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2025年9月8日月曜日

ホロヴィッツのこと

昨日はピアニストのラーザリ・ベルマンのことを書いたけれども
その流れで今日はウラジミール・ホロヴィッツについて
書いてみようと思う。
これは、2年くらい前だったかあるピアニストの方から
「ホロヴィッツは好きですか?」と聞かれて
返事に困ったことがあるからだ。
その時僕はホロヴィッツの演奏のとんでもなく凄いことを
きっと熱く語っていて、それを黙って聞いていた彼女が
その質問をしたのだと思う。
返事に困ったのは、好きとか嫌いとか、
そういうレベルの話ではないからなのだ。

僕が初めてホロヴィッツと意識して聴いた演奏は
例の、1951年の『展覧会の絵』のライヴ録音で、
これはもう、出だしの「プロムナード」からぶっ飛んでしまった。
何と言う迫力!
それまでアシュケナージの寧ろ美しい演奏で聴いて
どこか物足りなさを感じていた僕は
たちまちこの演奏に魅せられてしまったのだ。
一瞬たりとも聴き手を飽きさせない、
グイグイと引っ張っていく演奏。
最後のバーバ・ヤーガからキエフの大門に至る盛り上げ方は
ハンパでなく、エンディングは元の楽譜にはない
ホロヴィッツが即興的にだろうか、沢山の音が追加されているのだ。
これには呆れてしまった。
これは原曲通りではない、しかし無視できない演奏、
ムソルグスキーらしさを最も実現した演奏と言えまいか!

その後、『展覧会の絵』については、
1958年にスヴィャトスラフ・リヒテルがソフィアで行った
コンサートの演奏が素晴らしいと聞いて、これも買って聴いた。
確かにこれも凄い演奏だ。
というのも、こちらは楽譜通りに弾かれているにも拘わらず
ホロヴィッツとはまた違った迫力のある、感動的な演奏なのだ。
僕は、最初に聴いたアシュケナージの演奏は
楽譜通りだからつまらないのだと思っていたが、
リヒテルのこれを聴いて考えを改めた。
楽譜通りでも、演奏家によってその表情は大きく異なる、と。
かくて僕の中で理知的な演奏のリヒテルと
情熱的な演奏のホロヴィッツとは、どちらも同じ19世紀的な
ヴィルトゥオジテの演奏ながら、全く違った行き方として
常に気になる存在となったのである。

そのリヒテルの名盤の一つに、
シューベルトの「ピアノソナタ第21盤変ロ長調 D960」がある。
これは、シューベルトの遺作でもある長い長いソナタで、
「グレート」と呼ばれる彼の第9番交響曲同様、
僕にはとても耐えられない、何をやっているのか
分からないうちに眠ってしまうような曲なのである。
その長い第21番のピアノソナタの名盤と言えば
リヒテルがメロディアに遺した演奏が挙げられることが多く、
僕もその演奏で聴いて知っている曲だったのだ。

が、この曲をホロヴィッツがアメリカデビュー25周年のライヴで
弾いているのを聴いてまた魂消てしまった。
リヒテルに比べると遥かにテンポが速いのだ。
全く違う曲に聞こえると言ってもいい。
この内省的な曲はリヒテルのように弾くのが本来なのだろうが、
テンポを速く取るホロヴィッツは、あっと言う間に4楽章を弾いて
聴く人を飽きさせない。
これもまた楽譜通りかどうかを別にして、
無視できない名演と言っていいだろう。

そしてチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」である。
これも、カラヤン/ヴィーン交響楽団と共演した
1962年録音のグラモフォン盤の評価が高く、
やはり自分もこの演奏で聴いていたのだが、
最初に書いたホロヴィッツの『展覧会の絵』を
CD で買い直した時に、そのカップリングがこの曲だったのだが、
ホロヴィッツが奏でるピアノの響きにも
トスカニーニ指揮の NBC 交響楽団が奏でるオケの音色にも
参ってしまった。
何と言う濃厚な、19世紀的な音。
現代的な演奏が次々に出て来ている中で、
これはいかにも大時代的な、甘ったるい音なのだが、
その甘ったるさこそが僕らの魂の深いところをくすぐるのである。
僕は長い事チャイコフスキーは苦手だったのだが、
もしかして、ホロヴィッツのこの絢爛豪華な演奏こそ
チャイコフスキーのこの曲を有名にしたのではないか、
そんなことを思わせる演奏なのである。
そう、これもまた無視できない演奏なのだ。

ところでホロヴィッツと言えば、例の吉田秀和さんが
『世界のピアニスト』の中でこのように書いておられる。

「しかし、さすがのホロヴィッツも、行きすぎて、いわば対象をのりこえて名人芸の空まわりに終わる演奏をしたことも事実だ。たとえば、彼が自分で編曲し演奏した米国国歌『星条旗の下に』のレコード。あれはショッキングだった。私は唖然としてしまった。十九世紀の悪達者な名人たちならいざ知らず、万事につけて合理的になている二十世紀の巨匠で、名人芸が、これほどグロテスクな域に達した演奏は、類があっても、ごく少ないのではないか。貴重なものの無償な浪費こそ楽しいという人もあるだろうが、これは名人の悪趣味の典型みたいなものだった。」

僕がこの文章を読んだのは学生の頃だったと思うが、
吉田さんがここまで酷評する演奏はどんなものなんだろうと
ずっと不思議に思っていた。
しかし、『展覧会の絵』のような大曲の CD は買っても
『星条旗』のようなものをその興味のためだけに買うことは
到底できることではないので、ずっとそのままになっていた。
と、最近、昔 LP で持っていたホロヴィッツが弾いた
メンデルスゾーンの「無言歌」を聴きたくなって
RCA から出ている小品集を買ったらそこに入っていたのだ、
「星条旗よ永遠なれ」が。

どれどれ、と思って聴き始めたら、暫くして
僕は可笑しくなって笑い出してしまった。
この曲は勿論スーザが書いた吹奏楽の曲なのだが、
ホロヴィッツは10本の指でその吹奏楽の各パートをの音を
弾き分けるのだ。
ピアノからピッコロの音が、トロンボーンが聞こえて来るのだ。
そう、これは一人吹奏楽と言っていい演奏。
『展覧会の絵』で、これでもかこれでもかと
原曲にはない音を追加した人らしく、
一人で吹奏楽の各パートを弾き分けるのだ。
これはもう、音楽的な演奏というより曲芸の範疇に入る。
吉田さんがグロテスクとか悪趣味と言ったのは
きっとこのことだったのだろうと今更のように思うのである。

しかし、ピアノを使ってこんなことができる、
ピアノを使ってこんな音が出せる、
ピアノという楽器の表現力をとことん突き詰めた演奏というのが
これまで述べて来たどの曲にも言えると思う。
だから無視できないのだ、同じピアノを弾く人間にとっては。
それは、決して模範的な演奏ではないかもしれないけれども
音楽というのが表現の芸術である以上、
ここまで追究された表現を、同じ表現者としては無視できない。
それは、好きとか嫌いとかを超えた何かなのだ。

かくして、この1年ばかりホロヴィッツの CD は
たくさん買って聴いた。
好きとか嫌いとかでなく――癖になるのだな、これは。w

2025年9月7日日曜日

ラーザリ・ベルマンの「熱情」ソナタ

ここ数か月、取り組んでいることのために
あまり SL にログインしたり、この日記を書くこともなかったですが、
その間も音楽はいろいろと聴いていました。
昨年小澤征爾さんが亡くなって、小澤さんの CD を
改めて聴き直すようになってから気づいたのですが、
既に廃盤になっていて新品では手に入らなくて
ずっと探してはいても諦めていたようなものも
中古屋さんに行くと案外手に入ったりするものです。
それでここ1年ほどは時間があれば中古屋さんを覗いて
何か掘り出し物がないか、物色したりしています。

そんな音源の一つがロシアのピアニスト
ラーザリ・ベルマンが弾いたベートーヴェンの
「ピアノソナタ第23番ヘ短調作品57『熱情』」です。
これは、僕が生まれて初めてそれと意識して聴いた
「熱情ソナタ」で、それだけにいろいろなピアニストによる
名演と呼ばれるディスクが多数ある中で、
自分としては最も「熱情」らしい「熱情」だと
感じて来たものなのでした。
確か、同じベートーヴェンのピアノソナタ第18番との
カップリングで出ていた LP を持っていましたが、
それは親の家にあって、もう何十年も聴いたことがなく、
CD では一度も見かけたことのない演奏なのでした。
それが、やはり中古屋さんで、
Lazar Berman - The Complete CBS Recordings として
6枚組のセットで、しかも驚くような安い値段で
出ているのを見つけて迷わず購入して聴いたのでした。

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「熱情ソナタ」を聴くと言ったら、やはりベートーヴェン弾きの
バックハウスとかケンプとか、全集を録音している
グルダとかブレンデルとかで聴くのが間違いないでしょう。
そこへ行くとベルマンは特にベートーヴェン弾きというわけでなく、
実際、この CBS に録れた全集版でもベートーヴェンの曲は
先に挙げた「熱情」と第18番のソナタのスタジオ録音と
1979年、カーネギーホールのライブで弾いた
第8番の「悲愴ソナタ」くらいしかありません。
ベルマンは元々 1963 年にソ連のメロディア・レーベルから出た
リストの『超絶技巧練習曲』で西側に知られるようになった
ピアニストで、19世紀的ヴィルツゥオジテを自負してるだけあって
リストやラフマニノフといったテクニック的に難しい
曲を得意とするピアニストというのが
世間一般の評価ではないでしょうか。

そう、だから僕もベルマンの「熱情ソナタ」のことは
気になりつつも、リストやラフマニノフはあまり得意でない僕は
結果的にベルマンの CD は買わずに来たのですが、
ある時作曲家で評論家の諸井誠さんが
その著『ピアノ名曲名盤100』の中で次のように書いていたのです。

「ベルマンの《超絶技巧練習曲》もショッキングだった。頭がぐらぐらしてくる音なのである。しかし、こうしたショックは、反面で拒絶反応も起しかねない。この盤をあんまり何度も聴くと、私は完全なリスト嫌いになりそうだ。このレコードは吉田秀和さんの新聞時評を読んで関心を持ち、聴いてみたのだが……。」

この文章で久しぶりにベルマンに出逢って、
ほう、あのベルマンが。。。と思いながら、
「頭がぐらぐらしてくる音」とはどんな音か興味を持って
CD を手に入れて聴いたのであった。
確かに、この演奏は凄い。頭がぐらぐらするというか
目が回るというか、とんでもない演奏なのです。
なるほど、これで彼に対するイメージが固まってしまったとしても
それは仕方のないところかもしれません。

そのベルマンが何故ベートーヴェンの「熱情ソナタ」を選んだか?
実は、同じようにベートーヴェン弾きではないにも拘わらず
このソナタを何度か録音している人にホロヴィッツがいます。
そして、そのホロヴィッツが 1959 年に録れた RCA 盤に対して
かの吉田秀和さんは『LP 300選』の「レコード表」の中で、
「胸のすくような名演」と評しておられます。
ホロヴィッツもまたヴィルトゥオジテの人で、
ベートーヴェンのこの曲はそのヴィルトゥオジテを発揮するに
持って来いの曲だったのでしょう。
実際、デュナーミクと言い、アゴーギクと言い、
ホロヴィッツ特有の癖のある演奏でありながら、
最初の出だしからフィナーレまで一気に聴かせる
説得力に満ちた演奏なのです。
これを聴いてしまうと、案外全集盤で定評のある
バックハウスが色褪せて感じられます。

ホロヴィッツについては書きたいことがいろいろありますので
また稿を改めることにしますが、
ベルマンもホロヴィッツと同じ流れのピアニストだと感じます。
彼にとっても「熱情ソナタ」はそのヴィルトゥオジテを
遺憾なく発揮できる曲だったのでしょう。
実際、久しぶりに聴いて思いましたが、
あの「頭がぐらぐらしてくる」リストの『超絶技巧』と同じ何か、
一つ一つの音に込める「熱さ」のようなものが感じられるのです。
そしてそれこそが正に、「熱情」という曲にピッタリのもので、
この通称がベートーヴェン自身が付けたものにないにせよ、
「熱情」というテーマを意識してこの曲を聴く時
このベルマンの演奏ほどピッタリなものはないのではないか、
そのように思える演奏なのです。

その熱い感じがキラキラと輝くような綺麗な音色と
正確なリズムに支えられているのですから奇跡的と言えます。
(ホロヴィッツは時に雑に感じられることもありますからね。w)
生まれて一番最初に聴いた演奏だから先入観があるのだろうと
ケンプやバックハウスやグルダの演奏を聴き直しましたが、
この曲は誰が弾いても面白く聴けるように作曲されていながら、
やはりこの熱さだけはベルマン特有のものだと思いました。
あ、ホロヴィッツもですが、それについてはまたの機会に。。。

尚、ベルマンの名前は今の日本では「ラザール」と
フランス語風に表記されることが多いのですが、
僕が1970年代の終わりに初めてその名前を聞いた時は
「ラーザリ」とロシア語風の発音で呼ばれていました。
なので僕の中ではずっと「ラーザリ」なので
今回もそのロシア語表記で書かせて戴きました。

2024年5月4日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その10・メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』

前回に続いてメシアンである。
小澤征爾さんがメシアンからその作品の演奏を任されていたことは
前にも書いた通りだが、その最後の大仕事とも言えるのが、
メシアン唯一のオペラで、上演に4時間を要する大作
『アッシジの聖フランチェスコ』の初演だったと考えている。
これはパリ・オペラ座の委嘱で制作されたもので、
その初演は1983年11月28日にオペラ座で、
小澤さんがパリ・オペラ座管を指揮して行われた。
その時の録音がリリースされていて、これはとても貴重なものだ。

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僕にとってこの CD が貴重なのは、この曲については、
前にも書いた武満徹さんとの対談集『音楽』の中で語られていて、
この本が出てすぐ読んだ僕にとっては、
1941年作曲の『世の終わりのための四重奏曲』とも
1949年作曲の『トゥランガリーラ交響曲』とも異なり、
リアルタイムの、現在進行形のメシアンの新作だったからだ。
その、1979年頃に行われた対談のなかにこんな会話がある。

「武満 メシアン先生は目下大作にとりかかっているんだろう?
小澤 二年後にそのオペラを指揮しなきゃいけない。それがなんと楽譜で三千ページあるんだ。この間、ピアノ・スコアを見てきたけれど。今、オーケストレーションしてるらしい。
武満 あの人のは、もう少し短くなるといいけれどね……。『キリストの変容』もちょっと長過ぎるね。あの人は、あそこまでやらないと、どうしても満足できないんだよ。おれなんかは、一生かかっても三千ページは書けっこない(笑)。
小澤 この間もメシアン先生から念を押されて、やることになっている。一九八二年に。
武満 七管編成でしょ。
小澤 七管編成で、オンドマルトノというのが三台。
武満 そんな大編成で、歌って、聞こえるのかな。 
小澤 それが聞こえるんだって。ちゃんと計算できているみたいよ。すごいねェ。」

おお、おお、『トゥランガリーラ』でも使われた大好きな楽器
オンドマルトノが3台も使われるとは!
そして、七管編成なんて聞いたこともないんだけれども。
普通のオケの曲だと三管とか四管ですよ。
この何管というのは、木管楽器のフルートやクラリネットなどの
パートの本数を基準にして呼ばれるけれども、
木管の本数が決まるとそれに応じて金管の本数、弦の台数も決まり、
オケ全体でどのくらいの演奏家が必要になるかが決まるのだが、
実際、編成表を見るとフルートだけで、

・ピッコロ×3
・フルート×3
・アルトフルート×1

となっていて実際7本必要なのだ!
(普通はピッコロやアルトフルートは何人かいるフルートの1人が
 持ち替えで対応するものだが。。。)

