しています。
ドイツ語で読み終わったところで再開しますので、
それまで気長にお待ち下さい。

それでは、また!

2022年7月24日日曜日

【翻訳記事】『資本論』を読む(2)〜商品の2つの要素・使用価値と価値(その1)

それでは、以下、冒頭の第1節をお届けします。
冒頭の一文、普通は関係節が頭に来るように訳すと思うのですが、
ドイツ語の出だし、 "Der Reichtum der Gesellschaften"
(英語版では "The wealth of those societies")は、
明らかにアダム・スミスの『諸国民の富』 (Wealth of Nations)
を意識していると思われるので敢えて日本語でも
この言葉が冒頭に来るようにしてみたものです。

     *   *   *

第1巻 資本の生産過程
 第1編 商品と貨幣
  第1章 商品

    第1節 商品の2つの要素・使用価値と価値
       (価値の実体、価値の大きさ)

 社会の富——とりわけ資本主義的生産形態が支配的な社会の富——は「夥しい商品の集合体」として現れます。そしてそれを構成する要素は、個々の商品という形をとっています。そこで私たちの研究は、まずその商品の分析から始めることにします。
 商品とは、第一に、自分の外に存在する対象、ある物であって、その属性を通じてある種の人間の欲求を満たすものです。これらの欲求の性質は、例えばそれが胃袋に由来するものなのか、或いは想像や妄想に由来するものなのかといった、そうした事情によって変わるものではありません。また、物がどのように人間の欲求を満たすか、食べ物のような、つまり快楽の対象として直接か、或いは生産の手段として間接的にか、ということもここでは問題にはなりません。
 有益な物というのはどのようなものでも、例えば鉄だとか紙だとか、そのようなものは二つの観点から観察することができます。つまり、質と量とです。このように有用な物というのはどのようなものでも、多くの属性から成る集合体であって、従って、様々な面に於いて有用となるのです。このような、物が持つ様々な側面と、そこから生じる多様な使用方法を発見するのは歴史的な仕事です。有益なものの量を測るための社会的基準を見つけることもまた然りです。商品を測る基準がいろいろあるのは、或いはその測られる対象の性質に、また或いは慣習に由来しています。
 ある物の有用性は、それ自身に使用価値というものを与えます。しかしながら、この有用性というものは、宙に浮いている存在ではありません。有用性は商品の物理的な形が持つ属性によって決まるので、その商品の形が持つ属性を離れては存在し得ません。商品の形というのは、例えば鉄だとか小麦だとかダイヤモンドとかであって、その形自体が使用価値、つまり役に立つ良い物となっているのです。これら商品の形が持つ特徴は、その使用属性を取得するのに人がどれだけ働いたか、その働きが多かったか少なかったかによって変わるものではありません。使用価値を考えるにあたっては、常にある明確に決められた量を前提とします。例えば、時計なら何ダース、リネンなら何ヤード、鉄なら何トン等といったように。この商品の使用価値は、ある特殊な学問、即ち商品学とも言うべきものに研究の材料を与えるものです。この使用価値が現実のものとなるのは、実際に使用された、或いは消費された時になります。使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであっても、その富の物質的な内容を形成します。そして私たちが考えようとしている社会形態に於いては、使用価値は更に物質的な支えの器を形成するのです。即ち、交換価値です。
 交換価値は、まず量的な関係、つまりある種の使用価値が別な種類の使用価値と交換される比率として現れますが、これは時間や場所と共に常に変化する関係です。従って、交換価値は幾分偶然的な、そして純粋に相対的なものに見えますから、ある商品に内在する、その商品に固有の交換価値 (valeur intrinsèque) というのは形式矛盾 (contradictio in adjecto) であるように思えます。そこでこの事をもっと詳しく見てみることにしましょう。
 ある商品は、例えば1クウォートの小麦は、X個の靴磨き、Yヤードの絹、Zグラムの金等、一言で言えば、極めて異なった比率で他の商品と交換することができます。従って、小麦はただ一つの交換価値を持つのではなく、多様な交換価値を持っていると言えます。しかしここで、X個の靴磨き、Yヤードの絹、Zグラムの金は1クウォートの小麦との交換価値を持つわけですから、X個の靴磨き、Yヤードの絹、Zグラムの金は互いに交換可能な、または互いに同等な大きさの交換価値でなければなりません。ここで次の事が導き出されます。先ず第一に、ある商品の妥当な交換価値は、何かある同等のものを表しているということ。第二に、しかしながら、この交換価値というのは一般的に、商品に内在するもので、交換価値とははっきりと区別できるものの単なる表現方法、「現象形態」に過ぎないということです。
 2つのかけ離れた商品、例えば小麦と鉄を例にとってみましょう。その交換比率がいかなる値をとろうとも、それは常にある等式で表現できるのです。その等式に於いては、与えられた量の小麦に対してある量の鉄がバランスします。例えば1クウォートの小麦=aキログラムの鉄といったように。この等式は何を意味するのでしょうか。それは、2つの異なる物の間に、それ自身の大きさを持った共通な何かが存在するということです。つまり、1クウォートの小麦、aキログラムの鉄と共通な何かが、です。従って、先の二者は、ある第三者、それ自体は二者のどちらでもない第三者と同じなのです。交換価値に関する限り、先の二者は何れも、この第三者に還元されなければなりません。
 このことを簡単な幾何学の例を用いて説明しましょう。直線からなる多角形の面積を計算し、比較する時に、人はそれらの図形を三角形を使って解きます。三角形それ自体は見かけとは全く異なる図形に還元されます。即ち、その底辺に高さをかけた積を2で割るのです。同様に、商品の交換価値もある共通なものに還元され、それによって価値の大小が表されるのです。
 この共通なものは、幾何学的な、物理的な、化学的な、その他自然発生的な商品の属性ではあり得ません。商品の物理的な形状の属性が考慮されるのは、凡そそれ自体を使用しようとする時、従って使用価値として扱う時だけです。一方で商品の交換関係をはっきりと特徴づけるということは、その商品から使用価値を抜き取ってしまうということに他なりません。ある使用価値がそれ自体で他の使用価値と同程度に妥当であるのは、その使用価値が適切な比率で存在している場合だけです。或いは昔バーボンが言った言葉を借りれば、
 「ある種の商品が別なある種の商品と同じ程度に良いとされるのは、その交換価値の大きさが等しい場合である。同じ交換価値を持つ物の間には、差異や識別可能なものは何もない。」
 使用価値として見れば、商品とは、とりわけ様々な質を持ったものとして存在します。しかし、交換価値としては、商品は単に様々な量を持ったものとしてしか存在し得ず、従って使用価値の原子のようなものは全く含まれていないのです。
 商品の形が持つ使用価値を置き去りにすると、ある一つの属性、労働生産物の属性だけが残されます。ですが、その労働生産物もまた私たちの手の中で既に変わってしまっています。使用価値を切り捨ててしまったことで、私たちはまた、生産物に使用価値を与えている物理的な構成要素と形をも切り捨ててしまっているからです。そのような生産物はもはや、テーブルでも、家でも、糸でも、その他いかなる有用なものでもありません。その生産物を構成する目に見えるものは全て消え失せてしまうのです。それはもはや、大工が働いて産み出したものでも、建築家が働いて産み出したものでも、紡績工が働いて産み出したものでも、その他何か決まったものを生産するための労働による生産物ではありません。労働生産物の有用な特徴と共に、その生産物に見ることのできた労働の特徴も、従ってまたこれらの労働の具体的な形も消えてしまい、どれもこれも還元されて皆同じような人間の労働、抽象化された人間の労働というものになり果ててしまうのです。
 それではここでその労働生産物の残りを見てみましょう。そこに残っているのは、それ自身の実体のない塊、人間の労働がそれが何であったかわからないような形でゼリーのように凝り固まった物に過ぎません。即ち、そこには人間の労働が費やされているにも拘らず、どのように費やされたのか、その形態については全く考慮されていない状態です。これらのことは、今や私たちに次のことを示してくれます。つまり、それらを生産する過程で人間の労働力が費やされ、人間の労働が積み上げられたのだと。これらの生産物に共通する[労働という]社会的実体が結晶化したもの、それこそが価値ーー商品価値なのです。

