先日ある人との会話の中でヴァーグナーの音楽の話が出ました。
それで思い出したのですが、昨年の1月に自分は
マーラーのことをこの日記に書きかけて途中になったままなのでした。
マーラーについて書くと言いながら、話はヴァーグナーに始まり、
映画の「スターウォーズ」の音楽に話は発展し、
そこから再びヴァーグナー、ブルックナーと戻って来て
次から本論のマーラーについて書く、というところで
止まったままになっていたのです。
自分がふっと、一瞬のうちに感じていることを
文字にして人に伝えるとなるとこれがなかなか時間の掛かるもので、
特に自分はマーラーについて書けるほどの知識がないことも相俟って
仕事が忙しくなったところでそのままになっていたのでした。
久しぶりの大型連休となりましたので、
心を落ち着けて一気に続きを書いてケリを付けようと思うのです。
尚、いきなりここから読んでも皆さん訳分からないでしょうから、
前回の記事のリンクを掲げておきます。
* * *
マーラーの音楽について書くに当たって気づいたのは、
自分はあまりマーラーの生涯について詳しくないということでした。
従って、それぞれの曲がどのような状況で作曲されたかは、
CD の解説に載っているほどの知識しかないのです。
そこでマーラーの人生について復習しようと思って思いだしたのが
大学時代に友人と観たケン・ラッセル監督の「マーラー」なのです。
この映画、1974年にカンヌ映画祭で公開されたものなのですが、
日本での公開は 1987年と10年以上も遅かったのです。
恐らく当時の日本でマーラーやブルックナーが流行っていたので
そんなトレンドの中で公開されたものなのでしょう。
友人が誘ってくれたのも正にその時期で、
前に書いたようにその頃はあまりマーラーの音楽には興味なく、
ただ、監督がケン・ラッセルというので
どうも表現がおもしろいのではないかという関心から
観に行くことにしたのではないかと思います。
映画の構成は、アメリカ公演からヨーロッパに戻って来たマーラーが
妻のアルマと共に列車でヴィーンに向かうその中で、
二人の会話からマーラーが来し方を思い出し、
車内での会話シーンと追憶のシーンとを行ったり来たりするもの。
追憶シーンは全体的に——ケン・ラッセルですので!——
ファンタジー的な要素が多くてヤバイ。w
ヴィーンの国立歌劇場の芸術監督になるには
ヴァーグナーの未亡人コジマに認められないといけないのですが、
そのためにユダヤ教徒のマーラーがカトリックに入信、
その後認められるための努力をするシーンは岩山の上を舞台に
ブリュンヒルデのような勇ましい格好のコジマが命令することを
マーラーが1つ1つこなしていくという滑稽なものです。
昨年の1月、この映画のことを思い出して
とっても久しぶりに復習のために観直しました。
今書いた通りファンタジー要素が強いものの
逆にマーラーの生き様の本質をイメージとして伝えている、
そんな印象を改めて持つことができ、大変参考になりました。
さて、この原稿は、ただ音楽として聴いていると長く感じられる
マーラーの音楽が、何故「銀河英雄伝説」のアニメに
ぴったりとハマっているのか、という疑問から始まったのでした。
そこで次に感じたのが、マーラーもヴァーグナーのような
ライトモチーフとして音楽を書いていったのではないか?