そうやって8年をかけて出来上がったのは全3幕8場から成る
上演時間4時間にも及ぶオペラで、それだけに聴き終わった時の
感動はとても言い尽くせぬものがある。

そうそう上演されることのない巨大でレアなオペラなので
ここで簡単にどんな曲か説明をしておくと、
アッシジの聖人フランチェスコ
(日本では伝統的にフランシスコと呼び慣わされている)の生涯を
8つの情景で描くもので、
オペラや楽劇に付き物の序曲や前奏曲といったものはなく、
またアリアらしいものもない。
ただ、ヴァーグナーの楽劇のように登場人物それぞれに
ライトモチーフのような主題があり、
中でもフランチェスコや天使には複数の主題が割り当てられている。

更に、メシアンと言えば鳥の研究と
その鳴き声を音楽で表現することで有名だが、
この作品でも、それぞれの登場人物に特徴的な鳥が割り当てられ、
舞台を見ていなくてもその鳥のさえずりで例えば天使が現れたことが
わかるようになっているという仕掛けである。
これは、聖フランチェスコが鳥に説教をしたという伝説から
当然そのシーンがこのオペラには組み込まれているわけだけれども、
アッシジのあるウンブリア地方によくいる鳥から始まり、
世界中から34種の鳥が選ばれ、その囀りが音で表現される。
34の鳥の中には日本のホオアカ、フクロウ、ウグイス、
そしてホトトギスも選ばれ、登場する。

それぞれの情景の内容は次の通り。

第1景『十字架』
木琴を始めとする鍵盤打楽器によるヒバリの囀りで幕を開ける。
続いて修道士レオーネが『伝道の書』の「道にはおののきがある」
を下敷きに「私は恐ろしい」と歌う。
そこにズグロムシクイ(カピネラ)の囀りに導かれ
フランチェスコが登場、「完全なる歓び」について語る

第2景『賛歌』
フランチェスコと修道士たちが「太陽の讃歌」を歌い、お勤めをする。
最後にフランチェスコは重い皮膚病を患っているものを怖れており
その怖れを克服することを主に誓う。

第3景『重い皮膚病患者への接吻』
フランチェスコは重い皮膚病患者に会い、接吻する。
すると病は癒され、その喜びから踊り出す。
患者はそれまで人生に対して卑屈だったのがよりポジティブに
生きようとする。

第4景『旅する天使』
フランチェスコたちのいる修道院を旅姿の天使が訪れる。
キバラセンニョムシクイ(ジェリゴネ)の囀りが天使の登場を暗示。
天使は修道院にいる修道士たちに「予定説」に関する問いをする。
修道士エリアは問いに答えず天使を追い出し、
再び訪れた天使に修道士ベルナルドは答える。
天使が去ったあと、修道士たちは旅人が実は天使だったことを知る。
(因みに天使は5色の羽根を持っている。
 これはサンマルコ美術館にあるフラ・アンジェリコの
 『受胎告知』の絵にインスピレーションを得ているらしい。
 この絵のリンクはこちら。)

第5景『音楽を奏でる天使』
再び天使が修道院を訪れ、今度はフランチェスコの前に現れる。
天使はヴィオールを奏でるが、このヴィオールは
オンドマルトノの音で表現される。
天使の音楽を聞いているうちにフランチェスコは倒れる。
天使が去ったあと、倒れているフランチェスコを
修道士たちが抱え起こす。

第6景『鳥たちへの説教』
フランチェスコが鳥たちに説教をする。
説教は途中様々な鳥たちの鳴き声で中断される。
そして最後に様々な鳥たちの囀りが一斉に起こる
全曲の中でも最も素晴らしい聴き所となる。

第7景『聖痕』
夜中の山でフランチェスコが祈りを捧げている。
イエス=キリストの受けた苦しみを自分にも分けてほしいと願う。
合唱がイエスの声を表現し、その後5回のクラスターで
イエスの受けた5つの傷がフランチェスコにも表れたことを暗示。

第8景『死と新生』
フランチェスコは「太陽の讃歌」を歌いながら
あらゆるものへの別れを告げる。
フランチェスコが死ぬとヒバリが賑やかに歌い、
最後は感動的な合唱で幕を閉じる。

言葉で書くと難しいようだけれども、
実際に音楽を聴くと、『トゥランガリーラ』でもお馴染みの
メシアン独特のフレーズが登場したり、
鳥たちのざわめきやら、重大なことが起きる時のクラスター音など
音楽的には非常にわかりやすいものになっている。
いや、そのわかりやすさを実現しているのは
やはり何と言ってもメシアンの演奏に精通した小澤さんの棒だろう。

もう随分昔のことなので正確なことは覚えていないのだけれど、
この1983年のパリでの初演の時だったのか、
1986年の日本での部分初演の時のことだったのか、
そのリハーサルの模様が NHK のニュースで報道されたことがある。
その中で、メシアンが小澤さんに注文を付けるのだ、
今のところはそうじゃない、こういう風に演奏してほしい、と。
すると、何と小澤さんは作曲者本人に反論するのだ。
多分、いや、あなたのその意図を実現するには
こういう風に演奏した方がよいのだ、
実際の音にするのは自分の仕事だから自分に任せてほしい、
といったようなことだったように記憶している。

この場面を見て、凄い! と思ったものだ。
小澤さんが楽譜を読み込んで作曲者の意図を理解し、
それを具体的な音にする話は村上春樹さんとの対談に
何度も出て来るけれども、
ある意味作曲者本人ですら想像できていない音が
小澤さんには具体的に聞こえているということではないだろうか。
小澤さんは齋藤秀雄先生から教わったのは、
単に指揮法ではなかった、一番大事なのは、と
「私の履歴書」の中で語っている。

「先生が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ。」

小澤さんが指揮をする時のあの熱い感じは実はここから来ているのだ。
そして、作曲者のメシアン本人にあそこまできっぱりと
物申せるというのは確とした信念があるからだ。
『アッシジの聖フランチェスコ』の録音に聞くのは、
メシアンの音楽への理解と共感、
そして自分自身の信念と情熱の結晶と言えないだろうか。
だからこそ4時間に及ぶ音楽が説得力を持ち、
大きな感動をもたらすことができるのである。

     *   *   *

例によって既に十分長い文章になってしまったけれども、
自分の手許にある小澤さんの CD に纏わる話と
その感想について語るのは一旦これで終わりにする。
終わるに当たって、まだまだ聴いていない、
そして聴いて見たい小澤さんの CD もあることなので、
それについて触れておきたいと思う。
その前にまず、これから小澤さんの演奏を聴いてみたいと
思われる方の為に、日本版「ニューズウィーク」誌の
2024年3月5日号の小澤さんの特集記事にあった
「ニューヨークタイムズ」記者の名盤8選なるものを転載しておく。

・メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』1983年パリ・オペラ座管
 (初演時のライブ録音)
・ベルリオーズ『幻想交響曲』2014年サイトウ・キネン
 (サイトウ・キネン・フェスティバル松本のライブ録音)
・フォーレ『管弦楽作品集』1986年ボストン響
・マーラー『交響曲第1番』1987年ボストン響
・デュテイユー『時間の影』1998年ボストン響
・ストラヴィンスキー『春の祭典』1968年シカゴ響
・チャイコフスキー『白鳥の湖』1978年ボストン響
・リスト『ピアノ協奏曲第1番・第2番/死の舞踏』
 1987年クリスチャン・ツィメルマン (pf), ボストン響

今回書いた『アッシジの聖フランチェスコ』を除いては
僕が持っているものとは全く被っていないね。w
というわけで、僕が気になっているディスクは次のものになる。
上のリストにも影響を受けているけれど、録音の古い順に、

・ストラヴィンスキー『春の祭典』1968年シカゴ響
・チャイコフスキー『ロメオとジュリエット』1973年サンフランシスコ響
・ベートーヴェン『交響曲第9番』1974年ニュー・フィルハーモニア管
・デ・ファリャ『三角帽子』1976年ボストン響
・デュテイユー『時間の影』1998年ボストン響
・ブラームス『交響曲第1番』2010年サイトウ・キネン
 (カーネギーホールでのライブ。村上春樹さんの激賞で。w)
・ラヴェル『子供と魔法』2013年サイトウ・キネン
 (サイトウ・キネン・フェスティバル松本でのライブ)

小澤さんが亡くなってから小澤さんの CD は、
中古でも手に入りにくくなっているけれども
そのうちどこかで見つけたら聴いてみようと思っている次第。

2024年5月3日金曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その9・メシアン『トゥランガリーラ交響曲』

僕がクラシック音楽の曲は吉田秀和さんの『LP 300選』に基づいて
聴いていったことはこれまでにも何度か書いたが、
実際にレコードや CD を買ったのはその本の前の方と後の方から、
つまりバッハ以前の古楽とドビュッシー以降の現代音楽からだ。
何と言ってもそこに出て来る作曲家の名前の殆どを知らないし、
名前は知っていても実際に作品を聴いたことがないものばかり。
特にベートーヴェン以降の、所謂「ロマン派」と呼ばれる曲の数々は
別にレコードなど買わなくても日常生活に溢れているので
もっと新しい響きを求めていたのだ。
そう、現代音楽が新しい響きであるのは勿論だが、
バロックより前の中世の音楽もまた新しい響きであったのだ。

社会人になったばかりの頃、僕は新宿西口の会社で働いていて、
帰りによく当時 NS ビルにあったレコード店に立ち寄っていた。
そこはこうした現代音楽や古楽のレコードが充実していたのだ。
その時買ったものの中に小澤征爾さんがトロント響を指揮した
メシアン『トゥランガリーラ交響曲』と
武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』をカップリングした
2枚組の LP があった。

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この LP を見つけた時は、とてもお買い得な曲の組み合わせと
演奏者であるように思えて——勿論これは吉田さんの本の
レコード表にも載っているレコードなのだが——、
もう興奮のあまり衝動買いしたのを今でもはっきりと覚えている。

2枚組ということは、メシアンの曲が LP で3面、
残りの1面に武満さんの曲が入っているわけだが、
つまりメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』の方は
全10楽章から成り、1時間を越える長大な曲なのだが、
マーラーの曲は長くて苦手と言っている僕も
この曲は大変面白く聴けたのだった。

それは一つには、歌を含まない純粋な器楽曲であることと、
また、トロンボーンとチューバによる重々しい「彫像の主題」、
弦楽器とオンドマルトノによる官能的な「愛の主題」、
そしてピアノを含む打楽器群によるガムランのリズムなどが
繰り返し或いは変形され、或いは組み合わせられて登場するのが
古典的な交響曲の伝統の上に成り立っているからだと思う。

それに、そう、今書いたオンドマルトノの響きが何よりおもしろい。
「愛の主題」以外でも、いろんなところでピューピュー鳴るのだ。w
そして、実際、10もある楽章はそれぞれが特徴あり、個性的で
全く飽きさせないのだ。
第6楽章の「愛の眠りの園」はメシアンお得意の鳥の表現で、
ピアノが静かに夜鳴鶯のチチチという鳴き声を奏で続けるのもいい。

前に触れた『交響曲名曲名盤100』の中で諸井誠さんは
この曲について「豊麗な音洪水」と表現しているが言い得て妙で、
アートで言えば、次から次へと絶えず様々な色や光が
めくるめく空間の中に身を置いて幻惑されるような
そういう体験を音でする感じなのだ。
メシアンは音に色を感じる人なのでそれは当然のことなのだろうが、
色彩的で官能的表現を得意とする小澤さんの棒は
その魅力を十二分に引き出し、現出しており、
だからこそこの大曲を飽きさせずに最後まで聞き通させるのだ。

そういう小澤さんの演奏は、作曲者のメシアンご本人に
とても気に入られたようだ。
このトロント響との録音は1967年だが、それに先立つ1962年、
小澤さんは NHK 交響楽団を率いてこの曲の日本初演を行っている。
恐らくこの時のことだと想像するが、村上春樹さんとの対談の中で
小澤さんは次のように述べている。

「メシアンさんは僕のことを本当に気に入ってくれて、というか惚れ込まれちゃって、自分の音楽が全部君がやってくれとまで言われました。」

そして1978年から1979年にかけて行われた武満徹さんとの対談を
まとめた『音楽』の中で小澤さんは、

「N 響で僕がメシアンの『トゥーランガリラ交響曲』を初演指揮した。それ以来、おかげで、おれは苦労している(笑)。」

と言っているところを見ると、恐らくメシアンは自作の演奏を
折に触れて小澤さんに依頼するのだろうが、
それでは小澤さんに全て委ねるかというとそうではなく、
きっと作曲者本人としてここはこうしてほしい、
そこはそれじゃダメだ、といろいろ注文を付けたのだろう。
実際、『アッシジの聖フランチェスコ』の初演リハーサルの風景を
以前見たことがあるけれども、その時メシアンが小澤さんの演奏に
注文を付けていた。これについて詳しくはまたあとで。

ともかく、そうしてメシアンが信頼していた小澤さんの演奏である。
僕が LP を買った頃はこの小澤さんのものしかレコードはなかったが、
その後、プレヴィンやサロネン、ラトルなど
世界の指揮者が続々と録音してリリースするようになったので、
今となっては「古い演奏」なのかもしれないけれども、
僕には小澤さんのこの1枚聴けば十分なのである。

P.S.
LP 時代にメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』と
武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』とか
カップリングされたのは、ただ単にレコードというものの制約、
『トゥランガリーラ』が3面必要で1面余るので
4面に20分程度の曲を埋める必要があって武満さんの曲の録音を
使ったのではないかと邪推していたが、
今考えると、『トゥランガリーラ』は協奏曲的ではないものの、
オーケストラに独奏ピアノ、独奏オンドマルトノを伴う交響曲
ということになっている。
方や、『ノヴェンバー・ステップス』は、
オーケストラに独奏琵琶と独奏尺八を伴う管弦楽曲であるので、
実は同じタイプの曲だと言える。
『ノヴェンバー・ステップス』の初演が1967年11月のことだから、
寧ろこの曲を RCA に録音するに当たって、
それではメシアンの曲も一緒に、ということになったのかもですね。

2024年4月29日月曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その8・ストラヴィンスキー『火の鳥』

前回シェーンベルクの『グレの歌』について、
小澤征爾さん指揮のものとブーレーズ指揮のものとで
聴き比べのようなことをやったのでそのつづきのような感じで
今回は小澤さんが1972年にパリ管を率いて EMI に録音した
ストラヴィンスキーの『火の鳥』を取り上げる。

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実は僕はこのディスクのことは全く知らなかったのだ。
大体、ストラヴィンスキーはブーレーズかアンセルメで聴いていて、
たまに初演者ピエール・モントゥーの録音を聴いたりするくらいで
それで十分なのだ。
特にブーレーズの『春の祭典』は、あの複雑なリズムの曲を
理解するのにどれだけ役立ったことか。
アンセルメの『ペトルーシュカ』は、弦楽器がこんなにも
色彩豊かな音を出すのだと驚かされたものだ。

それが今年小澤さんが亡くなったあと、
中古屋さんでこのディスクを見かけて、調べてみたら、
何と、『火の鳥』の全曲演奏の録音としては最も初期のもので
——1959年にドラティがロンドン響と、
1961年に作曲者自身がコロンビア響と録音しているのが
最初期の録音らしい——、小澤さんがこれを録れた当時は
この曲の全曲演奏というのは珍しいものだったらしい。

まぁ、本来バレエという舞台があっての音楽で、
例えばチャイコフスキーの三大バレエなどはどれも2時間あるので
踊りのない、演奏会やレコード向けには組曲や抜粋盤で十分、
という見方はあるのだろうが、
ストラヴィンスキーの三大バレエは何れもそう長時間ではないので
今考えると全曲盤がなかったのが不思議なくらいだ。
小澤さん自身、この EMI 録音の3年前の1969年、
まだ着任前のボストン響を率いて組曲を RCA に録音している。
前に触れた門馬直美さんの『管弦楽・協奏曲名曲名盤100』では
全曲盤はブーレーズのものについて触れつつ、
何故か小澤さんのは組曲の方についてしか触れられていない。