     *   *   *

お疲れ様でした。
それではこの続きはまた明日!

【翻訳記事】『資本論』を読む(1)〜長い前置き

学生の頃から読まなければと思いつつも後回しになっている、
どなたにもそんな本がいくつかあると思います。
タイトルにあるカール・マルクスの『資本論』は大学生の時に、
経済原論の授業の中で山田克巳先生が次のように仰ったことが
きっかけとなっているのです。

「経済学を志す人が絶対読まなければならないのに、
 誰もちゃんと読んでないという本が2つある。
 アダム・スミスの『国富論』とカール・マルクスの『資本論』です。」

なるほど、確かに古典中の古典ですが、どちらも大部ですしね。。。
その時この2冊は絶対に読んでやろうと思ったわけなんですが、
今に至るまでどちらも途中になっています。

因みに、私の記憶に間違いがなければ、この山田克巳という先生は、
元々マルクス経済学をやっていて後に近代経済学に変わられた方で、
私が教わっていたのも当然近代経済学の原論だったのですが、
所々にマルクス経済学の観点から近代経済学の限界や誤りについて
触れられるのが自分にはとても新鮮で刺激になりました。
当時は私もミルトン・フリードマンの「小さな政府」に影響を受け、
巷では国鉄の分割民営化が進められている時代でしたので。