ということだったのです。
マーラーの交響曲は「銀河英雄伝説」の本編110話の中だけでも
113箇所で使われていますが、その中でも第3番が
一番多く登場することもあって、この曲を何度も聴き返しましたが、
この曲はシュタインバッハのアッター湖畔という
とても自然に恵まれた場所で書かれたらしく、
恐らくケン・ラッセルの映画でも表現されていたように
この環境の中で目にし耳にした光や音を音楽にしたものなのでしょう。
シュタインバッハにマーラーを訪ねて来たブルーノ・ヴァルターが
この地の自然に驚嘆しているのを見てマーラーが
「もう見るには及ばないよ、あれらは全部曲にしてしまったから」
と冗談を言ったという話が伝わっていますが、
冗談でなく、実際マーラーはそこに存在する全てを音にしたのだと
僕はそのように感じます。
だからだと思うのですが、当初はそれぞれの楽章に
標題が付いていたようなのですが、後に誤解を受けるからと
それらの標題は取り去ってしまったようなのです。
このことからもわかる通り、元来が標題的な音作りなのです。
ここで少し脱線しますが、標題音楽と言えば
同時代の作曲家にリヒャルト・シュトラウスがいて、
シュトラウスの方は有名な器楽曲は「交響詩」と銘打たれていて
「死と変容」や「英雄の生涯」といったものが有名で、
こちらはもう標題を前面に出した音作りになっています。
中でも日本で有名なのが映画「2001年宇宙の旅」で用いられた
「ツァラトゥストラかく語りき」なのですが、
実はマーラーも第3番を作曲するに当たって
ニーチェのこの著作の影響を受けていて、
第4楽章ではその一節が歌で現れます。
マーラーが第3番から標題を消し去ったのは
リヒャルト・シュトラウスと比べられるのを嫌がったからのようですが、
それにしても、シュトラウスの「ツァラトゥストラ」が
ティンパニでダンドンダンドンと力強く始まるのに対し、
マーラーの3番はそのエンディングが、
やはりティンパニでダンドンダンドンと力強く終わるのは、
非常に対照的でおもしろいと思うヒロシなのでした。
(尚、このエンディングのダンドンダンドンの部分は、
「銀河英雄伝説」の中で何度も使われていますね。^^)
閑話休題。
元来が標題的、と書いてしまったのですが、
マーラーという人はどちらかと言えば歌の人ではなかったか、
と自分は感じるのです。
ちょうど、シューベルトが交響曲を9曲も書いているけれども
やはり歌の人であったように。
歌こそは精神、内面の発露であり、人生の物語そのものである、
そう考えると、その物語を表現することを突き詰めれば
ヴァーグナーが提示したような「楽劇」の方向へと向かわないか?
そしてそれを舞台でなく、「交響曲」という型の中で表現したら?
前に、「交響曲」というのは器楽の最高の形態である、
ということを書いたと思いますが、
その意味でベートーヴェンが第9番で「合唱」を取り入れたのは
交響曲の限界、終わりを意味するとも言われているわけです。
が、マーラーにとっては反対に、「交響曲」に人の声を入れることは
歌曲の最高の形態であると捉えたのではないでしょうか?
実際、番外の「大地の歌」と未完成の10番を含めれば
11の交響曲をマーラーは書いているわけですが、
その半数に当たる5曲が歌入りなわけですし、
「9のジンクスを逃れた」と言われる「大地の歌」に至っては
6つの楽章全部が歌入りで、逆にこれを9番と考えると
そこでベートーヴェンが終わらせた歌なしの交響曲を
全て歌ありの交響曲、いや、交響曲付の歌として完成させた、
そのように僕には感じられるのです。
そのように考えると、そう、マーラーの交響曲には
人の声の入っていないところにも歌に満ちていないでしょうか?
それは、例えばベートーヴェンの交響曲のように
音そのものの変化・変容がおもしろい作品というのとは異なり、
ヴァーグナーのライトモチーフのように
物語に溢れた、音と化した存在たちの交響なのです。
例えば、第3番の交響曲第1楽章の冒頭、
重苦しい金管の主題が続いた後にオーボエとヴァイオリンで現れる
第3主題のなんと可憐で、花のような歌に満ちていること!
・マーラー『交響曲第3番』第1楽章・第3主題
ここには何とも知れぬ救いがありますよね。
「銀河英雄伝説」での使われ方は、これらのマーラーの音楽が恰も
このアニメのために書かれているかのようにピッタリ来るのは
こうした理由があるからなのだと僕は感じるのです。
了
※本文の最後でベートーヴェンの交響曲には物語性がないような感じのことを書いていますが、「銀河英雄伝説」のアニメで帝国側はドイツのイメージで描かれていることもあって、そのドイツ的なものの表現ということでやはりベートーヴェンの交響曲も効果的に使われています。実際、マーラーに次いで交響曲の登場回数が多いのがブルックナーの66回、ショスタコーヴィチの45回、ドヴォルザークの44回に続いて、ベートヴェンの交響曲も42回登場します。何れも僕の好きな作曲家たちで、そんな大好きな曲たちが次から次へと出て来るので、ホントこのアニメは楽しませて頂きました。^^