今回いろいろ調べて見たら、この『火の鳥』の全曲演奏、
実は日本での初演を行ったのも小澤さんだったようで、
1971年に日本フィルを指揮して行われたらしい。
とすると、小澤さんはいつかはこの曲の全曲演奏を、と考えていて
その流れの中で1972年の EMI 盤の録音につながっていったように
想像されるのである。

さて、そんなこんなで今回手に入れた
その 1972年の EMI 盤の感想だが、やっぱり、何と言っても
ダイナミックで迫力のある演奏、の一言に尽きる。
ブーレーズも、門場さんが「迫力満点」と評されている通り
僕等がストラヴィンスキーの音楽に求めるものがそこにあるのだが、
小澤さんのはもっとデュナーミクの変化が豊かで、
加えてパリ管の響きがそれに明るい色彩感を与えていて素晴らしい。
1973年のレコード・アカデミー賞を受賞したのも当然という感じの
名演と言える。

そして、この小澤さんのディスクが火付け役になったのか、
僕がいつも聴いているブーレーズが CBS に録音するのが1975年、
そのあとコリン・デイヴィスが1978年に、
ドホナーニが1979年にと、世界の指揮者が我も我もと
次々に録音、リリースするのである。
そう、小澤さんも1983年に手兵ボストン響と同じ EMI に、
ブーレーズも1992年にシカゴ響とグラモフォンに再録音している。
そう言えば、僕が大いに影響を受けた冨田勲さんが
『火の鳥』をリリースしたのは1975年でブーレーズより早い。
こちらは組曲ではあるけれども、もしかして小澤さんのディスクに
触発されたのでは? と勝手な想像をしてみたりする。w

小澤さんはストラヴィンスキーとも交流のあった人なので
ストラヴィンスキーの曲の録音にも熱心だったようなのだが、
自分の場合はそこのチェックが全く抜けていた。
実際小澤さんのストラヴィンスキーの世評はよいようで、
1968年にシカゴ響と RCA に録れた『春の祭典』は
日本版「ニューズウィーク」誌でも取り上げられていたし、
村上春樹さんとの対談の中でも出て来るので、
是非そのうち聴いてみたいと思っている。
何と言っても『春の祭典』は、
僕に管弦楽の素晴らしさを教えてくれた教科書のような音楽だし、
それを小澤さんが指揮しているというのだから。

いやぁ、その「ニューズウィーク」誌の特集記事やら
村上さんとの対談を読んでいると、まだ聴いてないもの
聴いてみたいものがどんどん出来るので困ったものだ。w
そうではあるのだけれど、それをやっているとキリがないので、
この「小澤征爾さんを聴く」のシリーズもあと2回、
何れもメシアンの録音について触れて終わることにする。
次回は『トゥランガリーラ交響曲』について書くつもり。

2024年4月28日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その7・シェーンベルク『グレの歌』

小澤征爾さんのことを自分のヒーローだったと書きながら
そんなにたくさん CD を買って持っているわけではないことを
前にも書いた。
基本的には吉田秀和さんの『LP 300選』のレコード表に基づいて
CD を買って聴いていたので、当然小澤さんの演奏の前に
聴いておかなければいけない演奏がたくさんあるからだ。
その中で、シェーンベルクの『グレの歌』については、
「参考盤」とした上で、小澤さんのものが筆頭に、
続いてブーレーズのものの2つが挙がっている。
だからこの曲についてはまず小澤さんの演奏で聴こうと
そう思っていたのだった。

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にも拘わらず縁とは不思議なもので、
シェーンベルクの音楽についてはかつてブーレーズの演奏を
LP で持っていて、その後 CD で買い直す時に全集版で買ったので
期せずして『グレの歌』はブーレーズの演奏を先に聴くことになった。
これは1974年に BBC 響を指揮して録音されたもので、
確か「レコード芸術」の「歴史的名盤」に推薦されていたものだ。
まぁ、曲を聴くだけならそれでもよいのだが、
結局その後欲しかった小澤さんの CD も買うことになる。

何れにしても、『グレの歌』はシェーンベルクの、
まだ十二音技法を取り入れる前の、演奏に2時間もかかる歌曲で、
つまり歌詞があるので、交響曲や管弦楽曲のように
聞き流すわけにはいかないので、シェーンベルクの曲の中でも
聴くのは後回しにしていたのだ。

『グレの歌』についてはクラシックファンでも
マニアックな方でないとあまりご存じではないと思うので
簡単に説明をしておくと、「グレ」というのは最近流行の
「半グレ」とは何の関係もなくて(当たり前か w)
デンマークのコペンハーゲンから北に40キロのところにある、
森に囲まれ、湖に面した場所の名前で、ここにはお城があって、
14世紀の後半、ヴァルデマー4世という王様が治めていたのだが、
その王様に纏わる伝説をデンマークの作家が小説にしていて、
小説に登場する詩をドイツ語に訳したものに
シェーンベルクが作曲、管弦楽の伴奏を付けたのがこの曲だ。

歌に管弦楽の伴奏を付けただけと簡単に考えてはいけない。
その管弦楽は150人から成る大規模なもので、
これに5人の独唱者、3群の男声四部合唱、
更に混声八部合唱が加わるので400人規模の大編成で、
この曲が完成した1911年当時、史上最大の歌曲だったのだ。
そう、大人数を要するコンサートと言うと
マーラーの『交響曲第8番』、通称「千人の交響曲」があるが、
ほぼ同時期に作曲されたこの曲が800人位要するのを考えると
そのとてつもなさが感じられようというものだ。

全体は3部から成っていて、第1部は前奏曲に導かれて
ヴァルデマーが恋人トーヴェと互いへの愛を歌う歌が、
テナーとソプラノで交互に歌われ、ヴァルデマーの5番目の歌の後
管弦楽による間奏が入る。
実はここでトーヴェが嫉妬したヴァルデマーの王妃に
毒殺されたことが暗示されるのだ。
この間奏に続いてメゾ・ソプラノの「山鳩」が
トーヴェが死んだことを悲しむ歌を歌って第1部は終わる。

第2部は、トーヴェの命を奪ったことで神を恨み呪う
ヴァルデマーの歌が歌われ、これは5分くらいで終わる。

第3部は、第2部で神を呪ったことの罰として、
ヴァルデマーと彼に従うゾンビとなった騎士たちが
夜な夜なグレ湖を駆ける百鬼夜行を命ずる。
ヴァルデマー王の歌、男声合唱による百鬼夜行の歌の間に
これに怯える農夫や百鬼夜行に付き合わされる道化による
滑稽な歌が挟まる。
やがて夜が明け、ゾンビたちは墓に戻り
明るく昇って来る太陽を讃える大合唱で感動的に終わる。
小澤さんの CD のジャケットはムンクの「日の出」が使われていて
実にこの感動的なエンディングにぴったりだ。

さて、その小澤さんの演奏。
ブーレーズから5年後の1979年のこの録音は、
全体的にダイナミックで、ヴァーグナーの楽劇を聴いているよう。
実際、この曲は所作を伴わないオペラとも考えられるが、
カラヤンに勧められてオペラにも取り組んで来た
小澤さんならではの劇的な表現と言ったらいいだろうか。
まず、前奏曲はとても美しい。
こういう色彩的な表現は小澤さんの得意とするところ。
続く第1部の歌は全体にヴァルデマーのトーヴェに対する
逸る気持ちを表現しているような切迫感に溢れている。
そして情熱的に盛り上がったオケによる間奏は
やがて淋しげな響きに移り、山鳩の悲愴な歌へと繋がっていく。
第3部のおどろおどろしい感じの百鬼夜行、
滑稽な農夫や道化もそれらしくてよいが、
何と言っても最後の合唱が感動的。
このエンディングにはゾクっとさせられたものだ。

さて、ここでブーレーズ盤との比較をちょっとしっておこう。
というのもブーレーズはシェーンベルクの曲を一通り録音していて
というか、僕はシェーンベルクの曲はブーレーズで聴くことが
多いからだ。

ブーレーズの『グレの歌』は、ニューヨーク・フィルと録れた
『浄夜』などに比べるとずっとしなやかだ。
少なくとも第1部に関しては、である。
小澤さんの演奏の感想でヴァーグナーの楽劇のよう、と書いたが、
そう言えばこの録音のあと、1976年からブーレーズは
バイロイトに出演していて、ヴァーグナーの『指輪』などを
振っていたことを思い出した。
僕がまだ子供の頃だったが、ブーレーズがヴァーグナー?
と不思議に思いながら、当時は FM でバイロイトの録音を
流してくれていたのでそれを聴いていたのを思い出したのだ。

しかし、ここにはイヴォンヌ・ミントンとか
スティーヴ・ライヒとか、ブーレーズのシェーンベルク録音の
常連が参加していることで、シェーンベルクの音の変遷がわかって
実に興味深い。
第1部最後の「山鳩」はイヴォンヌ・ミントンが歌うが、
ここで既に僕には彼女が歌った『月に憑かれたピエロ』を
思い起こさせる。
第3部の新しい管弦楽の使い方もそう。
そして何より驚いたのは、最後の合唱前の「語り手」を
スティーヴ・ライヒが担当するが、
小澤盤ではこの「語り手」はレチタティーヴォのようなものと
軽くそう捉えていたが、
スティーヴ・ライヒは冒頭からはっきりと
シュプリッヒゲザンクで歌うので、
後のシェーンベルクの音楽の特徴をはっきりと示していて
この音楽の終わりがシェーンベルクの新しい音楽の始まりを
予告するものとなり、それが日の出と重なっていくという
実にシェーンベルクの音の変遷、歴史をそのまま辿るような
演奏になっているのである。

実際、この曲は1900年から1911年まで10年に渡って書かれていて、
その間には交響詩『ペレアスとメリザンド』があり、
『5つの管弦楽曲』があり、『架空庭園の書』があり、
そしてこのあと『月に憑かれたピエロ』が来るのである。
ブーレーズの演奏はそのことを、小澤さんよりは淡々とした表現で
示してくれているように思う。

2024年4月27日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その6・マーラー『交響曲第1番』

今日は小澤さんがボストン響を指揮した
マーラーの『交響曲第1番』について書いてみようと思う。
これは自分にとっては何とも衝撃的な演奏だったのだ。

マーラーの交響曲も小澤さんが得意とするレパートリーの一つだ。
日経新聞に連載された「私の履歴書」では、
ミュンシュに指揮を教えてもらうために
タングルウッドの音楽祭に参加した時に、
宿舎で同室のホセ・セレブリエールがマーラーのスコアを勉強してて
そこで初めてマーラーのスコアを見たと書いている。
村上春樹さんとの対談集『小澤征爾さんと、音楽について話をする』
の中でそのことについて、小澤さんは次のように語っている。

「それはもう、すごいショックだったですよ。そういう音楽が存在したことすら、自分がそれまで知らなかったということが、まずショックだった。ぼくらがタングルウッドでチャイコフスキーとかドビュッシーとか、そういう音楽をやってるあいだに、こんなに必死になってマーラーを勉強しているやつがいたんだと思うと、真っ青になって、あわててスコアを取り寄せないわけにはいかなかった。だからそのあと、僕も一番、二番、五番あたりを死に物ぐるいで読み込みましたよ」

このタングルウッドの音楽祭に参加したのが1960年7月のこと。
そして小澤さんは1961年の4月にバーンスタインに招かれて
ニューヨークフィルの副指揮者に着任する。
ちょうどバーンスタインがマーラーにのめり込んでいた時期で、
きっとバーンスタインは機会を捉えては小澤さんに
マーラーの魅力を熱く語ったのだろうと僕は想像する。

1960年というのはマーラーの生誕100年に当たる年で
バーンスタインは2月7日に CBS で放送された
Young People's Concert で "Who is Gustav Mahler" 
(グスタフ・マーラーの魅力)のタイトルでマーラーを取り上げ、
生誕100年を祝って、ニューヨーク・フィルでは毎週のように
マーラーの音楽を演奏していることを告げ、若い皆さんにも
この誕生パーティーに参加してほしいからと、
『交響曲第4番』と『大地の歌』の一部を演奏するのだ。
番組の録画が YouTube に上がってこれを見ると
バーンスタインがマーラーの音楽を紹介する様は
とても嬉しそう、幸せそうに見える。

バーンスタインは CBS へのマーラーの交響曲全集録音で有名だが、
正にその第一弾が『交響曲第4番』で、クレジットを見ると
1960年2月1日とあるから、正に CBS の番組放送の直前だ。
ソプラノも番組と同じリーリ・グリストが担当している。
そして第二弾が『交響曲第3番』で、これは1961年4月3日の録音、
ということは、正に小澤さんの副指揮者就任直後で、
実際その録音の現場にいてバーンスタインがマーラーを指揮するのを
目の当たりにしていたに違いない。

後に、1965年に小澤さんがトロントに行く時に
バーンスタインはニューヨークにいるべきだ、と大反対したらしい。
先の「私の履歴書」によると、

「僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。」

とあるから、もしかしてマーラーを全曲演る条件で
バーンスタインがそれなら、と OK したのではないかと思うと
フッと笑えてくる。
その位、小澤さんとバーンスタインとマーラーとは
結びついているのではないかと。w

余談だが、先の村上春樹さんとの対談集では、
小澤さんと同時期に副指揮者を務めていた2人の話が出て来るが、
その2人の副指揮者と共に小澤さんが
Young People's Concert に登場するのが 1962年4月14日の放送。
この時の映像で若き日の小澤さんの指揮振りを見ることができる。
全体にほっそりとした印象を受けるけれども、
その指揮振りはとても力強く、後の小澤さんの情熱的な指揮振りを
予感させるものになっている。

例によって前置きが長くなった。
その小澤さんがボストン響を振って1977年に録れた
マーラーの『交響曲第1番』である。

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このディスクを僕は最初知らなかった。
というか、以前長々と書いた通り、僕はマーラーの音楽は苦手で
ずっと敬遠していたのだが、アニメの『銀河英雄伝説』で
マーラーの交響曲が使われているのを聞いて、
なるほどマーラーの交響曲というのは実は楽劇ないし劇伴であった
との独自かつ勝手な解釈、納得の下に
マーラーの交響曲を聴き始めたのだった。
その時、『交響曲第1番』に関してはもう定盤中の定盤、
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア響の演奏で聴いていた。

が、ある時手に取った『交響曲名曲名盤100』で
諸井誠さんがこの曲についてワルターのディスクについて触れた後、
こう書いていたのだ。

「ところで、これを聴く時に、小沢/ボストン so の場外ホーマ的大快演をぜひ一聴してほしい。録音も抜群。 小沢特有の澄明な抒情性を見事に抱えている。正にこれは青春の響きだ。オケ全員が心から小沢を大切にして弾いているのがビンビンわかるのも嬉しい。」

何ですと?
諸井さんはワルターがこの曲を「マーラーのウェルテルといいたい」
と評したことに触れつつ、青春を表現したものと解しておられるが、
その青春の響きが感じられるのが小澤さんの演奏だと言うのだ。

これを読んで僕は早速この小澤さんのディスクを手に入れた。
確かに、うん、素晴らしい。とても美しい響きで、
瑞々しい、という言葉はこういう音を表すためのものかと思える。
ワルターのは、何と言うか、「かくあるべし」というような
ある種の重みが感じられるのだが、
小澤さんの演奏で聴くと、そこに明るく軽い「舞い」が感じられ、
その響きは後年の『大地の歌』の第3楽章「青春について」を
思わせるのだ。
そう、『大地の歌』の萌芽が既に『第1』にあることを
小澤さんの演奏は気づかせてくれる。
始まりと終わり。それは正にニーチェ的な「永劫回帰」であり、
『大地の歌』の最後の歌詞、"Ewig(永遠)" に通ずる。

あと、小澤さんのこの演奏には、最終的にマーラーが削除した
「花の章」がちゃんと演奏されていることも嬉しい。
結果、ワルターの演奏とは全く異なる印象の曲に仕上がっていて、
実際、僕は小澤さんの演奏を聴いたあとで
もう一度ワルターの演奏を聴き直したくらいだ。