さて、『国富論』についてはある程度まで読み進めたものの、
『資本論』の方は何度か読みかけては全然頭に入って来ないので
その都度挫折しているのです。
で、2015年頃にトマ・ピケティの『21世紀の資本』という本が
話題になりましたが、その時いくつかの記事で
「ピケティは『資本論』をちゃんと読んでいるのか?」という
イジワルな記載があったことがきっかけになって、
そうだ、もう一度読んでみよう、と思ったのです。

が、手許にある岩波文庫版の向坂逸郎さんの訳は
やっぱりどうにも頭に入って来ない。
自分の頭が悪くて理解できないのか、それとも訳が悪いのか、
「一体元のドイツ語はどうなっているんだろう?」
そう思って2、3年前に Kindle でドイツ語版を購入、
早速ページを開いて見ると。。。
何と、とてもわかりやすい!@@
確かに、所々もって回ったどのように理解してよいか迷うところも
あるにはあるのですが、議論の進め方自体は明解なのです。
それで、通勤の電車の中でちょこちょこ読み進めていたのですが、
最近漸く冒頭の第1章第1節を読み終えたので、
自分自身の整理の意味も含めて、自分の理解した通りに
向坂さんの訳よりはもう少し普通の日本語でまとめたものを
この機会に公開することにしました。

『資本論』というと、共産主義の教科書的なイメージがありますが、
実際はこの本は徹底して資本主義を分析したものです。
(全体を通して「共産主義」という言葉は2回しか出てきません。)
そして、資本主義体制の国で生活し、仕事をしている私たちは
やはり資本主義というものがどういうものなのか、
どういう点で優れていて、どういう点がダメなのか、
ちゃんと理解しておく必要があると思うのです。
しかし、私自身がそうであったように、
この本に接してそれを理解する機会というのは
なかなかないのではないでしょうか。
そこでこの機会にこの日記を読んで下さっている皆さんにも
その片鱗だけでもお伝えできればと考えた次第です。

今回の訳では、極力マルクスが書いている文字通りに
私が受け止めた内容で日本語にしています。
この「文字通りに」というのは、共産主義の教科書として読むとか
或いは経済や歴史の本として読むとか、
或いはルイ・アルチュセールのように哲学の立場から読むとか、
そういう立場的なものを取り払って、という意味です。
そうは言っても、何かものを読む場合に、真に無心な、
完全に中立な読み方ができるものではありません。
どうしてもその人の経験や知識というフィルターを通して
読むことになるからです。
従って、どうしてもドイツ語の文字通りの論理で
日本語になりにくい場合は、思い切った言い換えもしています。
もっとよい表現を思い付いたら、誤訳しているところも含めて
この日記の原稿も修正するかもしれません。

さて、というわけで前置きが長くなりましたが、
次から2回に分けて『資本論』冒頭の1節をお届けします。
この膨大な『資本論』を全部訳すつもりはありません。
しかし、国語や古典の教科書で、
有名な作品の冒頭を暗記させられるように、
この有名な本の冒頭に触れておくのもよいでしょう。
併せて第1章の4節もこの本全体の方向を示しているようで
実に興味深いので、また時間のある時に訳出する予定です。

それでは!

報告とお願いw

さて、昨年10月にヒロシ初のアルバムを
ネット配信の形でリリースしたのですが、
半年経ったところでレポートしようと思っているうちに
何と3四半期も過ぎようとしています。

実は今年も同じ頃に2枚目をリリースしようとしているのですが、
1枚目はあまり売れてないので、2枚目リリースのタイミングで
配信を停止しようかと考えているところなのです。
まぁ、もう少しダウンロード販売が増えれば併売してもよいかなと、
そんなことを考えている今日この頃です。

そこでこの機会に6月までにどの曲がどのくらい売れているのか、
皆さんに報告させて戴きます。

・アルバムダウンロード販売数:3枚
・サブスク視聴数(再生回数順)
 1位:M08 宇宙開闢の歌         41回
 2位:M01 Rez Yourself 〜セカンドライフのテーマ〜  38
 3位:M11 正調・大クマクマ音頭     28
 4位:M02 ワクワクの島         28
 5位:M09 サンライズ          27
 6位:M04 さようなら 〜タージマハール〜 23
 7位:M06 メロディ           22
 8位:M03 ユー・アー・ア・レイ     22
 9位:M10 ONE             20
 10位:M05 同じ場所           16
 11位:M07 今宵逢ふ           13

ダウンロード販売3枚ってホントヒドくありません?www
ホントにホントに身近な友人だけが買ってくれたんだろうと思います。
まぁ、殆どの皆さんはサブスクで聴くので十分でしょうから。
私が配信を止めようと思っている理由もおわかりになると思います。
なのでホント、ダウンロードでご購入頂けると大変ありがたいです。
このあと少しでも販売数が増えると新譜との併売につながりますので。

