2022年7月25日月曜日

【翻訳記事】『資本論』を読む(3)〜商品の2つの要素・使用価値と価値(その2)

前回は『資本論』冒頭の1節の前半を読みました。
マルクスの論法は明解で、

1. 資本主義社会の富は「商品の蓄積」として現れる
2. 従ってまず「商品」を分析することにする
3. 商品には使用価値と交換価値がある
4. 商品から使用価値を抜き取ったものがその商品の価値
5. 使用価値を抜き取ったあとに残るのは人間の労働

というわけで、もう最初の1節でマルクス経済学の
本質に近いところに迫って来るわけです。
それでは今日はその続きを見ていきましょう。

     *   *   *


   第1節 商品の2つの要素・使用価値と価値
      (価値の実体、価値の大きさ)〜続き

 商品自体の交換関係においては、その交換価値はその使用価値から全く独立しているもののように私たちの前に現れました。労働生産物から使用価値を取り除いてしまう時、その生産物の価値を手に入れることができる、これが今定義されたことです。商品の交換関係の中に、或いは交換価値の中に姿を表す共通なもの、それがその商品の価値なのです。研究を進めるにつれて、私たちは再び価値にとって必要な表現方法、或いは表現型としての交換価値に戻って来ることになるでしょう。しかし今は、これらの形から離れて価値というものを観察することにします。
 ある使用価値、或いは有用なものというのはたった一つの価値しか有していません。それはそれらの中に抽象化された人間の労働が具現化され、物質化されているからです。それでは、それらのものの価値の大きさはどのように計ればよいのでしょうか? それは、その中に含まれる「価値を形作る物質」、即ち、労働の量によって、ということになります。その労働の量は時間の長さによって計量されるもので、その労働時間には更にそれを一定の部分、即ち、時間だとか日だとかに切り分ける物差しがあるのです。
 もし商品の価値がそれを生産するために継続的に使用された労働量によって決定されるとすると、人が怠けたり不器用だったりするほどその商品の価値が高くなるように思えて来ます。というのは、それを製造するためにより多くの時間を必要とするからです。しかしながら、価値の本質を形成する労働というのは、人間による均一な労働のことを、即ち、同じだけの人間の労働力が使用されることを言っているのです。商品世界の価値に現れる社会全体の労働力は、一つの、均一な人間による労働力と見做してよいのです。それが数えきれぬほどの個々の労働力から成り立っているにも拘わらず、です。これら個々の労働力というのはそれぞれが他のものと同じです。その労働力が社会の平均的な労働力の性質を備えており、そのような社会の平均的な労働力として機能している限りに於いて。即ち、ある商品の生産に当たって平均的に必要とされるだけの労働時間、或いは社会が必要とするだけの労働時間がかかる限りに於いてです。社会が必要とするだけの労働時間とは即ち、利用可能な社会的な基準を満たした生産条件とその仕事を行うための社会的に平均的なレベルの熟練や集中力をもってある使用価値を産み出すために必要な労働時間のことなのです。例えば、イングランドに於いて蒸気機関による力織機が導入されて以降は、一定量の糸を布地にするには、それ以前と比べて恐らく半分の労働で十分でした。イングランドの手織物業者は、実際にこの糸を布地に変えるのにそれ以前と同じ時間がかかっていたのですが、一人一人が1時間の労働で生産できるものは、今や社会がその半分の時間の労働で生産できるものに過ぎなくなっていて、その結果、それ以前の半分の価格にまで下がることになったのです。
 このように、ある物の価値の大きさを決めるのは、その社会が必要とするだけの労働量か、或いはその使用価値の生産にその社会が必要とするだけの労働時間の何れかのみとなるのです。ここでは個々の商品は、一般的に言ってその商品が属する種類の平均的な見本と見做すことができます。このようにして、同じ大きさの労働量が含まれている商品、或いは、同じだけの労働時間によって生産され得る商品は、同一の価値を持つようになるのです。ある商品の価値と、他の商品の価値の比率は、あるものの生産に必要なだけの労働時間と、他のものの生産に必要なだけの労働時間の比に等しいのです。「価値として見るならば、あらゆる商品は労働時間を固めて明確な形を与えられた塊に過ぎないのである。」