小澤さんは別に奇をてらっているわけではない。
寧ろ楽譜を丁寧に読んだらこうなった、というだけのことだろう。
ワルターはマーラーの弟子であって、マーラーの音楽についても
そして指揮法についても先生から教わった音楽を
僕等に届けてくれているのだと思う。
だからこそそこには「かくあるべし」的なものがあるのだが、
それとは異なる、楽譜そのものに込められた響きを
純粋に具体的な音にすることでそれとは異なる
新たな、新鮮な響きが生まれたというのはとても素晴らしいことだ。
この小澤さんの『第1番』に接して僕は、
もっとマーラーのいろんな演奏を聴いてみたいと感じた次第なのだ。

2024年4月21日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その5・レスピーギの管弦楽曲

前回は小澤さんがボストン響を指揮した
ベルリオーズの『幻想交響曲』について書いたけれども、
小澤さんはこの曲に限らずベルリオーズの作品では定評がある。
小澤さんの師匠でもあるミュンシュも当然、
ベルリオーズの作品の演奏では定評がある。
しかし残念ながら僕はこれらの作品にも演奏にも触れていない。
『ファウストの劫罰』とか『キリストの幼時』とか、
タイトルからして内容的にも管弦楽も凄そうな響きがあるし、
きっとそこには『幻想交響曲』に通ずる狂気にも似た
彼独特の管弦楽の響きがあるのだろうが、
他にも聴きたい曲、聴かなければならない曲はたくさんあるので
これらの曲は後回しにしている。
吉田秀和さんの300曲を聴くだけでもそれなりの時間とお金が
かかるのだから。。。

それにしても、ベルリオーズに限らず、小澤さんは
フランスもの、ドビュッシーやラベルなども定評がある。
小澤さんがボストン響から引き出す色彩的な表現が
こうした作曲家の作品と相性がいいからだろう。
そう言えば、吉田さんのリストに小澤さんの指揮ボストン響演奏の
デ・ファリャ『三角帽子』が挙がっているのが興味深い。
デ・ファリャと言えばもうアンセルメ指揮スイス・ロマンドの
定番があるので僕もそちらを聴いて満足していたが、
この度小澤さんが亡くなったのを機に吉田さんのリストを見直して
「しまった!」と思ったものである。
早速中古屋さんを回ったりしたがなかなか出ていない。
そのうち手に入ったら聴いてみたいものだ。

そして、この色彩的表現豊かな作品の流れにあるのが
レスピーギの作品で、小澤さんはこのレスピーギでも評価が高い。
ただ、僕がレスピーギを聴くようになったのは、ここ数年のこと。
それも吉田さんの『LP 300選』の記述が影響している。
レスピーギについて吉田さんは、

「例の『ローマの松』『ローマの泉』『ローマの祭日』三部作の作曲家 は、いわばイタリアのリムスキーみたいなものである。私は、今さらききたいとは、全然思わない。レスピーギでは、むしろ、この頃日本でもよくやられる『古代舞曲とアリア』などのほうが、清潔で、私は好きだ。これは近来演奏会でもさかんにとりあげられ、名盤も多いから、ここに入れておこうか。三〇〇選のほかの曲に比べてややおちるけれど、いわばイタリア・バロックの近代版として。」

その通り。レスピーギはリムスキー=コルサコフに
管弦楽法を師事しているので、その道では大家と言えるのだろう。
そのリムスキー=コルサコフとレスピーギについて
リヒャルト・シュトラウスのところで吉田さんはこう書いている。

「彼の交響詩から、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』という管弦楽のためのロンドは、ぬくわけにいかない。これは、ヨーロッパ三百年にわたって、星の数ほどかかれた近代管弦楽用の曲の中でも屈指の名作である。これにくらべれば、リムスキー=コルサコフだとかレスピーギだとか、その他もろもろの名家たちの同じジャンルの曲といえども、数等下だといっても過言ではなかろう。」

『ティル』は、例の『ツァラトゥストラかく語りき』とかに比べ
より小規模でより「かわいい」感じの曲であるけれども、
リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』も
レスピーギの「ローマ三部作」も、これには適わないということか。

そんなこんなで僕はレスピーギも後回しにしていたのだけれど、
『ローマの松』は管弦楽法の学習にいいということを聴いて
楽譜を買ったのは勿論、小澤さんの CD が、
「ローマ三部作」と『リュートのための古代舞曲とアリア』の
2枚をセットにして、しかも比較的安価で出ていたので
買って聴いてみた次第。

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これは門馬直美さんの『管弦楽・協奏曲名曲名盤100』で
お勧めされていたのを見ての購入。
曰く、「ローマ三部作」については、

「三部作を収めたレコードで、傑作とされていたのはトスカニーニ盤。よく歌っているし、歯切れがよく迫力がある。ただしこれはモノーラル。ステレオでは小沢のが新鮮な魅力をたたえ、量感も十分にある。」

続く『リュートのための古代舞曲とアリア』については、

「三つの組曲を収めたレコードでは、小沢かマリナーのものということになろう。どちらかというと、レスピーギに熱意をもっている小沢のほうが表現に積極性がある。」

と、このレスピーギの代表的な作品、何れも小澤さん推しだ。

そこでまず吉田さん推しの『古代舞曲とアリア』から
聴いてみたのだが、小澤さんの演奏はともかく、
やはり作品としてはイマイチだと感じた。
僕はこの曲、リュート協奏曲だと勘違いしていたのだが、
そうではなく、16〜17世紀のリュート作品を管弦楽にした、
という作品なのだ。
「古代」という日本語の訳語もイタリア語では、
「古い」という程度の意味しか持たない。
つまり、イタリア的にはバロックの初期か
それ以前の音楽なので「古い」と言っているわけだ。

しかし、そうであればじゃあヴィヴァルディやコレッリなどの
バロック音楽的な響きかというとそうではなく、
特に第1組曲や第2組曲については、そこに近代の管弦楽法を
適用しようとしているので何となく中途半端な印象を受ける。
寧ろ弦だけの第3組曲の方が、往時の合奏協奏曲を思い出させ
しっくり来るように思う。
吉田さんが「清潔で、好きだ」と表現したのはこの辺りかと感じ、
「イタリア・バロックの近代版」と評されたのも納得できる。
そういう意味では古楽を現代に蘇らせたものを
マリナーやイ・ムジチといった古楽が得意な演奏家より、
シンフォニーの響きを得意とする小澤さんの方が
実は適任なのかもしれない。
実際、この第3組曲での弦の響きはさわやかである。

さて、『ローマの松』。
吉田さんはこの曲を買っていないようだけれども、
第3楽章の「ジャニーコロの松」の管弦楽は美しく、素晴らしい。
静かに歌うクラリネットを、殆ど聞こえなくなるくらい
そうっと裏から支える弦とその絡み方の繊細なこと!
これに僕の好きな楽器であるピアノやチェレスタやハープが絡み、
心の底から癒される、美しい空間、美しいひととき。
こうした響きは勿論ドビュッシーの影響が感じられるわけだが、
そのドビュッシーを越えた美しさがここにはある。
この楽器と楽器との間で交わされる美しく繊細な会話は
はっきり言って小澤さんの方がトスカニーニより数段上と言える。

ところでこの第3楽章のスコアの最後のページに
"Grf." と書かれた不思議な楽器が登場する。
これは、"Grammofono", つまりレコードのことで、
グラモフォンから出ているレコード No. R.6105
「ナイチンゲールのさえずり」をかけるように、という指示なのだ。
そう、鳥のさえずりを楽器で表現するのでなく、
録音された本物の鳥の鳴き声を使うというもので、
これはサンプリング・ミュージックの走りと言える。
『ローマの松』は1924年の作品で、レスピーギはこのあと、
1927年に『鳥』という作品を発表しているけれども、
これは例の、ラモーのクラヴサン曲「めんどり」など
やはり古い時代の作品を管弦楽に仕立てたもので
あまり面白いものではなく、レコードを使う方がよほど斬新だ。
同じ鳥の声を音楽に取り入れるのなら、寧ろメシアンが面白い。
メシアンについてはまた後で別に書く予定なのでその時に。

「ジャニーコロの松」の他には、第2楽章「カタコンベの松」の
253章節目、"Ancora più mosso" と書かれた16分音符で刻まれる
グレゴリオ聖歌の合唱が荘厳に響き渡るようなところや、
第4楽章「アッピア街道の松」の、ティンパニと低弦が
ダンダン、ダンダンと4つで刻みながらだんだん盛り上がって来る、
この辺りの管弦楽の使い方は映画音楽でもよく耳にする感じで
そういう意味で大変勉強になる。
後者については、アッピア街道を軍隊が行進するのが
だんだんと近づいて来る、その感じを表しているらしいが、
近づいて来る過程でいろんな楽器が絡んで来る。
ラヴェルの『ボレロ』に似た趣向と言えるが、
やはりその楽器間のやりとりがはっきり聞こえて来るのは
小澤さんの演奏の方が素晴らしい。
トスカニーニの方はやはり録音技術の問題もあるのだろう。
迫力はあるけれども、低音の細かい絡みは団子になって聞こえない。

そう。こういう聴き方をするのは僕自身が作曲家だからかと思う。
作曲家がスコアのその場所にその楽器を入れたということは
たとえそれが pp であっても、他の楽器と同じ音程であっても、
その楽器がないと得られない響きがあるからだ。
僕はそういう個々の楽器の動きがはっきりと聴き取れる演奏を
「(楽譜が)見える演奏」と呼んでいる。
少なくともこれらのレスピーギ作品における小澤さんの演奏は、
管弦楽の大家であるこの人のスコアがよく見える
とても勉強になる演奏だと言えるのである。

2024年4月14日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その4・ベルリオーズ『幻想交響曲』

僕が吉田秀和さんの『LP 300選』の曲を
そこに掲載されたレコード表を元に
レコードを買って聴いていたことは前回書いたけれども、
今回その表を見直して今更のように驚いたのが、
ベルリオーズの『幻想交響曲』については、
ミュンシュ指揮ボストン響が最初に、
そして次に小澤征爾指揮ボストン響が2番目に、
その2枚だけ選ばれていることだ。

『幻想交響曲』と言えば、同じミュンシュが1968年に
パリ管と録れたものが一般的な評価が高い。
吉田さんが挙げている1962年にボストン響と録れたものも
結構人気はあって、全体にバランスが取れているのがパリ管、
サウンド面で迫力があるのがボストン響のバージョンだというのが
これまた一般的な評価である。
ここで吉田さんはそのボストン響のバージョンを選びつつ、
次選として選んだのが同じボストン響の小澤さんの盤というのが
今となっては実に興味深い。
これってある意味師弟対決ではないですか!w

かく言う僕が高校生だか大学生の時に初めて買ったのは、
吉田さんの選に基づいてミュンシュ/ボストン響のもの。
確かに迫力のある演奏だったのは覚えているが、
その LP にはラヴェルの『ボレロ』も収録されていて、
『ボレロ』は吉田さんの300曲には入っていなかったこともあり、
自分としては得した気分になっていたものだ。
この曲は、当時クロード・ルルーシュ監督の映画
『愛と哀しみのボレロ』が公開されて初めてその存在を知り、
カッコイイ曲だ! と思い、レコードが欲しかったのだ。
そう、ミュンシュのこの『ボレロ』も迫力があったように思う。

その後 CD ではパリ管のものを買ったりしていたが、
今回小澤さんの演奏と聴き比べるために
今一度ミュンシュのボストン響版も手に入れた次第。
残念なことに、今手に入る CD は『幻想』しか入ってなくて、
LP には入っていた『ボレロ』も1962年のボストン響で
聴いてみたいと思っている。
というのも、僕が持っている小澤征爾/ボストン響の CD には
何と『ボレロ』が一緒に収録されているからだ。
『ボレロ』でも師弟対決をしてみたいではないか!

さてそこで、新たに買い直したミュンシュ/ボストン響の
『幻想交響曲』、久しぶりに聴いてみて
改めてその迫力に圧倒された。
第4楽章「断頭台への行進」と第5楽章「サバトの夜の夢」が
派手な管弦楽でこの曲のクライマックスであるが、
まぁ、素人耳にもすぐわかる急激なアッチェレランド、
殆どソロのように目立って響く、迫力あるティンパニ、
この曲も持っている「狂気」を見事に表現してて素晴らしい。
そう、この曲にはチーンとした楽譜通りの演奏など相応しくない。
何と言っても "Symphonie fantastique" なのだから。

因みにこの英語で言う "fantastic" とか "fantasy" という言葉だが、
日本語で「ファンタスティック」とか「幻想的」と言うと、
美しくて幸せな夢物語のようなイメージがあるけれども、
この "fan-" という語根は元々ギリシャ語で「現れ」を意味し、
妖怪や幽霊を表す "phantom" と同じ意味合いの言葉なのだ。
現実には存在しない筈のものが見えることから、
「想像の産物」を意味するようになり、
これが芸術の分野では、フーガなどの形式がかっちりしたものとの
対比として、音楽家が自由に、その時々のインスピレーションで
即興的に演奏する音楽も "fantasy" と呼ばれるようになる。
J・S・バッハの曲に「半音階的幻想曲とフーガ」とか
「ファンタジーとフーガ(大フーガ)」とかあるのは、
何れも前半で即興的な演奏を繰り広げられるのが、
後半のフーガの部分と対比を成す構成となっている。
例の、「月光」の名前で親しまれるベートーヴェンの
「ピアノソナタ第14番嬰ハ短調」も、
元のタイトルは "Sonata quasi una Fantasia" で、
これは「幻想曲風ソナタ」というものだ。
そう言えばあの月光をイメージさせるという第1楽章の
同じ音型がずっと続く感じは、バッハのファンタジーや
前奏曲を想起させるとは思いませんか?