あと、サブスクの再生回数の順位表もおもしろいですね。
一番取っつきにくくてワケのわからないはずの
「宇宙開闢の歌」が1位になっているのは、
これはあるグループでかなり話題になったことを反映しています。
これはとんでもない音の世界だ、と。
「セカンドライフのテーマ」が2位に入っているのは
1曲目だからでしょうが、「クマクマ」が3位というのは
これも一部の方がヘビーローテーションして下さったのでしょう。w
その意味では、SL 内ではあまり演奏していない
「ワクワクの島」が4位に付けていたり、
メッセージ性のある「サンライズ」が5位に付けているのは
とても嬉しい限りなのです。
逆に、かつては僕のテーマ曲として演奏していた
「ONE」が下位なのが残念なところです。

まぁ、そんなわけで、今回の日記は宣伝回です。w
リリース直後は曲紹介の記事などをせっせと書いてましたが、
宣伝のためにまた少し再開しようかと考えています。
今後とも引き続きご視聴どうぞよろしくお願いします。

■アルバムの試聴・ダウンロードはこちらからどうぞ

2022年7月10日日曜日

買いやすくなった Event Region

最近メタバースが盛り上がって来ている中で、
セカンドライフはいろいろと先を行っているところはあるけれど、
やっぱり一番弱いのがイベントをやると言っても、
1 SIM にせいぜい40人とか60人とかしか集められないので、
RL でイベントやってる人から見れば、
或いはイベントで収入を得ようとしている人から見れば、
ショボ! ってことになりますよね。
そういう声を反映してか、元々ずっと取り組んでいたのか、
私個人はやはりサーバを AWS にしたのがきっかけでは?
と思っているのですが、5月3日に Event Region、
即ち、イベント用 SIM のサービスが発売になりました。
このイベント用の SIM は収容最大人数が 175人ということなので
これまでの約3倍、これはとても魅力的ですね!
が、如何せん、毎月 US$899.00 の維持費は高すぎます!@@
最近は円安に振れてますので、136円計算で12万円超えますので
そんなの無理です。
下手したら RL の家賃より高かったりするんじゃないかしら。^^;

それが、SL19B 期間中の6月24日に、
この Event Region の廉価版が発表されました。

 
この廉価版は Event Region Pro と言う名前で、
毎月の維持費は US$599.00、8万円ちょっとですね。
それにしても通常の SIM が US$229.00、ホムステが US$109.00、
これらに比べると倍以上の価格なんですけどね。。。^^;

この Pro の発売により、5月に発売された US$899.00 の高い方は
Event Region Elite という名前に変更になりました。
Pro と Elite、比較してみるとこんな感じです。
(金額は何れも US$)

            Pro        Elite
・1月目の費用     599.00     999.00
・2月目以降の維持費  599.00     899.00
・最大収容人数     175        175
・最大 LI        月30.00で30,000 無料で30,000
・スクリプト性能    +20%      +20%
・会話範囲拡張     無料で拡張可能   無料で拡張可能
・ロールバック     1回につき25.00 無料で実施
・SIM のクローン    1回につき50.00 無料で実施

レズできるオブジェクトの数が通常 SIM に加えて50%
拡張できるというのは魅力的ですし、
スクリプト性能の向上や、会話の範囲が拡張できるのも
イベント用の SIM ならではですね。
(スピーカーを置いておかないと、イベントの時の皆さんの会話、
 僕のところまで届かないんですよね、いつも。^^;)
あと、ロールバック、即ち、過去のある時点の SIM の状態に
戻すサービスは、今は全ての SIM オーナーが利用できるようです。
Elite 以外では1回につき US$25.00 払う必要がありますけどね。
これ、特定のイベントのために模様替えをした場合など
簡単にイベント前の状態に戻せるので便利ですね。
US$25.00 なら、自分たちが作業する人件費より安いや。w

なんだけれども、ベースとなる維持費がやっぱり高いよねぇ。
前は YMB SIM でやりたい放題やっていたので、
やっぱりこういう SIM があるといいわぁ、と思う次第。
誰か買って買ってぇ!w

2022年7月9日土曜日

【技術情報】 不在中のグループ招待が受け取れるようになりましたね

紹介するのは5月25日の記事なので、
「情報」と銘打つにはちょっと古いもの。
ご存じの方も多いこととは思いますが、
僕には結構関係のあることなので敢えて触れておきます。

これは、先頃行われ、僕も参加した SL19B の情報を取ろうと
SL の公式ブログを見ていたときに気づいたものです。

・The return of offline offers!
 https://community.secondlife.com/blogs/entry/10856-the-return-of-offline-offers/

私のようにイベントに参加したり、イベントを主催していると
そのイベント用のグループ招待を受け取ったり送ったりということが
日常茶飯に発生するのですが、
このグループ招待、いつの頃からかオフラインの時に届くと
ログインして表示されても実際には受け取れない、
という仕様になっていました。
つまり、送る側と受け取る側が同時にログインしてないと
うまくグループに参加できずに、何度も送ってもらったり
送ったりしないといけないという状況が続いてました。
なので、SLB や Burn2 のように、僕のステージに
ケルパさんやしんさんに協力してもらう時も
なかなかスタッフの方との都合が合わず、
本番直前で送ってもらうこともしばしばありました。
ケルパさんの場合は、ちゃんとステージが置けるかとか
スクリやパーティクルがちゃんと動くかとか
いろいろチェックするところもありますので
直前というのはかなりリスキーだったんですね。

