2022年5月31日火曜日

リンデンの社長

 昨晩は SL19B の記事をちょこっとだけ書いたけれども、
その時に思い出したのがちょうど1年前、SL18B の時のことだ。
最近しんさんが当時の動画を公開してくれたので
僕も自分のステージを改めて見直して、そうだった!
と思い出したことがある。
そう、ちょうど1年前、SL18B を目の前にして、
リンデン・ラボの社長、CEO の Ebbe Altberg さんが亡くなったのだ。

Ebbe さんの死は衝撃的で、同時に、例えばフィリップさんのように
あまり派手に立ち回る方ではなかったものの、
確実に SL のいろいろなプラットフォームというのか
基盤的なところをしっかりとしたものに改善して
SL を安定したサービスにして来られたためか
多くの方がその死を悼む投稿をしていたのを思い出す。

あれから1年。
僕もこのところ SL の最新情報からは疎くなっていたので、
結局今は誰が社長をやっているのだろう? と調べてみたら、
何と、CEO という役職は空席のままだった。
それだけ Ebbe が空けた穴を塞げるような人材はいないということか?

現在のリンデンのトップは、リンデンを買収した投資会社の
Brad Oberwager さん(アバター名 Oberwolf Linden)が
Executive Chairman という役職に就いておられます。
Chairman というと日本語では「会長」で、
「社長」がいて「会長」がいる、というのが普通考えられる体制で
「会長」がいて「社長」がいないというのはちょっと不思議かも。

実は、日本では「会長」というと、社長をやってた人が
謂わば院政的に会社に残っているようなイメージがあるけれども、
実は英語では Chairman と President は明確に役割が分かれてます。
そもそも Chairman というのは Chairman of the Board の略で、
つまり、役員会、取締役会の議長のことを意味します。
役員会の招集や議題の提示、議事の採決などが主な役割で
つまりは会社の運営方針を決めるのが Chairman の仕事です。

対する President は、その会社の運営の代表です。
即ち、具体的に会社を動かす責任者です。
部長クラス以下の社員に指示を出して会社を動かすと共に、
その結果を役員会に報告する義務があるのが社長です。
従って、会長は役員会を主催して会社の方針を決め、
社長はその方針に従って実際に会社を動かす責任者ということです。
そして、実際に会社を動かすメンバーは Executive、
即ち「執行」という肩書きが社長以下の会社側の人には付くわけです。
日本の会社の場合は、経営サイドの役員と
運営サイドの社長・部長などが兼任の場合が多くて
その境目があまりはっきりしませんが、英語の場合はこのように
明確な役割分担があるわけなんです。

こうして考えると、Oberwolf さんが面白いなと思うのは、
Ebbe さんほどの Executive を束ねる人がいないと思ったからか
Chief 〜 Officer という役職の人たちを増強しています。
それはそれで、そういう体制はありだと思いますが、
一方で自分はあくまでも Chairman と一歩退いてる感じ。
だけど一応 Executive って付いてるっていう。
この方、単にお金儲けのためにリンデンを買ったのか、
それとも何か面白いことを見込んで経営に乗り出したのか、
今年の SL19B で機会があったら、Meet the Lindens で
この人がどんなことを喋るか聞いてみようかな。

2022年5月30日月曜日

【SL19B】 ヒロシの出演枠が決まりましたよ?

 ご無沙汰してます、ヒロシです。
前にセカンドライフ19歳の誕生日イベント
SL19B について少し書きましたが、
めでたく今年も出演することが決まりましたのでお知らせです。
6月25日(土)23:00からになりますので、
今のうちからカレンダーに印を付けておいて下さいね!
そしてもう SL6B の時からの同志でもあるケルパさんも
無事展示会場をゲット!
今年もケルパさんと組んで何やらやらかすつもりです。
今年のテーマは「スチームパンク」のこととて、
既にそれらしい曲の制作を始めているところであります。^^
是非楽しみにしてて下さいね!

2022年5月7日土曜日

【新作】 昨年の SL18B の動画が公開されました!