話が逸れた。
そんなわけで、僕としてはこの『幻想交響曲』に関しては、
最後の「サバトの夜の夢」でどれだけ狂うかが楽しみなのだ。

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指揮者ではなく、ボストン響の側から見るとこの曲は、
1954年にミュンシュと、1962年に再びミュンシュと、
そして1973年に小澤征爾さんと、というように
ほぼ10年の間隔で録音していることになる。
つまり長年ミュンシュの下にいたオケとしては、
この曲は勝手をよく知っている曲と言えるのではないだろうか。
だから、吉田さんの選んだ1962年のミュンシュ盤と
1973年の小澤盤との聞き比べは大変興味深いと言える。

小澤さんの CD を聴いて、まず第1楽章「夢、情熱」が始まり、
最初に感じたのは弦の美しさだ。
これが小澤さんの棒の成せる業なのか、とても繊細な響きで
見事にコントロールされているように感じられる。
それがはっきりするのは何と言っても第3楽章「舞踏会」で、
この楽章ではつまりワルツが展開されるのだが、
ここでミュンシュ盤では弦はより太く迫力ある演奏だが、
小澤さんの盤では優雅に典雅にしなやかな演奏になっている。
これを聴くとなるほど後に小澤さんがウィーンに呼ばれたのも
宜なるかな、と思う次第である。

さて、問題の第4、第5楽章。
これはもう、狂い方としたらやはりミュンシュの方が上なのだが、
小澤さんも流石にミュンシュのような、
露骨なテンポの上げ方はしないけれども、
逆に安定しているように見えてじわじわと盛り立てて来る
その感じはある意味理想的とも言える。
事実、今回 CD の演奏時間を見比べて驚いたのだが、
第4楽章も第5楽章も、小澤さんの方が短い、つまり速いのだ。
これは魔法としか言いようがない。
変な言い方かもしれないが、同じミュンシュでも
パリ管のバージョンの方がこの三者の中では演奏時間が最も長い。
そして最も安定した演奏を聴かせてくれると言える。
小澤さんの演奏は2つのミュンシュの演奏の間にある
安定した演奏と狂ったような迫力ある演奏の
中間を行きながら、しかも演奏時間が最も短いという
実に不思議な魔法を見せてくれているのである。

先に、小澤さんの指揮になる弦の響きが
ミュンシュの時のものとは異なることについて書いたが、
反対に第5楽章で、あのソロを奏でるようなティンパニの響きは、
小澤さんの指揮の下でも健在だ。
それから、同じ第5楽章で鳴り響く鐘の音も、
ミュンシュ時代と同じ音色で素晴らしい。
実は僕は、ミュンシュ/パリ管のバージョンでは、
鐘の響きがどこか詰まったような感じがしてあまり好きでないのだ。
ボストン響では、ミュンシュの時も、小澤さんの時も
明るく澄み渡った響きなのが僕の好みに合っている。
つまり、小澤さんは、ボストン響にミュンシュが遺したものを
うまく生かしつつも、彼なりの新しい響きを引き出すことに
成功しているように僕には思える。

ただ、個人的な趣味の問題として1つ残念なのは、あれかな、
第5楽章の最後の方で、弦楽器に「コル・レーニョ」の指定が
されているところがある。
これは弦を弾く時に、弓の、馬の毛が張られている部分ではなく、
それを支える木の方、つまり竿の方を弦に当てて弾くもので、
当然のことながら、あの弦の豊かな艶のある響きではなくて
カサカサした、音量もあまりないノイズのような響きになるもので、
魔物やら妖怪やらが跋扈するこの第5楽章でベルリオーズは、
ガイコツがカラカラと音を立てながら踊る様子を
この奏法で表そうとしたらしい。
このガイコツがワチャワチャ踊ってる感が溢れるのは
やはりミュンシュの1962年のボストン響のバージョンだ。
小澤さんの指揮のバージョンではこのカサカサした音が
3枚の CD の中では一番大人しいと言える。

まぁ、小澤さんの場合は、ベルリオーズがおどろおどろしい感じを
出すために要所要所に仕掛けたギミック1つ1つに拘るより、
音楽全体の効果を考えて演出したんだろうな、と今は思えますね。
だから安定感ありながらも迫力のある演奏で、
演奏時間も短くなっているわけで。
このように考えて来ると、何故吉田さんが、
敢えてミュンシュと小澤さんのこの2枚を選んだのか、
今となってては納得が行くように思える。

2024年4月7日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その3・武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』

小澤征爾さんは自分のヒーローだったと言いながら、
実のところ小澤さんのレコードや CD をそう大して買ったり
持ったりしているわけではない。
誰でも経験があることだろうとは思うけれども、
高校生や大学生の頃はレコードや CD はそれなりに値が張るもので
どれから先に手に入れるかというのは悩ましいものだったのだ。

そこで高校生の頃から読んで参考にしていたのが
吉田秀和さんの『LP 300選』である。
これはとんでもない本で、選ばれた300曲のうちの第1曲は
レコードにも CD にもなり得ない「宇宙の音楽」なのだ。w
しかし、そこから始めてあるだけあって、
グレゴリオ聖歌に始まる、所謂バッハ以前の音楽を聴く楽しみを、
いやそもそもその存在を教えてくれたのはこの本なのだ。

同時に、どういう音楽が優れたものなのか、
僕の音楽的な感覚を鍛えてくれたのもこの本で、
世間では「名曲」として盛んに耳にする曲たちを
吉田さんは採らないだけでなく、その切って捨てる感じの表現に
高校生の頃は参るやら笑ってしまうやらであった。
そのいくつかをご参考までにここに書き抜いておこう。

まず、ヴィヴァルディと『四季』について。

「日本では――日本ばかりでないかもしれない――もちろん、春夏秋冬の四曲からなる合奏協奏曲『四季』が、ひどく有名だ。日本盤のLPも数種あって、それぞれ、そう悪くないのは、周知の通りである。しかも、この『四季』は、また、作品八のヴァイオリンとオーケストラのための『和声法とインヴェンションの試み』中の一部でしかない。しかし、私はこの曲を好まない。何を好んで特に幼稚な標題楽的手法のために、音楽の本当の醍醐味(だいごみ)が稀薄になり、進行が乱されて いるような曲の流行の片棒をかつぐ必要があろう? 」

幼稚な標題音楽的手法。www
続いて僕の大好きなドヴォルザークの『交響曲第九番』。

「交響曲、ことに九番の『新世界より』は、通俗名曲の十八番の一つになっている。けれど、私は、ことに、この交響曲などとりたくない。なんといっても、安っぽい効果をねらいすぎている。」

安っぽい効果を狙い過ぎた通俗名曲。www
続いては、ロシアの「無敵の五人組」について、
ムソルグスキーの音楽性を讃えたあとで、
リムスキー=コルサコフについて触れる。

「器楽も『スペイン奇想曲』とか『シェエラザード』とか、どれもみな、色彩にとみ、愉快な曲だが、それ以上どういうこともない。こういうものは、ドヴォルジャークの『新世界』やなんかと同じように、西洋音楽をはじめてきく人には、よい入門だと思う。ちょうど、一昔前の『ウィリアム・テル』や『森のかじゃ』みたいに。しかし、ここにいつまでも足ぶみしているのは、どうかといえば、少し、きつすぎるかもしれないが、私はなにしろたいして買ってない。《五人組》はボロディンとムソルグスキーがいれば、私には十分なのだ。そのリムスキー=コルサコフがムソルグスキーのスコアに手を入れたりする。」

先のドヴォルザークの『第九』と合わせてあくまで入門用として、
しかも『ウィリアムテル序曲』や『森のかじや』と
同じレベルに置かれているのには参る。w
ムソルグスキー好きの私はこの最後の一文に、
つまりリムスキー=コルサコフがムソルグスキーのスコアを
変えてしまったことに憤りを覚えて、
ますます彼の曲を聴く気が失せて、ムソルグスキーのオリジナルが
どこかの学者の手で再現されていないか調べたりした位だ。
僕が『シェエラザード』を真面目に聴くようになったのは、
管弦楽法を勉強し始めたここ2、3年のことだ。

最後にサン=サーンス。w

「私は、この人の器楽は、もうやりきれない気がする。一体、これは本当の芸術家の仕事なのだろうか。彼の旋律――有名な『交響曲第三番』『ヴァイオリン協奏曲第三番』 『ピアノ協奏曲』第二、四、五番などの主題をきいてみたまえ。なんという安っぽさ、俗っぽさだろう! そのうえ、あとに出てくる発展は、もう常套(じょうとう)手段ばかり。ただ、気持よく響く音が器用にならべられてあるというだけの音楽は、ほかの芸術なら、本当の音楽とは別に、大衆的な何かというふうに、わけておかれ、画だったら、お菓子屋か百貨店の包み紙かチョコレートの箱、または少年少女雑誌の巻頭に印刷され、やがてそれがはがされて、女子学生の寄宿舎の壁にはられる――つまり、応用ないし娯楽美術に分類されるのだろう。」

ヒドイ。www

しかし、本当にこの本は僕の音楽感覚を鍛えるのに役立ったし、
今でも、あれ? この曲について吉田さんはどう書いていただろう?
と時折見返すことがある。
さて、更に新潮文庫版のこの本には「レコード表」が付いていて、
吉田さんがよいと感じる、謂わば推薦盤のリストがあって、
レコードや CD を買う際に大変参考にさせてもらった。
これもご参考までに書き抜いておくと、
その中で小澤征爾さんの演奏が選ばれているのは次の6曲だ。
(曲名の先頭の番号は300曲中の番号)

180 ベルリオーズ『幻想交響曲』
ミュンシュ指揮ボストンso. R-RX2353
小澤征爾指揮ボストン so. P-MG2409
ブレーズ指揮ロンドン so. CS-23AC593

250 参考盤 デ・ファリャ『三角帽子』
小澤征爾指揮ボストン so. ベルガンサ P-MG1079

269 オネゲル『火刑台上のジャンヌ・ダルク』
小澤征爾指揮ロンドン so., 合唱団, ゾリーナ, クリューンズほか CS-SOCO123〜4
ボド指揮チェコ po., 合唱団, ボルジョーほか C-OQ7389〜90

277 参考盤 シェーンベルク『グレの歌』
小澤征爾指揮ボストン so. Ph-25PC37〜8
ブレーズ指揮BBC so. CS-SOCO112〜3

288 メシアン『トゥランガリラ』
小澤征爾指揮トロント so., イヴォンヌ・ロリオ (p), ジャンヌ・ロリオ (オンド・マルトゥノ) R-SX2014〜5

297〜300 全て廃盤になったその代わりとして
武満徹『カトレーン』『鳥は星の庭に降りる』
小澤征爾指揮ボストン so. P-MG1272

お気づきだろうか?
ベルリオーズの『幻想交響曲』以外は、
何れも小澤さんの演奏が1番目に挙がっているのだ。
特に現代的な曲での小澤さんに対する吉田さんの評価が
高かったことがわかるというものである。

メチャメチャ長い前置きになったけれども、
吉田さんがこの最後の 297〜300 として挙げた曲のレコードが
何れも廃盤になったことに関して注記して、

「現在の作曲家を論じて武満徹をぬかすことはとても出来ない。」

と書かれている、その一文こそ、僕と武満徹さんの音楽の
出会いとなったものなのである。
この一文がきっかけとなって武満徹さんのレコードを
買うことになるのだが、その1枚が小澤さんの指揮、
トロント交響楽団の演奏になるこのディスク、
そしてもう1枚が当時ビクターが出していた
日本の現代音楽のシリーズの1枚であった。

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もう随分昔のことなので正確な順番は覚えていないが、
多分、タイトル曲の『ノヴェンバー・ステップス』は、
どちらかというとメシアンの2枚組『トゥランガリーラ交響曲』の
最終面に入っていて先に聴いていたように思う。
そのあと、武満徹さんが小澤征爾さんとの対談集『音楽』で、
ストラヴィンスキーが『弦楽のためのレクイエム』を評価してくれ、
それが彼が世に出るきっかけとなったということを読んで、
『弦楽のためのレクイエム』とはどんな曲だろう? と、
確か若杉弘さん指揮、読売日本響の演奏になる
ビクター盤を買って聴いたのだと思う。
でもどこかピンと来ていなくて、
その後小澤さんのこのディスクを見つけて聴き直したように思う。

いや実際、ここでの小澤さんの演奏はやはり熱い。
『弦楽のためのレクイエム』に関して言えば、
淡々と響く若杉さんの演奏よりも、
小澤さんの演奏はとても説得力を持って僕の心に迫って来るのだ。
深い深い闇を表現したような音楽、
その闇の恐ろしさのようなものが迫って来るのである。

恐ろしいと言えば、高橋悠治さんがピアノ・ソロを執る
『アステリズム』も素晴らしい。
これは初演メンバーによるものだが、後半8:40くらいから
約2分近くかけてのクレシェンドの迫力、恐ろしさと言ったらない。
ビートルズの "A Day in the Life" でも
ノイジーなオーケストラのクレシェンドがあるが
あれはせいぜい30秒程度のものだ。
武満さんの曲の、小澤さんによるこの2分間の盛り上げ方は凄い。

同じく初演者、琵琶の鶴田錦史さん、尺八の横山勝也さん、
そして小澤さんの指揮による『ノヴェンバー・ステップス』は
オケが初演と異なることを差し引いてもやはり説得力がある。
が、僕はこのディスクに『地平線のドーリア』が入っていることに
最初は気づかなかった。

『地平線のドーリア』の初演者はビクター盤の若杉さんで、
これを最初聴いた時僕はとても驚いたのだけれども、
弦楽器だけで演奏されているにも拘わらず管楽器の響きがするのだ。
それも笙だったり篳篥だったり、そう、雅楽の響きがするのだ。
更には弦のピチカートから羯鼓の音まで聞こえて来たりする。
弦楽器だけでこんなことが出来るのか、と驚いものである。

が、残念ながら小澤さんの演奏からはその響きは聞こえてこない。
或いはこれは小澤さんの指揮というよりも、
オーケストラがその響きを理解できなかったせいかもしれない。
篳篥や笙の響きを西洋人は "awful"、
即ち「恐ろしい」と感じるということをどこかで読んだことがある。
トロントのオーケストラよりは日本のオーケストラ団員の方が
雅楽の響きに慣れていたからではないかと勝手に想像するのである。

しかし、それはあくまでも若杉さんの演奏を知っている
作曲家としての僕の捉え方、こうあってほしいという
願望にすぎないのかもしれない。
雅楽的な響きという点を忘れて、純粋にこの演奏に耳を傾けるなら、
小澤さんの演奏はやはり熱く、また別な説得力を持って
心に響いて来るのである。

2024年3月31日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その2・サイトウ・キネンのブラームス『交響曲第1番』

正直ブラームスは苦手である。
大体出会いがよくなかった。
中学の時の卒業式かなにかの式典の時に
例のベートーヴェンの『第九』の「歓喜に寄す」に似た
あのメロディーが BGM として流れていたのだ。
それを聞いた僕は、「何このベートーヴェンのパチもんみたいな
なよなよしたメロディーは?
こんなの流すのだったら『第九』を流せばいいのに」っと思ったのだ。
それがブラームスの『交響曲第1番』の最終楽章だと知ったのは
それからずっと後のことのようだったように思う。

後に、吉田秀和さんの『LP 300 選』に従って、
交響曲の『第4番』と『第2番』を聴いたのだが
あまりピンと来なかったように思う。
『第4番』に至っては、多分これを聴く前にその第3楽章を
イエスのリック・ウェイクマンが『こわれもの』の中で演っている
そちらの方が印象に残っているほどだ。w
第一、ヴァーグナーより20歳も年下なのに、
つまり、世界的に影響を与えた楽劇『トリスタンとイゾルデ』を
聴いているはずなのに、寧ろベートーヴェンよりも古典的な
古い感じのする響きでではないか。
因みに、ブラームスが40年掛かって仕上げたという
『交響曲第1番』が完成、初演されたのは1976年で、
この年は、ヴァーグナーの『ニーベルンクの指輪』四部作の
最後の作品『神々の黄昏』が初演された年である。
彼より9歳年上のブルックナーがヴァーグナーの響きを取り入れて
ベートーヴェンの交響曲を更に拡大したのと対照的だ。

そう、僕は管弦楽法を勉強した時に、
例のリムスキー=コルサコフの教科書も読んだが、
その「まえがき」で彼はこう書いている。
(以下、英語版からのヒロシによる自由訳)

「古典派の作曲家、そして近代の作曲家でも、想像力とパワーを駆使してオーケストレーションを行う能力に欠けている作曲家は一人や二人ではありません。音の色に関する秘密は長いことこうした作曲家たちの創造力を越えたところにあったのです。それでは、こうした作曲家たちは管弦楽法を知らなかったということになるのでしょうか? いいえ、彼らの中の多くは、単に色彩的な表現をする作曲家たちよりは寧ろより多くの管弦楽法の知識を身に付けていました。或いは、ブラームスは管弦楽法を知らなかったのでしょうか? そんなことは勿論ありませんが、にも拘わらず、彼の作品のどこにも、鮮やかな色調や絵画的イマジネーションを呼び起こすような表現を見つけることはできません。実際、ブラームスの音楽的思考は音の色の面には向けられなかったのです。彼の心は色彩的表現を必要としなかったのです。」

そんなブラームスなのであるが、
少し前に「レコード芸術」か何かの記事に出ていたのだが、
最近は「交響曲」の読者による人気投票を行うと、
ダントツ1位となるのは、かつてはベートーヴェンの『第5番』
だったのが、今はブラームスの『第1番』なのだそうだ。
悲壮感漂う重たい出だしに始まりつつ、最後は光と希望を感じさせ
力強く終わるのが人気の秘密らしいが、
ベートーヴェンの『第5番』だってそうではないか。
ただ、僕にしてもこの曲で最も印象的なのは
その第1楽章のティンパニの4ツ打ちに支えられた出だしと
第4楽章のエンディングのところはカッコイイと思うのだ。
そんなこともあって、ここまで散々書いて来たが、
実はこの出だしを真似て2011年に「Return to the Earth」
という曲を発表している。w