 ここに於いて、ある商品の価値の大きさが変わらないでいられるのは、生産に係る労働時間が一定である、という前提に基づいています。しかしながら、後者の労働時間というのは、労働生産能力のありとあらゆる変化によって変わるものです。労働の生産能力は、実に様々な条件によって決定的されます。その中でも特に、平均的な労働者の熟練の度合い、科学とその技術の応用可能性の発展段階、その社会で各生産過程がどのように組み合わされているか、生産手段の規模とそれがもたらす効果の大きさ、そして自然の諸条件といったものが挙げられます。例えば、天候に恵まれた季節に8ブッシェルの小麦をもたらすのと同じ労働量で、不順な季節だと4ブッシェルしかもたらしません。同じ労働量を用いても、豊かな鉱山ではそうでない鉱山に比べて遥かに多くの金属を産出することができる等々です。ダイヤモンドは地殻の中に殆ど見出すことが出来ないので、これを手に入れるには平均的に多大な労働を伴うのです。従って、どんなにたくさんの労働を費やしたところで、ダイヤモンドは非常に少量しか採れません。金が未だ嘗てその価値に対して十分に支払われたことがあるか疑わしい、と言ったのはジェイコブですが、このことはダイヤモンドについてはもっとよく当てはまると言えます。エッシュヴェーゲによると、1823年には、ブラジルのダイヤモンド坑80年間の総産出量は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園1年半の平均生産量の価格に満たなかったというのです。ダイヤモンドの方が遥かに多くの労働力を要し、従ってより多くの価値を産むにも拘らず、です。豊かなダイヤモンド坑であれば、同じ労働量でより多くのダイヤモンドを産出でき、従ってその価格はより安くなることになるでしょう。より少ない労働量で石炭をダイヤモンドに変えることが出来れば、ダイヤモンドの価格は煉瓦よりも安くなることだってあるでしょう。一般的な言い方にまとめるとこうなります。即ち、労働の生産力が大きければ大きいほど、ある物の生産に必要な労働時間はより短くなり、従って、その物に集約された労働量はより少なくなり、従ってその物の価値もより小さくなるのである。反対に、労働の生産力が小さければ小さいほど、ある物の生産に必須な労働時間はより長くなり、従ってその物の価値もより大きくなるのである、と。故に、商品の価値の大きさは直接的にはその量によって変化し、また反対の方向としては、その商品に注ぎ込まれた労働の生産力によって変化するものなのです。
 ある物は使用価値として存在し、それ自身は価値を持ちません。これが当てはまるのは、労働を媒介とせずに人の役に立つものの場合であって、このようなものとしては、空気、人が入ったことのない未開の処女地、自然のままの草原、野生の樹木等々があります。またある物は、有用であって人間の労働による生産物でありながら商品としては存在しない、というものもあります。誰でも自分の生産物を通して自らの欲求を満たそうとする者は、使用価値を創造してはいるが、商品を創造していることにはなりません。商品を生産するためには、使用価値を産み出すだけでなく、他人にとっての使用価値、即ち社会的使用価値を産み出さなければならないのです。(但し、文字通り他の人のために生産すればよいというわけでもありません。中世の農民は領主に納める年貢としての穀物や僧侶に納める十分の一税ととしての穀物を生産しました。が、年貢としての穀物もにしろ十分の一税の穀物にしろ、他人のために生産されたからと言って商品とはならなかったのです。商品となるためには、生産物は他の人たちにとって使用価値としての役割を果たさなければならず、また、その物が交換されることによって広く伝播していかなければならないからです。)最後に、どんな物でも日用の役に立たないでは価値あるものとはなりません。もしそのものが役に立たないのであれば、その中に含まれている労働もまた役に立たないものであり、労働としては数えられませんから、故に何の価値も産み出さないのです。

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はい、以上が冒頭の第1節「商品の2つの要素・使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)」の全文になります。
私の『資本論』の翻訳はこの後同じ第1章の第4節を予定しています。
ドイツ語で読み終わったところで再開しますので、
それまで気長にお待ち下さい。

それでは、また!

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