先日、昨年の「なちゅ祭り」の動画が公開されたことをお伝えして
今年も SL19B が近づいてるね、という話を書きましたが、
何と、このタイミングで立て続けに昨年の SL18B の動画が
公開されました!
とってもとっても忙しいと思うのに、しんさんありがとー!><

昨年は、一昨年に続けて、ナチュさん、こじゃさんと組んで
日本人3人連続で SLB の講堂に出演したのでした。
この講堂は、リンデンの役員たちがプレゼンをする場でもあり、
その同じ場所で公演できるというのはなかなか光栄なことであります。

それでは早速その三者三様のステージの動画リンクをば。。。

・ナチュさん
 

・ヒロシ
 

・The Black Stripes
 

もうね、特に自分は即興的にやってることもあって
1年前のことは殆ど忘れてしまってるわけですよ。
で、動画観て思い出した。
そうそう、昨年はヒロコを退けて、全編歌も自分でやってたわけで、
今観ると、いきなり自分のヘタクソな歌で始まってて恥ずかしい。w
とは言え、その後はなかなか哲学的な展開になっていて
二度と同じことはやらないし、
これはこれでおもしろいかなとも思うので、
お楽しみ頂けると幸いです。

例によって、僕の即興的な音楽に合わせて
やはり即興的に応じるケルパさんのライティングが最高!
そして、その瞬間を見事に捉えてるしんさんの撮影も最高!
ケルパさん、しんさん、ホントいつもありがとうございます。
そして、今年の SL19B でもきっと何か一緒にやらかしましょうね!
引き続き、どうぞよろしくお願いします!m(_ _)m

2022年5月5日木曜日

【RL】 学び・志〜本居宣長からバーンスタイン、ハンス・ツィマーへ

FB やツィッターでは触れたのですが、
最近は『万葉集』や『ホツマツタヱ』に取り組んでいたりするので
自分の言語感覚をどっぷり漢字文化に染まったところから
純粋な和語の響きを取り戻すべく、
本居宣長の著作を読んだりしているのですが、
これが現代(いま)に通じる示唆に富んでいてなかなか面白いので
書き抜いてご紹介しておきます。

本居宣長の著作にもいろいろありますが、
学問を志す初学者のために書いた入門書に
『うひ山ふみ』というのがあります。
短いので誰でもすぐに読めると思いますが、
入門書のクセにあまり方法論的なことは書いてない本と言えます。
初学者は、最初に何を読めばいいですか?
どういう風にしたらいいですか? とすぐ方法論を求めるけれども、
と書いたあとにこう記しています。

「いかに初心なればとても、學問にもこゝろざすほどのものは、むげに小兒の心のやうにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは必スあるものなり。又面々好むかたと、好まぬ方とも有リ、又生れつきて得たる事と、得ぬ事とも有ル物なるを、好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし。又いづれのしなにもせよ、學びやうの次第も一トわたりの理によりて、云々(シカシカ)してよろしと、さして教えんは、やすきことなれども、そのさして教へたるごとくにして、果たしてよきものならんや、又思ひの外にさてはあしき物ならんや、實にはしりがたきことなれば、これもしひては定めがたきわざにて、實はたゞ其人の心まかせにしてよき也。」

簡単にまとめると、初心者と言っても道に志す程の人なら、
誰でも自分はこうしたいというものがあるでしょう、
また、好きなこと嫌いなこと、得意なもの不得意なものもあり、
嫌いなことや不得意なものを同じようにやれといっても
その人にとっては効果を期待できないでしょう。
また、物事を理論的にこういう風にやるといいよ教えたところで、
その人がその通りにやって本当によいものなのかどうか、
或いは悪いものなのか、何とも言うことができない。
従って、やり方、というのは本人がやりたいようにやるしかない、
というのです。
そして、そのあとに、

「一人の生涯の力を以ては、ことごとくは、其奥までは究めがたきわざなれば、其中に主(ムネ)としてよるところを定めて、かならずその奥をきはめつくさんと、はじめより志を高く大にたてゝつとめ學ぶべき也。」

として、更にこの文章の注釈として、

「志を高く大きにたてゝ云々、すべて學問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじとかたく思ひまうくべし。此志よわくては、學問すゝみがたく、倦怠(ウミオコタ)るもの也。」

なるほど。
「その奥を究めつくさずはやまじ」——これが大事なのですよね。
わかりやすく言うと、自分の決めたここというのが達成できないでは
食事も睡眠も要らない、その位の譲れないものがあるかどうか、
ということでしょう。
そして、その位の気概があれば、当然「どうしたらいいか」は
自ずと自分で切り開けるということでしょう。

本居宣長が入門書に敢えて方法論を書かずに、
自分の好きなようにやりなさい、と書いたのは、
方法というのは好きであれば見つかるものだからなのでしょう。
ある事をなすのに、一般的な方法というのはないのです。
にも拘わらず私たちは何事につけ「どうしたらいいでしょうか?」と
方法を求めたがるものなのです。

これを読んで思いだしたのが、1990年に指揮者のバーンスタインが
パシフィック・ミュージック・フェスティバルのため来日し、
NHK の番組の中でインタビューに応じていた時のことです。
このあと間もなくバーンスタインは亡くなってしまったので、
「最後のメッセージ」として何度か放映されていると思います。
その時の言葉に、

"It is a profession that you should follow 
only if you are driven to do it."