さて、前置きが長くなったけれども、
小澤征爾さん率いるサイトウ・キネン・オーケストラが
1987年の最初のヨーロッパ遠征の時に演奏したのが
このブラームスの『第1番』なのであって、
その時の遠征の模様はコンサートの舞台裏を含めて
NHK で放送されたので記憶されている人も多いことと思う。
僕もこの番組で演奏風景を見てスゲーと思ったものである。
何とも分厚く、熱い響きを奏でる弦楽器群が凄い。
幸い、この番組を YouTube にアップしてくれている人がいるので
ご存じない方はご覧になられるとよいと思う。


なので、サイトウ・キネンの CD となると
やはりブラームスの『第1番」は聴いておきたい。

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1990年の録音と言うから、最初のヨーロッパ遠征から3年後で
暑くて熱いストリングスは健在だが、テレビで観たものよりは
ずっと落ち着いた感じの響きではないかと思う。
まぁ、小澤さんが振ってる絵があるのとないので
こちらの聴き方が影響しているのかもしれないけれども。w

ブラームスの『第1番』の人気に火を付けたのは、
ミュンシュがパリ管を率いて1968年に録れたEMI 盤ではないか、
と僕は思っている。
何を隠そう、僕が『第1番』の CD を買ったのはこれが最初で、
その色彩的表現に驚いたものだ。
これがブラームス? と。
第4楽章なんかどんどんアッチェランドして
否応もなく盛り上がって感動するのだ。

ミュンシュの弟子でもある小澤さんの演奏は
もっとどっしりしていて別の行き方だけれども
そもそもウィーンのブラームス演奏がどういうものか
僕にはわからない。
ただ、上で紹介した NHK の番組ではウィーンとベルリンの
観客の感想に「解釈の違い」について触れている人たちがいるのが
興味深いと言える。

「解釈」とは何か?
これは、バーンスタインが Young People's Concerts の5回目
「What is Classical Music?」で触れているのが参考になる。
即ち、所謂「クラシック」とジャズやロック、ポップスの違いは
クラシックは楽譜通りに演奏することが期待されるということだ。
しかし楽譜通りと言っても、楽譜に全てが書いてあるわけではない。
僕等はベートーヴェンが指揮した『第九』がどんな響きだったか、
バッハが自ら演奏したオルガン曲がどんな響きだったか
録音が残っていない以上正確には知り得ないのである。
従って、楽譜には書いてない細かいテンポやデュナーミク、
各楽器のアーティキュレーション、楽器間の音量バランス、
こうしたものは全て演奏家に委ねられているのだ。
そう、楽譜という紙に書かれている情報を
具体的な音として現実のものにすること、それが「解釈」なのだ。

上に紹介した NHK の番組の中で、小澤さんと秋山さんが
コンマスの安芸晶子さんと弦の弓使いの確認をするシーンがある。
安芸さんがバイオリンを弾くと、小澤さんも秋山さんも
それを真似つつ、そうそう、そうだった、と相槌を打つのだ。
してみると、このディスクにも聞かれる
サイトウ・キネンのあの分厚い弦の響きというのは
小澤さんがそういう音作りをしているというよりも、
齋藤秀雄さんが示した弓使いの再現から来ているのではなかろうか。
そう、このオーケストラはあくまでも「サイトウ・キネン」
なのである。
齋藤秀雄さんは指揮法の先生として有名だけれども、
ご本人はチェロ奏者であったから
弦楽器の弓使いについては明確なヴィジョンがあったに違いない。

だからそう、それはウィーンの伝統とは異なるかもしれないが、
やはり素晴らしいブラームスなのだ。
2010年3月の「グラモフォン」の記事、
世界のオーケストラベスト20で、このオーケストラが
19位にランキングしているのはその演奏の素晴らしさが
世界的にも認められていることの証左に他ならない、

1987年に初めてこのオケのことを知った時に、
何故そのヨーロッパデビューがブラームスなのか
不思議に思ったことがある。
もしかすると『第1番』は小澤さんを含めた
サイトウ・キネンのメンバーにとって思い出のある曲なのか、とも
小澤さんが弟子入りしたいと感じたミュンシュの演奏を
初めて観た時に演奏していたのがブラームスだったからか、とも
僕は想像するのだが、何れにしても小澤さんにとっては
特別な曲だったのかもしれない。

[2024.04.14 追記]
「何故ヨーロッパデビューがブラームスなのか」について、
その後読んだ村上春樹さんとの対談集
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』の中で
そのことが触れられていたので、ご参考までここに引用しておく。

「それはね、斎藤先生の味が出るのはやはりブラームスだって、僕らは思ったんです。……(中略)……みんなにも聞いて、それで決めたと思うんだけど……。斎藤先生の 考える『しゃべる弦楽器』には、ベートーヴェンよりもブラームスの方が向いているんじゃないかと。 エスプレシーヴォの強い、つまり表情豊かな弦楽器には、 ブラームスが向いているだろうということです。で、とにかくまずブラームスを全部やろうよということで始めたのが、ヨーロッパの旅行だったんです。」

2024年3月30日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その1・サイトウ・キネンのベートヴェン『第九』

RL でいろいろなことがあってこの日記も随分間が空いてしまった。
最後に書いたのがパイプオルガンのプラグインに関する記事で、
その前は小澤征爾さんの追悼記事だった。
前にも書いたが小澤征爾さんはずっと僕の中ではヒーローだったので
やはり旅立たれたことはとても残念でならない。
そこで何枚か手許にある小澤さんが指揮したディスクを聴きながら
つらつら心の中に浮かんで来ることなどを書いて行ってみようと思う。

まず最初に、僕が小澤さんのことを知るきっかけになったのが
ベートーヴェンの『第九』だったし、
皆さんもご存じのように僕は毎年『第九』に関わっているので
この辺りから書いて行ってみよう。

小澤さんはこのベートーヴェンの『第九』を
確か3回録音しているはずだ。即ち、

・1974年録音、ニュー・フィルハーモニア管(Philips)
・2002年録音、サイトウ・キネン・オーケストラ(Philips)
・2017年録音、水戸室内管(Decca)

1974年のニュー・フィルハーモニア盤が、
僕が初めて小澤さんの指揮を観た時に時期的には近いので
いつか聴いてみたいと思ってはいるけれども、
今回は手許にあるサイトウ・キネン盤について書いてみる。
これは、何と50万枚以上売れたという、
クラシックの CD としては驚異的なベストセラーになったものだ。

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結論から言ってしまうと、なかなか標準的な第九演奏と言える。
演奏時間は CD 全体で 69分、楽章と楽章の間を除いた
本体の演奏時間は 67分21秒なのでやや速いかもしれない。
2002年、元旦のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに登場、
同年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任したその小澤さんが
同じ年のサイトウ・キネンフェスティバル松本で振った時の
ライブ録音ということで、サイトウ・キネンらしい
分厚いストリングスが醸し出す熱く緊張感に溢れた演奏だ。
前に書いた第1楽章再現部の手前、雪崩れ込むような感じの部分、
子供の頃の僕に印象深く刻まれたあの感じは
今この演奏にも生きているようだ。

今「標準的な演奏」と書いたが、実は標準的でないところがある。
第2楽章だ。
普段は第3楽章に置くスケルツォをベートーヴェンはこの曲では
第2楽章に置いて、反対に通常は第2楽章に置く緩徐楽章を
3番目に持って来た。
そしてこの第2楽章のスケルツォには問題があって、
388章節目から399章節目にかけて
1番かっこの繰り返し記号がある。
20世紀の『第九』演奏のスタンダードを築いたと言われる
ヴァインガルトナーはこの繰り返しをしないよう指示したとか。
なので、僕がいつも聴いて参考にしている
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管の演奏でも
ここは繰り返さずに最初から2番かっこに飛んでいる。
そのことを知ってか知らずか忘れてしまったが、
かつて横浜マーチングバンドで『第九』の全曲演奏をやった時は
僕もこの1番かっこは飛ばして演奏している。
ところが、小澤さんのこの録音では
1番かっこをちゃんと演奏して繰り返しているのだ。

繰り返す場合と繰り返さない場合は指揮者のテンポにもよるが
3〜4分くらい演奏時間に差が出て来ると思う。
調べて見ると第2楽章の演奏時間はフルトヴェングラーが11分52秒、
バーンスタイン指揮ウィーンフィルが11分11秒、
ご参考までヒロシの YMB 版が11分41秒なのに対して
小澤さんのは13分27秒だ。
つまり、繰り返してこの差ということは結構速い演奏と言える。

速いと感じるのは第3楽章もそうだ。
これは僕がベートーヴェンが書いた最も美しい音楽と思っているが、
フルトヴェングラーのあの眠くなりそうなくらいゆったりとした
テンポの演奏が好きなのである。
天上の音楽。
そう思ってこれも演奏時間を調べてみたら、
フルトヴェングラーが19分27秒、僕のは更に遅くて19分46秒。
だから14分1秒の小澤さんのは、それは速く感じるよね。w

そして第4楽章。
ここで僕がその演奏の特徴を見極めるのが、1つには
Allegro assai の94章節目、「歓喜に寄す」の大合唱が、
"vor Gott(神の前に)" とフェルマータの付いた全音符になり、
次の小節からは Alla Marcia と書かれたマーチになる所だ。
初めて『第九』を聴いた時はこの部分でゾクっとした。
このえも言われぬ恍惚とした感動を覚えるには、
"Gott" のフェルマータをどれだけ延ばすか、
そしてマーチを開始するまでにどれだけ間を取るか、なのである。
因みにフルトヴェングラーのバイロイト盤ではどちらも8秒。
僕もフルトヴェングラー目指して延ばしてみたが、
フェルマータが6秒、その後の間が4秒で、
小澤さんのサイトウ・キネン盤ではそれぞれ6秒、3秒だ。
僕がこの演奏を良い演奏と感じるのはこういう所にもあるかも。

もう1つ、僕が必ずチェックするのが、最後のエンディング、
"Prestissimo" と書かれた部分のテンポだ。
これは「極めて速く、この上なく速く」という意味なので、
とっても速く弾かなければならないのだけれど、
この前にこの標語が出て来る所には BPM = 264 の指定があるので
もう、メチャメチャ速く弾く必要があるわけだ。
で、これをやっているのがフルトヴェングラーで
バーンスタインもウィーン・フィルとの全集版で速く弾いている。
フルトヴェングラーに至っては、もうオケが付いて来れなくて
音がズレまくったりしてるけれど、
それだけに終わった時の感動が凄いのだ。
で、僕も YMB の『第九』演奏会ではそれを真似てやってます。w
一方、この小澤さんのはそこまで速くなくて、
まぁ、現実的にはこの位で、多分僕が子供の頃観た時も
この位のテンポだったんじゃないかと思う。

というわけで、いろいろ書いたけれども、
全体としては小澤さんの熱気が伝わる聴きやすい演奏だ。
どうしてもフルトヴェングラーで聴くことが多いのだけれども、
この演奏ももっと聴いてみようかな。
次回はサイトウ・キネンのブラームスについて書きます。

2024年1月4日木曜日

【レビュー】 ディズニーの『ラテンアメリカの旅』を観た!

前にディズニー・プラスの契約をした話を書きました。
一番の狙いは「スター・ウォーズ」シリーズが観れることでしたが、
同時にディズニーに名作アニメが自由に観れるのも魅力でした。
その名作というのも最近の話題作は勿論ですが、
案外古〜い、ディズニーの原点のような作品だったりします。
実際、ディズニー・プラスを契約して一番最初に観たのが
『わんわん物語』(1955年)でした!w

それから『白雪姫』も観ましたね!
これはアニメも実写もいろいろ映画化されているでしょうが、
やはり "Heigh-Ho" や "Someday My Prince Will Come" といった
名曲を含む 1937 年のディズニーのアニメこそ
白雪姫のオリジナルのような作品ですね。
そう! 今回見直して、これが 1937 年という
第二次世界大戦より前に作られた作品と知って驚きました。
この時代にこれだけのクォリティのものが作られていたんですね!

実は『白雪姫』も『わんわん物語』も観たいと思ったのは
音楽的な興味からで、こうした古い作品に接して思い出したのが、
もしかして、あれ、あるかなぁ、と検索したら出てきましたよ。
『ラテンアメリカの旅』という 1942 年の作品。
原題は Saludos Amigos、つまりスペイン語で
「こんにちは、お友だち」というものなのですが、
これはディズニーのスタッフが新しいアニメの素材を求めて
ペルーのチチカカ湖やチリ、アルゼンチンのパンパや
ブラジルを訪れた時のことを、絵や音楽のスタッフの
旅行中や取材している様子を写した実写のシーンと
そこから生まれたドナルドやグーフィーのアニメとが組み合わせられた
とても魅力的な作品なのです。

なのですが、このタイトルをご存じの方は
あまりいらっしゃらないかもですね。
私が何故この作品を知っているかというと、
ずっと昔、今から30年くらい前でしょうか、
ラテンの名曲についていろいろ調べていた時に
「ブラジル」のタイトルで有名な定番名曲がヒットしたのは
この映画がきっかけだったと書いてあったからなのです。
しかし、古い作品であるのと、その他数あるディズニーの名作の中で
例えばプライムビデオや Hulu などの動画配信でも
普通にはあまり上がって来ない作品ですね。
同じ時期に作られた『ファンタジア』とは大違いです。
んで、今回ディズニー・プラスで検索したら
「あった!」というわけです。
30年越しでやっと出逢えた作品というわけなんですね。

映画のアニメ部分は全部の4つのエピソードから成っていますが、
「ブラジル」の曲が出て来るのは一番最後の
「Aquarela do Brasil」、つまり「ブラジルの水彩画」のシーン。
ディズニーの画家の筆がブラジルの美しい自然の風景を
水彩でどんどん描いていくのに合わせて
その風景を背景にドナルドが踊ったりするというもの。
しかもこの「Aquarela do Brasil」というのは、
例の「ブラジル」の曲の原題なんですね。

この曲は元々、ブラジルの作曲家アリ・バローソが 1939 年に
雨の音にヒントを得て作ったものらしいです。
「水彩」というのは元は雨のことだったんですね。
同じ年にフランシスコ・アルベスが録音したレコードが
オデオン・レコードから発売されるも、
どうもなかなか売れなかったらしいのですね。
それがこのディズニーのアニメで一躍有名になったらしい。
後に英語の歌詞も付いて、
タイトルも単に「Brazil」と呼ばれるようになったというわけ。
原題にある「水彩画」の表現を見事に活かした
ディズニーのアイデアがぴったりハマったんでしょうね。

こうして漸く「ブラジル」の曲のオリジナルとは言えないまでも
ヒットのきっかけになったディズニーの映画を観ることができました。
調べると何と、YouTube にちゃんと上がっているんですね。
というわけで最後にその動画を紹介しておきます。

2024年1月3日水曜日

【レビュー】 シリア映画『ダマスカス…アレッポ』

先週、と言ってももう昨年となった12月25日のクリスマスの日
NPO 高麗主催で渋谷の東京ウィメンズプラザで行われた
「シリア上映会&いだきしんコンサート」に参加しました。
NPO 高麗は継続的にシリアへの支援を行っており、
イベントはムハンマド・ナジーブ・エルジー・シリア大使夫妻が
臨席して行われ、「ダマスカス…アレッポ」と
「ナツメヤシの血」という2本のシリア映画を観たあと
いだきしんさんによるピアノの即興演奏が行われました。
大使は破壊されたシリアはフェニックスの住むと言われる地、
フェニックスが灰の中から蘇るように、
シリアも必ず復興する、と力強く述べられ、
いだきしんさんの演奏もフェニックスを表現したものでした。

2本の映画は同じく昨年の10月6日〜13日にわたって
東京外国語大学建学150周年記念事業の一環として行われた
「シリア文化週間」でも上演されたもので、
字幕も東京外国語大学メディア情報センターによるものでした。
かつてイラン映画にハマって、その他の中東の映画を観ていた私も
シリアの映画を観るのはこれが初めてでした。
2本の映画、何れも深く考えさせられるものがありましたが、
今回はそのうちの1本、「ダマスカス…アレッポ」について
書いてみます。