それが、オフラインでも受け取れるようになりました!
というのが上のリンク先の記事の内容になります。
最初に書いた通り、この記事を見つけたのは SL19B の
準備をしている時でしたので、早速実験してみました。
スタッフの方がオンラインでない時に
僕からケルパさんとしんさんへの招待をお願いして、
スタッフの方はケルパさん、しんさんがオフラインの時に
送ってくれたのですが、無事、お二人とも受け取れました。
よかった!^^
ちゃんとこの機能動いてくれているようです。

但し、ブログにありますように、
このオフラインで受け取れる機能には制約があります。
まとめると、

・招待は「通知」ウィンドウに表示される
・オフラインでの通知を受け取れるのは、最初のログインから
 24時間、または最初のログインを行った SIM が再起動されるまで
・最初にログインした SIM 以外では受け取れない

2点目と3点目、結構重要ですのでご注意下さい。
特に火曜日とかは週次の SIM 再起動がかかりますので、
タイミングによっては24時間以内に招待が消えてしまうこともある、
ということになりますので。

最後に、これは YMB 関係者への連絡になります。
以前、YMB の新しいグループを作って、ここ2年くらいの間に
ログインしている皆さんに招待を送ったことを書きましたが、
殆どの方は受け取れていないと思います。
そこで、このオフラインでの招待受け取り機能が復活した今、
もう一度新しいグループへの招待を送りますので、
受け取ったら必ず「参加」ボタンを押して頂くようお願いします。
暫くの間グループ通知等は旧来のグループで皆さんに送りますが、
多くの皆さんの移籍が完了したところで
全面的に新しいグループに切り替えて行こうと考えています。
どうぞよろしくお願いします。

【RL】 とっても残念な SF 映画「紀元前1万年」

ちょっとした時間の隙間で「紀元前1万年」という映画を観た。
このタイトルは僕には昔懐かしいレイ・ハリーハウゼンの
「恐竜100万年」という映画を思い出させた。
ポスターの絵もマンモスが描かれているので
あれのリメイクをローランド・エメリッヒがやったのかなぁ、
くらいにしか思っていなかったのだ。
「恐竜100万年」という映画は1940年のモノクロ映画
「紀元前百万年」のリメイクなのだが、
どちらも英語のタイトルは "One Million Years B.C." で同じ、
ローランド・エメリッヒのは "10,000 BC" でよく似ているが
ああ、桁が違うよね、というのはあとで気づくのだった。

なので原始人映画のつもりで観始めたら、
いきなり主人公達が英語でベラベラ喋り出すのにまず違和感。
ハリーハウゼンのは、子供の時にテレビの吹き替えで観たので
もう殆ど記憶にはないのだが、あまり台詞らしい台詞がなかったかと。
その英語で話す人々の村を馬に乗った人々が襲いに来るのだが、
どう見ても中世イギリスのアーサー王とかロビンフッドとか
そういう時代に見えて仕方がなく、ダメだこりゃ、
と思っていたところが。。。

ところが、である。
馬に乗った人々に仲間を連れ去られた様々な部族の戦士を糾合して
馬に乗った人々の本拠地に乗り込もうとすると
そこは連れ去られた多くの奴隷を使って
巨大ピラミッドの建設を行う巨大な都市国家であった、という展開。
支配者階級は「神」と呼ばれる常に御簾の陰にいる存在と
不思議な言葉を話し、その存在に仕えるのだった。
そして、その神は「しるし」を持った人間が現れると
滅びるとの予言があったのだが、その「しるし」とは、
馬に乗った人々に連れ去られた主人公の許嫁の手の甲に刻まれた
オリオン座の形をした痣だったのだ!

と、ここまで来て、「100万年」でなく「1万年」の理由がわかった。
なるほど、これは原始人映画ではなくて、
古代宇宙飛行士説に基づいて紀元前10500年頃に
大洪水で滅んでしまったと言われる超古代文明を描く
SF 作品だったのだ。
エジプトのピラミッドを始め、世界中の古代遺跡が
10500年前の星の位置と関係していることは有名な話だし、
エジプトやテオティワカンのピラミッドの配置が
オリオン座の三つ星の形と同じであることも有名だが、
古代宇宙飛行士説では、宇宙から来た人々が
人間に技術を教え、或いは人間そのものを創り、
彼らの目的を達成するためにこれらの遺跡を造ったという。
「紀元前1万年」はその古代宇宙飛行士説に基づいた世界観を
表現しようとした作品だったのだ!