240103a

この映画は2018年、バシル・エル・ハティブ監督の作品で、
同年10月に行われたアレクサンドリア国際映画祭(AIFF)の
オープニングで上映され、最優秀アラブ映画賞を受賞したという
アラブ世界ではかなり話題になった作品です。
にも拘わらず、Web 上では日本語の記事を見つけることが
できませんでした。
この作品について知りたいという方いらっしゃいましったら、
英語のタイトル "Damascus...Aleppo" か、
アラビア語の原題 دمشق حلب をラテン文字にした 
"Damashq Halab" で検索してみて下さい。
(そう、ダマスカスはアラビア語では「ダマシュク」、
 アレッポは「ハラブ」と言うのです。)

映画は、主人公のイーサー・アブドゥッラーが、
首を縊って自殺しようとする友人を止めに来るところから始まります。
友人は言います。自分の周りの人はみんな死んでしまった、
自分にはもう生きている意味はないのだと。
これにイーサーは、人は自分のだめだけに生きているのではない
自分が生きていることが他の誰かのためになっているのだと。

友人の自殺を止めた次の日、姪のエバが婚約の報告に来ます。
翌日結婚式を挙げるとのことで、イーサーは、
亡きエバの両親に代わって必ず同席すると約束し、
更に仲のよい友人二人にも出席するよう頼むのです。

結婚式当日、イーサーは結婚式に先立って
アレッポで行方不明になった娘ディーナの夫の捜索を
警察に依頼するのですが、警察から結婚式会場の裁判所に行く途中
渋滞に巻き込まれてしまい、約束の時間に遅れてしまいます。
そして、彼が裁判所に着き、会場へ向かおうとしたその瞬間、
裁判所がテロにより爆破されてしまうのです。

この突然の爆破シーンにはショックを受けました。
そう、イーサーは愛する姪と親しい友人を二人も
この時に失うことになってしまうのです。
墓参りのあと今度はイーサーが自分は何故生きているのか、
と自殺しようとした友人に問うのです。
友人は他の誰かのため、とイーサーから言われた言葉を
そのまま返すのです。

イーサーには、アレッポに住む娘のディーナとその子供達がいる。
イーサーはバスに乗ってアレッポの娘を訪れることを決めます。
ダマスカスからアレッポまでは幹線道路で約400キロですから
大体4時間くらいの道のりでしょうか。
バスには様々な背景を持った人たちが乗ってきます。
皆、何とか今日中にアレッポに着きたいと願い人たち。
一人一人、他の乗客に好意を抱いたり、
その反対に嫌なヤツだな、と思ったりする中
バスはアレッポに向かって出発します。

ところがまぁ、その道中、いろいろなできごとが起こり、
バスの進行は妨げられるのです。
その度に、これは悲劇につながるのではないか、と
ハラハラさせられるのです。
というのも映画が突然の爆破のシーンで始まったからです。

ネタバレになるので個々の事件の細かい話は省きますが、
結局バスはアレッポに到着し、イーサーは娘の家に向かいます。
ところが、娘の住むアパートの周りに IS が地雷を仕掛けたと
国軍によってアパートは封鎖されてしまっているのです。
イーサーはここまで来て娘に会わずに帰れるものか、と
地雷が埋まっているかもしれない中を
娘の方に向かって一歩一歩歩き始めるのです……。

ポスターの写真はこのシーンのものですね。
これもネタバレになるので結末は書きませんが、
このシーン、とっても感動的でした。
人の生き死には人間が自分で決めるものではない、
全て神の御心次第(インシャラー)なのだ。
仮令死ぬかもしれないと思っていっても、
人は一歩一歩、自分のなすべきことに向かって
歩みを続けなければならないのだ、と。

ご興味を持って頂いた方の為に、YouTube に上がっている
予告編の動画をシェアしておきます。英語の字幕です。


あと、英語を含めて、キャストの情報が少ないので
この映画のアラビア語の Wiki ページで取得した情報を元に、
わかっている範囲で記載しておきます。

■映画「ダマスカス…アレッポ」(2018年)
 ・監督:バシル・エル・ハティブ
 ・出演:ドゥレイド・ラハーム(イーサー・アブドゥッラー)
     キンダ・ハンナ(ディーナ:イーサーの娘)
     サルマ・アル・マサリ(フダー:イーサーの憧れの人)
     サバー・アル・ジャザイェリ(ラファー:イーサーと心を通わす女性)
     アブデル・モネイム・アマイリ(ジャラール:若いDJ)
     ビラール・マルティーニ(ワリド:ディーナのアパートを守る兵士)

クリスマスの日にキリスト教世界の映画でなく
イスラーム教の中東の映画を観るというのも不思議な感じがしますが、
因みに主人公の名「イーサー」はアラビア語で「イエス」のこと。
やはりこの日に観たということは偶然ではないのかもしれません。

2023年9月4日月曜日

【RL】 フランスとドイツのマーチを聴く!

さて、8月末に行われた第6回セカフェスでは
わが横浜マーチングバンドはパレードと演奏会を行ったわけですが、
演奏会を行うに当たって指揮を担当する僕は、
今更ながらに吹奏楽の勉強をしているところであります。w
子供の頃から管弦楽大好き人間で、やっぱり弦がないと、という人です。
なので、過去の演奏会では弦入りの曲をやっていましたが、
winds さんが卒業した今、改めて弦の入らない、
所謂吹奏楽のアレンジなどを勉強しているわけです。

で、僕の好きなマーチの名盤というと、やはり弦も入ってる
バーンスタインがニューヨークフィルを振ってるマーチ集で、
これは全体にテンポが速い。
バーンスタインもオケも超ノリノリで演奏していて、
中でも特に早いのが「星条旗」で、
ここではピッコロがもう前のめりのすごい演奏、すごい名演です。
この弦入りの、前のめりの演奏に慣れた耳を正常に戻すのは、
やはり定番フィリップジョーンズアンサンブルのスーザ名曲集、
というわけなんです。

そう! マーチというとスーザなんですが、
フランスやドイツにも名曲ありますよね、ということで
中古 CD 屋さんで物色していたら「おお!」という2枚を見つけたので
今日はその話をします。

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まず最初は、フランスの名門、ギャルド・レピュブリケーヌによる
「フランス革命」と題された1枚。
これは1989年のフランス革命200周年を記念して
当時沢山の名演を残したブトリーの指揮で、
フランス革命当時のマーチを特集した CD。
ギャルドは、今でこそパレードは行わないコンサートバンドですが、
ギャルド、つまり英語のガード、という名前が示す通り、
元々は国王所属の「近衛兵」が起源で、
革命後共和国の「国民衛兵隊」として発展してきたわけですから、
当時からのレパートリーを沢山有しているはずなのです。
なので、ギャルドの優れた演奏を収めたディスクは多数ありますが、
革命当時の音を収めたこのディスクは「おお!」と迷わず購入。w

中でも、フランスのマーチと言えばみんなが知ってる
「ラ・マルセイエーズ」、フランスの国歌でもあるわけですが、
これを歌う国民的歌手のミレイユ・マチユの歌が圧巻、
私にはドラクロワが描く自由の女神が降臨したかのような
そんな感動を呼び起こす熱い演奏なのです。
このディスク、録音が1988年の7月、
つまり200周年の1年前の、正に革命の月に行われていて、
マチユやブトリー以下、演奏に携わった一人一人の思い入れは
並々ならぬものがあったのだろうと思います。
とにかく熱気に満ちた凄い演奏。

もう1枚は——正確には2枚組なのだけれど——
カラヤン指揮のベルリンフィル吹奏楽隊によるマーチ集。
カラヤンとベルリンフィルの組み合わせと言えば
どんなに華々しく、輝かしい響きを聞かせるかと期待すると思います。
実際、レコード時代はこんなジャケットだったようです。

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すごいですねー。燃えています。
そして、第三帝国時代の映像を見たことがある人には
ドイツ国民全体を戦争に駆り立てた熱い音楽を思い起こすでしょう。
しかし、実際に演奏を聞いてみると、もっとおっとりとしていて
このジャケットのイメージとは全く異なると言ってよいのです。

このディスクには「ドイツ行進曲集」の邦題が付いてたりしますが
それがそもそも誤訳です。
「ドイツ行進曲」というと、やはり僕等は第三帝国時代の
音楽を思い起こすのではないでしょうか。
このジャケット、誰が描いたのかは知りませんが、
何となくドイツ語の吹奏楽隊を意味する "Bläser" から
英語で「燃える」を意味する "blaze" を連想したように想像します。
原題は「プロイセンとオーストリアの行進曲集」というのです。

これは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の命で
編纂されたプロイセンとオーストリアの行進曲51曲から
30曲をセレクトした録音で、即ち、ヒトラーの第三帝国より
ずっと以前、古式床しき軍楽の伝統の記録なのである。
僕が購入した CD のジャケットの方がその本質を表しているように思う。

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先のフランス革命集同様、CD 2枚に収められた30曲の殆どは
僕の知らない曲で、知ってる曲と言えば
プロイセンのタイケ「旧友」と
オーストリアのヴァーグナーによる「双頭の鷲の旗に下に」位だが、
この「双頭の鷲」は僕がセカフェスの時誤ってドイツの曲と紹介したが、
この曲はじめ全体にオーストリアの曲の方が華があってカッコイイ。

そう言えば、このディスクの録音は1973年だが、
この年カラヤンは、僕が持っているものだけでも
R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲル」、
「アダージョ」が有名になったマーラーの「交響曲第5番」、
シェーンベルク他新ヴィーン楽派の管弦楽曲集と
オーストリアの作曲家の音楽を精力的に録音している。
この行進曲集もそうした彼のオーストリアプロジェクトの
一環ではないか、と僕は感じるのです。
カラヤンはオーストリア人としての出自に生涯拘ったと言います。
故あってヴィーンフィルとは袂を分かったわけですが、
プロイセンのベルリンフィルを振りながらも
彼が表現したかったったのはオーストリアの、
或いはヴィーンの豊かな伝統だったのかもしれません。

2023年6月8日木曜日

【レビュー】 最近観た映画・その1〜「レフト・ビハインド」

僕をよくご存じの方なら、僕が SF 好きであることは
ご承知のことと思います。
僕の友だちには SF は嫌い、という人もいます。
ただの荒唐無稽な作り話と考えるときっとつまらないでしょう。
事実、宇宙人がやって来たり、モンスターが現れて暴れたり
といった映画の殆どはあまりにも類型的でつまらない。
「スターウォーズ」や「スタートレック」のシリーズだって
西部劇の舞台をただ宇宙に置き換えただけでしょ?
と言われてしまえばそれまでです。
そこには「宇宙が舞台」ということ以外に
Scientific 「科学的」なものは何もないかもしれません。

しかし、SF とは元々は「Science Fiction」と呼ばれていましたが、
アーサー・C・クラークのような人が出てきてから
「Speculative Fiction」、つまり「思弁小説」とも呼ばれています。
それは「もしこういう状況に置かれたら自分はどうするだろうか?」
という、哲学的思考実験と言えるものです。

こうして僕が SF 映画を結構観ているからでしょう、
Amazon Prime の「お勧め映画」に「レフト・ビハインド」が
何度も繰り返し上がって来ていました。
しかしそのポスターから取ったと思われるサムネールがねぇ。。。
主演のニコラス・ケイジの情けない顔と
空中で爆発しているらしい飛行機の絵なんですよね。
ああ、またニコラス主演のパニック映画か、ぐらいしにしか
捉えていなくていつもスルーしていたんですよね。

でもある時たまたまカーソルをロールオーバーして
見えたあらすじが、地球上からたくさんの人が消えた、という話。
ムムム! と思ったのです。
人が消えるという話、そして「レフト・ビハインド」、
つまり「取り残される」という意味のタイトル。
もしかして! と思ってみたらやっぱりそうでした。

人類滅亡、という SF 映画は多いのですが、
大体が宇宙人が攻めて来る、自然環境が壊れる、
宇宙から小惑星や彗星が直撃する、といった話が殆どで、
その意味ではこれはとてもレアな映画です。
これは、聖書に描かれている「携挙」をテーマにした作品なのです。

「携挙」という漢字も、「ケイキョ」と音にしても
あまり耳慣れない言葉なのではないでしょうか。
それもそのはず、これは聖書のある一節に書かれていることを
信じている人たちから生まれた終末思想だからで、
キリスト教にあまり馴染みのない日本人の方々には
全く以てピンと来ない話でしょう。
この「携挙」という言葉は英語の「Rapture」、
すなわち「連れて行かれる」という言葉の翻訳語なのです。

具体的には、新約聖書の「テサロニケの信徒への手紙」の
第4章に記載されている内容によります。

「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」
(新共同訳「テサロニケ信徒への手紙」第4章16・17節)

そうなのです。
この世の終わりに主とイエス=キリストを信じる人々が
この世から天に連れて行かれる、というのです。
キリスト教を信じている人たちにとっては
それはとても幸せなことでしょうが、それが本当に、
現実にこの世界で起こったらどうなるでしょう?
飛行機からはパイロットが消え、空港からは管制官が消え、
電車やバスの運転手、警察官や消防士、病院の医師などが
突然目の前から消えてしまったらどうなるでしょう?
そう、天に召されずに「残された(left behind)」人々は
一体どうなるのでしょう?

ニコラス・ケイジは結構 B 級 SF 映画に出演していて
それも大抵は情けないお父さん役だったりするのですが、
この「レフト・ビハインド」でもそう。
急に宗教に目覚めた奥さんは天に召されますが、
あまり宗教を信じていないニコラス・ケイジとその娘は
空の上と地上とでそれぞれ大変な目に遭いながら
映画の最後では再会します。

危うく飛行機墜落の危機を免れた乗客たちは
「よかったよかった助かった」と喜び合いますが、
ニコラス・ケイジの娘は言うのです。
「これで終わったわけじゃない、これからが大変なのだ」と。
そう。携挙を信じる人たちの間では、
残された人々には7年に渡ってあらゆる災害が降りかかると
そう信じられているのです。

イエス=キリストは預言通り復活しました。
そしてもう一度この世の終わりに現れると言われています。
その時、本当に携挙ということが起こるのでしょうか?
そしてもし本当に起こったら。。。
そういう思考実験をビジュアルで見せてくれる映画です。
最初に書きましたようになかなかレアな設定、
かついかにもつまらなそうなサムネールでスルーしそうな映画なので
敢えてお勧めさせて戴きます。^^


P.S. B級言いながら、情けない言いながら、
結構ニコラス・ケイジ主演の SF 映画観てるんですよね、これが。w

2022年10月25日火曜日

【RL】 これはもう買うしかないでしょう!〜YAZROCKETT『unfoundregenarate』発売!

先日 YAZROCKETT さんの新宿公演の記事を書きましたが、
その際、同じ日にニュー・アルバムが発売になったと書きました。
これがね、最高なんですよ。
これでもか! というほどのサービス満点なのです。^^
さすが15周年企画だなぁ。(と、他人事のように。。。

実は、YAZROCKETT さんのアルバムを買うのはこれが2回目。
前に東京にいらした時とか、CD 売ってたと思うんですけどね、
その時は買わずに(ごめんなさい!
2年前に iTunes Store で『Never Live in the Silence』を
買ったのだけれども、これは黒縞屋のこじゃさんが歌ってる
「Stop Activity」を除いてはあまり馴染みのない曲が多かった。
シングルでは持っていましたが、
やっぱり「PARADOX」、「Million Kisses」、
そして「supernovasupersonic」あたりを聴きたいじゃないですか!

それがね、全部入ってるんですよ、今回のアルバム。
加えて僕の好きな「洛陽」もね!
更に! 「PARADOX」はインストバージョンも入ってるし、
「Million Kisses」は東京・西早稲田にある
音楽喫茶・茶箱 Sabaco でのライブ録音も入ってる!