そうすると気になるのは、「神」と呼ばれる存在の姿だ。
私は頭の長い姿を想像したが——古代エジプトの神々のように——、
どちらかと言うとグレイに似た姿であるようだった。
しかし、グレイは目が真っ黒であるが、寧ろ透き通った青だ。
このあたり、ちょっとイマイチだなぁ、と思うヒロシ。w

主人公の許嫁は、元々襲撃された村の生き残りで青い瞳をしていた。
この青い瞳の少女が世界を救うという予言があったのだが、
この許嫁は、主人公が「神」の許から救い出した時に、
弓矢に当たって一命を落としてしまう。
が、奇跡的にも再び青い瞳に輝きが戻り息を吹き返すのだ。
ナレーションは「こうした青い瞳の子供の新しい物語が始まった」
といった内容を伝える。

とすると、これはスターチャイルドの要素も取り込んでいるのか?
ホピ族には青い星が地球に衝突し、そこから新しい時代が始まる
という伝説があるらしい。
或いは、星から来た子供が部族の長となり人間を救うという
そんな伝説もあるらしい。
こうした伝説もこの映画の下敷きになっているのだろう。
が、そうだとすると「神」と彼女はどうしてどちらも青い目なのか、
どうして彼女の存在が「神」の滅亡につながるのか、
「神」も彼女と同じオリオン座から来たのではないのか、
こういった疑問を僕なんかは抱いてしまうわけ。

結論を言うと、日本ではあまり真面目に捉えられていない
古代宇宙飛行士説を描こうとしたこと自体に
とても共感を覚える一方で、いろいろなことが中途半端で
とても残念だなぁ、と感じるわけです。
そもそもタイトルとポスターが誤解を生むし、
だから、「古代の歴史に忠実でない」という、
実は的外れな批評を受けて評価が下がる結果に陥っている。
もっと古代宇宙飛行士説をベースにした SF 色を前面に打ち出せば、
また違った評価になっったのではないかと。

僕なら——と、映画づくりなんかできないことはおいて書くと——、
ポスターにはマンモスではなくてピラミッドの絵を入れるでしょうね。
そして、台詞は極力廃しつつ、英語ではなくシュメール語がいいね。
(そう言えば、各部族の戦士たちが集まった時の掛け声が
 「ヤハラ!」だったが、これもアラビア語で「万歳!」の
 意味なので、一般のアメリカ人にはわからないかもしれないが、
 アラビア語がわかる人にはすぐわかるのでイマイチだった。w
 アメリカにも今はアラビア語話す人は多いはず。)
あと、各地の村を襲撃する人々が乗る動物も
馬ではなくて駱駝でしょう、やっぱり、雰囲気が出るのは。
或いはもっとラディカルに、宙を浮く船のようなものの方が
宇宙人感があってよろしい。

それから、主人公の許嫁がピラミッドの神と対立するなら、
彼女はオリオン座でなく、シリウスかプレアデスから来た
スターチャイルドという存在の方がよろしい。
そしてスターチャイルドということであればかぐや姫を思い出す。
僕ならこれにエノク書とかノアの伝説を絡める。
即ち、地球に彼らのエネルギー源である物質を求めて
オリオン座から訪れた頭の長い宇宙人は人間を奴隷にして
基地となるピラミッド建設を進めるが、
これとは別に宇宙の平和を司るプレアデス由来の宇宙人
「見守る者」たちは人間の中にスターチャイルドを送り込み
この子供たちを通じて地球の情報を得ていた。
そして、オリオン星人の行おうとしていることが、
人間や地球だけでなく、宇宙の平和をも脅かすことを知った
「見守る者」たちは巨大な母船で地球に近づいてビームを発射、
これによって地球の気候が大きく変動して大洪水が起こり、
オリオン星人の文明は滅び、人間もスターチャイルドに導かれた
ごく一部の人たちだけが生き残ることになる。
こうして人類の新しい時代が始まったのだった——。
スターチャイルドは、人類を救ったあと、
上空に現れた母船に乗ってプレアデスに還って行ってもいいね。
かぐや姫のように。。。

いや、このくらいじゃないと SF としておもしろくないかな、と。
「紀元前1万年」では、高度な文明を持った「神」を
たくさんの人間が力を合わせることで倒してしまうけど、
これって結局「インディペンデンス・デイ」と同じ発想で
あまりにお目出た過ぎる。
これがこの監督の限界なのかもしれないですね。
この映画のあとマヤ暦を扱った「2012年」を製作していることから
この監督、古代宇宙飛行士説に関心ありそうではありますが。。。

誰か僕が上に書いたプロットで映画作ってくれないかなぁ。
かなり面白くなると思うんだけど。www

・紀元前1万年

2022年7月4日月曜日

メタバース内でのイベントのあり方について

前回、メタバースが向いているのは没入感のある体験だ、
ということを書きました。
その例としてゲームを挙げましたが、ドラクエでも FF でも、
自分自身がゲームのキャラクターとなってゲームの世界を
冒険するのは楽しいでしょうし、
最近の Nintendo Switch のスポーツなんかは、
家に居ながらにしてテニスやゴルフを楽しめるんじゃないでしょうか。
こういう、自分自身が動いて何かをするものは
その没入感たるやすごいものがあると思います。