ここで、西早稲田の茶箱と聞いてピン! と来た方、
SL の音楽事情にお詳しいとも、
老人会入りは間違いないですね、とも言えますね!(失礼!
そう、SL でエレクロ系のミュージシャンを集めて行われていた
音楽イベント「Electrogram」!
2008年の正月に1回目が行われ、同じ年の8月に「Nitro」、
続く 2009年は「ElectricAudray」のテーマで行われて、
この時は出演した V.L.T.G のリョウさんと美恵さんの
結婚式が SL の会場で行われてとても感動的でした。
翌年 2010 年の「Siva」には僕も出演しましたが、
更に次の年、2011年はとうとう SL を飛び出して、
RL の東京・西早稲田でライブが行われたのですね〜。
僕はこの時さすがに RL のライブにはビビって
参加を見送りましたが、そういう思い出のあるハコなのですよ。

というわけで、てっきりその時の録音かと思いきや、
タイトルに「Live at sabaco 2015」とありますので、
その後またこちらにいらした時のものなのですね〜。
何れにしても貴重な音源であることは間違いありません。^^

というわけで、全16曲、大盤振る舞いの1時間23分、
YAZROCKETT のサウンドが好きだったら、
これはもう買わない理由はないでしょう!
というオススメの1枚です。^^

■YAZROCKETT: unfoundregenarate
221025a

M1 Who is...
M2 CrimeScreamCreamMachine
M3 PARADOX
M4 GIONISM (Floating Kyoto)
M5 Instant Sorrow
M6 Groundline
M7 Million Kisses
M8 洛陽~Rakuyou
M9 Massive (In Glass Mix)
M10 Sunrise (16bit Mix)
M11 supernovasupersonique (21th Century Hi-NRG mix)
M12 Past
M13 Million Kisses (Live at sabaco 2015)
M14 Sliced Silence (Bonus Track)
M15 PARADOX (Instrumental)
M16 Generate Glow

アルバム情報はこちら!

2022年9月28日水曜日

【RL】 う〜ん、素晴らしい!〜ヨハン・ヨハンソン監督の「最後にして最初の人類」

いや、前からその評判は聞いていたのだ。
だから Amazon Prime で配信が始まり、
「あなたが興味のありそうな映画」のトップに表示された時、
「おお!」と思って飛びついたのです。
いやぁ、これは素晴らしい。
とっても素晴らしい SF 映画です。

そして、最初に言っておくと、この映画のクレジットには
VFX とか CG とかいったスタッフは登場しません。
そう、全てが旧ユーゴスラヴィアでロケされたもので、
各地の建築物や記念碑がいろいろな角度で
白黒の映像で切り取られることで、或いは宇宙船だったり、
或いはコロニーだったり、或いは異形の生物だったりと
CG に慣らされた僕らには却ってイマジネーションを掻き立てられる、
そんな作品なのです。
そう、スターウォーズやマーベルのヒーローもののような
活劇はないものの、静的な映像が却って緊張感を高めるのです。
そして、如何にも古いフィルムのようにあちこちに現れるキズや
画面全体にノイズが乗っているのもすごく雰囲気あるし、
うん、正にシネマだね、これこそ映画、これぞ SF という感じです。
原作がステープルドンというのがまたいいんですよ。

そう、これまで何度か映画のレビューを書いていて、
その中で何度も繰り返しているように、
僕にとって最高の SF 映画は「2001年宇宙の旅」で、
2位は「インターステラー」か「TENET」か、というところですが、
この作品を観てしまったら、2位はこれか、
いや、もしかして1位か、というくらいの衝撃を受けているところ。
実際、あの辛口 Rotten Tomatoes で好評価100% っていうのも
頷けるというものです。
こんな数字、見たことないんですけどね。

残念なのは。。。映画のタイトルそのままだったか、
この作品、ヨハン・ヨハンソン監督の「最初にして最後の作品」に
なってしまったこと。
そう、この監督はもうこの世の人ではないんですよね、
僕より年下にも拘わらず。。。
そう考えると、この作品自体が監督からの
最後のメッセージのようにも思えてくるわけです。

とにかく、映像も、音楽も、ナレーションも素晴らしい、
オススメの SF 映画です!

2022年9月25日日曜日

【RL】 久しぶりに見直した張芸謀の「HERO」と「LOVERS」

中国の映画監督張芸謀(チャン・イーモウ)は
嘗て僕の好きな監督の一人だった。
その名前を知ったのはちょうど僕が大学で中国語を勉強していた頃、
陳凱歌(チェン・カイコー)監督の「黄色い大地」を手始めに
いろいろと中国映画を観ている中で、
やっぱり1987年の「紅いコーリャン」の映像美に魅せられ、
続く「菊豆(チュイトウ)」もテレビで観て、
折しも劇場公開された「紅夢」は映画館に足を運びましたよ。
とにかく色彩の使い方が綺麗なのと
これら3作品で主演を務める女優鞏俐(コン・リー)の美しさも
また魅力の一つだったですね〜。
その映像美に、とってもアートなものを、新しい中国を感じたんです。
そしてこの監督は、コン・リーという女優だけでなく、
1999年の「初恋の来た道」で章子怡(チャン・ツィイー)という
これまた美人の女優さんを見出すんですよね。

序でに触れると、チェン・カイコー監督の方は、やはり
コン・リーを起用した「さらば、わが愛/覇王別姫」を1993年に公開、
その後は夢枕獏さん原作による「始皇帝暗殺」を1998年に、
ドラマ化作品が日本でも話題になった「北京バイオリン」を2002年に、
そして最近ではやはり夢枕獏さん原作の
「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」を 2017年に監督してますね。
何れも、日本人にも楽しめる素晴らしい作品と思っています。

さて、話を戻すとそんな個人的にアートを感じていた
チャン・イーモウ監督だったのですが、
2002年公開の「HERO」と2004年公開の「LOVERS」には
公開当初とってもガッカリしたんですね。
「紅いコーリャン」では、もう、青い空や紅い空を背景に
コーリャンの畑が映っている、そんなシーンだけで
アートを感じたものでしたが、
「HERO」では、香港映画特有のワイヤーアクションを使って
空中を剣を持った武人たちが飛び回るわけですよ、
いかにもあり得ないような動きで。
これを観て僕は、あ〜、チャン・イーモウも終わったな、
とか思っていたわけですが、それを決定的にしたのが、
つい最近、2017年に映画館に観に行った「グレート・ウォール」です。
もう、これは完全にハリウッド映画でしたね〜。
確か、別の映画を観に行った時にポスターを見かけて、
ほう、チャン・イーモウが万里の長城の映画か。。。
と気になって観に行ったのでしたが。。。

ところが、最近、何か面白いアジア映画はないかと
Amazon, Hulu, Gyao などを見ていたら、
韓国映画を含めて結構伝奇的なものがいろいろ作られてる。
そんなんだったら、久しぶりに「HERO」とか「LOVERS」とか
観て見たいものだ、と思っていたら、最近 Amazon Prime で
配信が始まりましたので、思わず2作続けて観ましたよ。w

流石に、20年近くを経て観てみると、やはり見方が変わってましたね。
「HERO」の方は、例のわざとらしいワイヤーアクションや
1本の弓矢が弦を離れて宙を飛び、建物の中に入って
何かに刺さるまでを執拗に追うカメラワークとか、
そういうのは今となっては笑えるところもありながら、
一方でそういうわざとらしさもこの監督は追求したのではないか、
と思いました。
というのは、同時に、この監督の特徴である色彩美、映像美は
一層磨きがかかっているように今は思えるからですし、
ちょっとした1カット1カットに、嘗ての日本の名画に通ずる
東洋的な美、東洋的な価値観の素晴らしさが織り込まれているのです。
秦の始皇帝暗殺が背景なのはアニメ「キングダム」が放送中の今、
併せて観るのに興味深いものもあります。

続編とも言うべき「LOVERS」の方は、
これは個人的にはタイトルが気に入らなかったのですが
——中国映画らしくないので——、
中国語の原題は「十面埋伏」というのです。
今観て、あっ! と思いました。
「十面埋伏」は、私は何樹鳳(ホー・シューフォン)さんが演奏する
琵琶の名曲で知っているのですが、
これは項羽と劉邦の戦いを音楽で表現したもので、
項羽の軍を四方八方から攻めて打ち負かした時のことです。
きっと、主人公の二人が、どちらにとっても敵や味方から
襲われ続けながら旅を続ける状況を項羽のそれに擬えたのでしょう。

こちらの映画も、映像美や中国文化のよい部分が描かれているものの
しかし、正直この映画はチャン・ツィイーの美しい魅力が全て、
と言っていい、ズルイ作品だな、と思いました。w
チャン・ツィイーは、前の「HERO」にも出ているのですが、
比較的地味な脇役に徹していましたが、
ここでは、その魅力全開という感じです。
やぁ、こんな人と一緒に旅していたら、金城武でなくても
きっと骨抜きにされてしまいますね。w

というわけで、20年前に観た時は、つまらない、と思った
これらの2作品、今見直すと案外おもしろかったです。
この20年間の時代の変化で作品の位置付けが変わったのか、
或いは単に、僕が年齢を経て趣味や感じ方が変わったのか、
日本を含めアジアでたくさん作られる B 級映画を観るよりは、
今こそオススメできる作品たちだと思った次第です。^^

2018年8月5日日曜日

【iPhone ネタ】MetaChat って知ってました?〜実は高機能なテキストアプリ

もう随分前のことになりますが、SL の公式ビューワが
バージョン1.23から V2 になった時に、あまりの使い勝手の悪さに
公式以外のいろんなサードパーティーのビューワを試したものでした。
そのうち、リンデンも公認サードパーティ・ビューワの制度を始めて
公認のビューワの一覧なんてものができたのでした。

http://wiki.secondlife.com/wiki/Third-party_viewers

もうここ数年自分にとっては Emerald 時代からの流れで
一番カスタマイズしやすい Firestorm を使い、
またそのリリースにも関わるようになったので
最近はあまり他のビューワに手を出さなくなりましたが、
ようやく iPhone を OS11 に上げたのに伴って、
新しい iPhone 用のビューワ出てないの? と思ったら、
何と既に一年前に入れ替わりがあったようですね。

かつては、iPhone 用の SL アプリと言えば
「Pocket Metaverse」というのがあって、
これはテキストベースの、3D 画面のないアプリでしたが、
比較的軽いのとユーザ・インターフェイスも割とよいので
PC を立ち上げる暇はないけど、誰かと連絡とる必要があるとか
或いは家賃の支払いが遅れそうな時とか、
電車の中でもインできて結構便利なアプリでした。
が、今は上記のリンデンの一覧からも、
そして何より App Store からも消えてますね。

代わって出て来てるのが、今回紹介する「MetaChat」というアプリ。

https://itunes.apple.com/jp/app/id1257878466?mt=8&ign-mpt=uo%3D4

何と言うか、アイコンからしてセンスがないというか、
色遣いとか、インターフェイス、イマイチなんですけどね、
試しに入れてみて、これが結構高機能で、
「Pocket Metaverse」でできなかったことも実現していて
中々使えそうなのです。
なのでリリースして1年後で今更感はあるのですが、
ご存じない方のためにちょっとばかり紹介しておきますね。

アプリを立ち上げると、アカウントを追加するボタンがありますが、
そう、複数のアカウントを使い分けている人は
それぞれのアカウントでのログインボタンを作ることができるのです。
更に、対応しているグリッドは SL だけでなく
OpenSIM などもありますので、Firestorm など複数グリッドに
対応したビューワの代替として利用可能ですね。

180805a.jpg

そしてログインしてみてまずビックリしたのが、
ログイン直後に表示される連絡先の一覧。
「Pocket Meteverse」は名前がテキストでずらっと並ぶだけでしたが、
ご覧のようにプロフのアイコンと権限の一覧も付いていて、
3D のビューワの「連絡先」と同じ使用感ですね。
で、勿論ですが、それぞれの名前のところをクリックすると
プロフィールが表示され、更にメニューから「Props」タップで
真ん中の写真のように、その人に対していろんなことができます。
私が以前重宝してた支払いは勿論ですが、
テレポートさせたり、権限付けもできたり、
更にはブロックしたり、友だち切ったりもできますよ。^^;

そして、折しもこの連絡先一覧を見てる時に
邪払さんとこからの通知が!
この通知の見やすいこと!
「OK」ボタンを押せるのは勿論ですが、
その場で添付物を保存できるのもよいですね。

180805b.jpg

次に、下にあるメニューの「More」ってところをタップすると
インベントリやミニマップを表示できます。
ミニマップは検索ボックスにランドマークの名前を入れて、
表示された結果に対して、「Show」のボタンで地図を表示、
「GoTo」でそこに移動しますが、
隅にある6つの三角形の矢印をタップするとそちらの方に向き直り、
更にチョンチョンとタップし続けるとそちらの方に歩いて行きます。
この時、自分のいる位置の座標が画面左に示されてるのもよいです。
一番左の写真はこの場所に着地したところ、
真ん中の写真はそこから西の方に坂を登って公道に出たところです。
高さの座標が変わっているのもおわかりになると思います。
実際、このあと Firestorm でログインし直したら
道の真ん中に立っていました。w

更にこのマップ機能のおもしろいところは、飛行もできるという点。
マップの下にある、上向きと下向きの矢印、
何かと思ったら飛行/着地ボタンなんです。
これらのボタンを押すと上昇/下降を続けます。
一番右側の写真で、小さくて見づらいですが、
高さの座標が3桁になってるのがおわかりになると思います。
テキストベースで飛行して移動する必要があるのか不明ですが、
ちょっとおもしろいなと思いました。^^
あと、テレポートできるのが LM ベースというのも、
このようなアプリで新しい場所を検索して移動することはない、
自分の拠点間の移動がメインでは? と考えると当然かもですね。

180805c.jpg

そして極めつけ、「Pocket Metaverse」と比べものにならないのが
「インベントリ(持ち物)」の機能です。
「Pocket Metaverse」では、全てのフォルダがアルファベット順に
それも最初の100件だけしか表示できなかったので
殆ど使い物になりませんでした。
ところが「MetaChat」では、この通り、
ちゃんとカテゴリ別に表示されてそれぞれの中身を見れます。
カテゴリ別の中身はアルファベット順の並びだけで、
最近のものが一番上に来る 3D ビューワのデフォルトとは違いますが、
検索ボックスがついているので問題ないですね。
で、その中身の確認ですが、ノートが参照できるのが素晴らしいのと
更にテクスチャやフォトアルバムなどの画像も確認できます。
画像が拡大できないのは残念なところですが、
まぁ、テキストアプリを使ってる時って何かをぱっと確認したい時、
そう考えるとこれで十分かな、とも思います。
ポスターなどの画像を確認するのは普通として、
時々あるのが、これってどんな服だっけ? という確認。
YMB の制服とかだといくつかバージョンがあって、
こっちのバージョン! と指定したい時に、
服に付いてるテクス画像が便利だったりするんですよね。
あと、一番左の写真をご覧頂くとおわかりかと思いますが、
その画像をそのまま誰かに転送できたりもするんですよ。
これってすごくないです?

そしてそして! 衣服などの装着物については、
今装着しているものを外したり、反対に装着したりなんて
そんなこともこのプロパティの画面から可能なんです。
まぁ。。。自分の姿が見えないテキストアプリで
着替えをするなんてことはよっぽど勇気が要りますが。。。^^;

以上、ざっと紹介してきましたが、
単に IM できるだけ、というテキストアプリ以上の
付加機能が充実した SL アプリだと思います。
iPhone 用の 3D SL クライアントの登場が待たれて久しいですが、
外出先からちょっと誰かと連絡をとりたい、
グループ通知や自分の持ち物を確認したい、というだけなら
これで十分かもしれないと、そのように感じました。
あとは、そう、もうちょっと UI のデザイン、色合い、
何とかしてほしいんですけどねぇ。。。^^;

App Store で360円也!