方や、自分が見る側に回るイベントだとどうでしょうか?
例えば、有名なアイドルのコンサートが RL の会場ではなくて
メタバース内で行われるとしたら?
それを観に行く私たちは勿論アバター姿で観に行くわけですが、
当の出演するアイドルはどのような形でメタバース内に
存在するのでしょうか?
つまり、生の姿で登場するのか、アバターとして登場するのか、
ということです。

基本的にはアイドルのファンとしてはアバターでなく
生のアイドルを見るために会場に足を運ぶのでしょう。
しかし、メタバース内に生のアイドルを登場させるとすると
今のところはスクリーン映像で、ということになるでしょう。
それだと平板ですし、ウェブ配信で見ているのと変わりませんし、
ライブビューイングの方がよっぽど盛り上がるんじゃないでしょうか?
その一方で、アバターとして同じ会場内にそのアイドルがいれば
これはかなり近くにいることができるわけで、
多少本物と似てなくても、それはそれで盛り上がるかもしれません。
が、そのアバターを動かしているのが当のアイドル本人とは
限らないかもしれません。
アイドルが歌ったり踊ったりするその動きそのままに
アバターを動かせるようになるのには
もう少し時間がかかるように思えます。
当面はセカンドライフでの U2 ライブに代表されるように
音源とアバター操作とは別々に行うようなことが
最も普通な形態となるかもしれません。
ご参考までに当時話題になったその U2 の
最も初期の SL ライブの映像をどうぞ。
この頃はまだアバターのクォリティが低いですね。www


音楽イベントの場合はこのように、アーチストがアバター化して
同じメタバース内で動き回ることが可能ではあるのですが、
もっと厄介なのがスポーツイベントです。
これも、メタバース内にスクリーンを設置してそれを見るのであれば、
簡単に実現はできるものの、
あまりメタバースでやっているという意味がないですね。
ではアバターで? となると、音楽イベントの場合と違って、
例えば現実の競技場で行われているサッカーの試合の通りに
ボールが動いてアバターが動いて、というのは至難の技ですね。
いつかはそういう技術も登場するでしょうけれど。
(1秒の30分の1のスピードでレンダリングできる
 3Dプリンターのような技術があって、
 それを連続してリアルタイムでレンダリングできれば、
 現実の世界の動きをメタバース内で再現できるような
 そんな気はするのですが。。。)

このように考えると、見るイベントと言っても
メタバース化しておもしろいのはせいぜい音楽イベント止まり
という感じがしています。
メタバースを使ってマネタイズできるものというのは
まだまだ限られていると感じているヒロシであります。。。

2022年7月3日日曜日

メタバースや NFT で何をしようとしているのだろう?

先週は、SL19B での新旧経営陣のインタビューを見て
感じたことを2回にわたって書かせて戴きましたが、
それを踏まえながら、もっと一般的に、
昨今話題になっているメタバースや NFT について
感じていることを綴ってみたいと思っています。

結論から言ってしまうと、Facebook が社名まで変えて
メタバースに注力すると発表してから
殆ど日本では忘れ去られていたと思われるメタバースが
急に盛り上がって来ていますが、そもそもメタバースというのは
プラットフォームに過ぎないので、運営会社はその中で
何を顧客となる個人や企業にしてほしいのか、という
グランドデザインがないとセカンドライフの真似をして
タケノコのようにたくさん生み出されては消えていった
15年前の経験を繰り返すだけになってしまうと考えています。
先日のセカンドライフ経営陣のインタビューでは、
ユーザーにお金を儲けてもらうのが自分たちの願いで
従って、ユーザーへの課金は最低限にする方針であることを
明言していましたが、どうもメタの Horizon World は
クリエイターの作ったものに対して47% の手数料をかけるようで、
明らかにユーザーからお金を搾取することを考えているようです。
しかし、そんな空間に個人や企業が参入したいと思うでしょうか?

この日記を読んでいる方々の殆どはセカンドライフの住人だと
思っていますが、そうでない方のために少し触れておくと、
メタバースで何かを行うということははっきり言って
メンドクサイのです。w
例えば、通信環境次第では、歩くだけでものすごく時間がかかったり、
或いは、自分が意図しないような動きをアバターがすることも
あるわけなんです。
なので、例えば Amazon が完全にメタバース化されて、
何かを買うのにメタバース内のモールの商品棚に歩いて行って
それを手に取ってカゴに入れるようなことをしないといけなくなると
きっと僕は Amazon を使うのをやめてしまうでしょう。
そんなメタバース内のモールを歩き回るよりは
ホームページ上のリストをザッピングする方が遥かに多くの商品を
短時間で確認して選び、購入することが可能だからです。
それは社内のオンラインミーティングでも同じです。
Zoom や Teams、Webex といった環境が整っている現在、
わざわざメタバース上の会社に出勤する必要はありません。

メタバースが絶対的に有利なのはこうした EC サイトではなくて、
「没入感」が必須の体験だということです。
となれば、それはライブやスポーツなどのイベント、
或いはゲームといったものに限られています。
或いは普通は行けない場所への旅行、というのもあるでしょう。
(例えば、今はなくなった江戸城の中を巡るツアーとか、
 南極やピラミッドの普通は公開されていない場所へのツアーとか)
しかし、それ以外に企業ができることというのは、
せいぜい宣伝だけだと思います。
ちょうど15年前にセカンドライフの中に
日産の車の自動販売機があったように。
当時企業が自社ブランドの車をセカンドライフ内で配るなんて
珍しいことでしたから、みんなあの自動販売機に行って
日産の車をもらってきて、それに乗って遊んでましたよね。w
でも、セカンドライフ内でのドライブは勿論面白いけど、
それは、実際に車を運転する感覚とは違うんじゃないかな。

今車と旅行の話が出たので話を広げると
こうしたものは、敢えてメタバースでなくて VR でいいと
僕自身は考えているんです。
VR とメタバースと混同されてきているところがあるように
思うのですが、
VR の世界では既に海外ツアー、運転のシミュレーション、
不動産の内覧といったものがとっくの昔に実現しています。
更に言うと、先ほどの Amazon で商品を選ぶという話ですが、
これもウェブ上で商品を選びづらいのは服や靴などの
衣類だったりしますが、VR や AR の技術を使えば
自分が着たり履いたりした時の感じがわかるようになります。
メタバースだと、そもそも自分はアバターですし、
そこで着たのと同じものが現実の世界で届く保証は
ないじゃないですか。www
多くの企業にとっては、求められているのはメタバースではなく、
VR/AR の技術を自社の商品販売に取り入れていくことだと
僕自身は考えています。

更に、セカンドライフの日産の車の話を広げると、
NFT、これはメタバースとは親和性がありますね。
もともと、世の中に1つしかない故の価値、ということになると、
これはもう美術品の世界ですね。
ダ・ヴィンチの「モナリザ」がその代表かもしれませんが、
1枚しかない故の価値というのがあるわけです。
一方、音楽は20世紀の「レコード」の発明で
大量生産大量消費の対象となってしまい、現在では
デヴィッド・ボウイが予言したように水のように
殆どただで消費されるものになってしまいましたが、
1983年に我が敬愛するジャン・ミシェル・ジャールが
1枚だけのレコードを製作してオークションにかけたように
今後は NFT を使って持っている人しか聴けない音楽
というのが出てきてもおかしくないでしょう。
何れにしても、世界に1つだけの価値、ということになれば、
アートの世界で今後発展していくものと考えています。

そして、NFT のもう一つの使われ方が、
メタバース内のアイテムとしてのものです。
例えば先ほどのセカンドライフ内の日産センティアは
ただで配られていましたが、例えばフェアレディZの
特別仕様車を1台限定で販売して、
メタバース内で乗り回すことができる、といった展開が
可能だと考えています。
企業がメタバースに参入するとすれば
このような形の方が自然かもしれません。

新しい技術というのは早く参入したもの勝ち、
というのがあるのは事実ですが、
その一方で、その技術を使って自分、自社で何ができるのかは
よくよく考えた方がよいと思っています。
メタバースの1つに Earth2 というのがあって、
現実の地球上にあるのと同じ土地や都市が広がっていて
その土地を買うというのが盛り上がっていますが、
何れその土地で都市づくりができるようになるものの
現時点ではまだ不動産の購入しかできないようです。
こうした土地を買った人は何をするのだろう? と思うのです。
例えば、渋谷の交差点の土地を買った人は、
そこに現実の109やQ Front を再現するのでしょうか?
それともそうしたものを無視して、例えば大聖堂を築いたり、
或いはビーチにしたりするのでしょうか?
前者であればプラモデルの延長のような楽しみしかありませんし、
後者であれば敢えて渋谷のその土地を買う意味がありません。

メタバースで何ができるか、それを考えるには、
一度セカンドライフに遊びに来ることをオススメしたいと思います。
現実の世界を忠実に再現したものもあれば、
現実の世界ではあり得ない空間もあり、
また、ほっと一息つけるような和める場所もありで
多くの可能性に満ちた世界になっていますよ。
セカンドライフは失敗した、終わった、と言っているのは
結局のところメタバースの可能性を感じとれなかった人たちです。
メタバースが盛り上がってきている今、
もう一度セカンドライフを振り返ってみてはいかがでしょうか。

※「没入感」に関連して、ライブとスポーツに関しては
いろいろと感じることがあるので、
また別の機会に詳しく触れることに致しますね!