というのがあります。
「音楽家というのは、自分の内なる何かに駆り立てられることでしか
 実現できない職業なのですよ。」
ということでしょうか。
この "if you are driven to do it" という英語、
本居宣長の「究めつくさずはやまじ」という日本語と
対応しているように僕には感じられるのですね。
本居宣長という江戸時代の、当時からすると古い文献を研究していた
そんな人とバーンスタインという僕らと同時代の音楽家、
時代も職業も異なるのだけれど、道を究めるということ、
自分の天職とは何か、ということについては
時代や国や文化を問わない、普遍の真理があると感じます。

バーンスタインはこのすぐあとで言っています。

"If you even have to ask the question
“Should I be a musician?”, 
then the answer has to be “No”
because you asked the question.
It’s almost like a Zen rule of philosophy.
If you ask the question, the answer is no.
If you want to be a musician, you will be a musician.
And nobody can stop you."

「もしあなたが、『自分は音楽家に向いてるだろうか?』と
 そう質問したならばその答えは決まって『ノー』です。
 何故ならあなたはその質問をしたからです。
 禅問答のようですが、あなたが質問をしたから『ノー』なのです。
 音楽家になりたいなら音楽家になるのです。
 だれもそんなあなたを止めることはできないのです。」

バーンスタインのこれらの言葉はこのインタビューを
テレビで観た時からずっと心の中にあります。
ここには上手いとか下手とか、それで飯食っていけるとかいけないとか
そんな話は一切ありません。
問題なのは自分が音楽家であるかどうか、"be a musician"
ただそれだけなのです。
そこに必要なのは好きで好きでたまらなくて
自分を裡から突き動かす何かのために生きている、
そういう状態でしょう。

それでまた思い出したのが、アメリカの「Keyboard」誌
2015年2月号で、映画「インターステラー」が公開された直後、
音楽を担当したハンス・ツィマーのインタビュー記事での発言です。
(日本では「ジマー」と表記するのが一般的なようですが、
 「Ji」の音ではなくて「Zi」の音でどうも感覚が合わないので
 「ズィマー」と書いてもいいのだけれど、ますます混乱するので
 敢えてドイツ語表記で「ツィマー」と書いておきます。)
このインタビューの最後にこのような会話が交わされています。
(元は英語ですが、ヒロシによる自由訳です。)

     *   *   *

KM: 今はツールがとてもよくなって、価格も安くなって来てますが、ミュージシャンとして生きるということは以前にも増して厳しくなってきています。この問題についてどのようにお考えですか?

HZ: えっと、音楽というものがダウンロードして手に入れたり、ただで配られるものだというような考えはとてもバカバカしいように思うんです。どうも人には理解できないようなのですが、音楽はそれ自体に価値があるものだどいうこと、そして、ミュージシャンの時間もみなさんの時間と同じように1秒1秒過ぎ去っていくものだということをです。ですから、あるミュージシャンが時間をかけて何かを創ったとしたら、それに対してお金が払われるのは当然ですし、そのミュージシャンがごく普通の生活を続けられるようであるべきなのです。こうした音楽活動を支えるべき人々というのはこれまではレコード会社でしたが、レコード会社には最早その力はないのです。そこで、新しいアイデアを大きな規模で試すのを支えてくれるような、最後に残された唯一の場がハリウッドというわけなんです。

KM: その点についてですが、あなたのような仕事を目指す人たち、音楽で生計を立てていきたいと考えている人たちに、何かアドバイスがありますか? ご自身が日頃していることをお伝え頂けませんか?

HZ: 僕がやっていることを全部お伝えするとね、まず朝起きて音楽のことを考えるんだ。そして夜、一日の終わりにも音楽のことを考えるんだ。ではその間の時間は何をしているかって? 音楽を創ってるのさ。
 実際、何年か前に実験したことがあるんだよ。ある時僕は言ったんですよ。「よしみんな、12月20日から1月2日までこのスタジオは閉鎖だ。みんな、クリスマスの休暇を楽しんでくれ」ってね。で、クリスマスの日に僕は家にいて電話の短縮ボタンを押したんだ。するとすぐに誰かがスタジオでその電話を受けてくれたんだよ。そこにいるみんな言うんだよね、「ええ、わかってますが、いいアイデアが浮かんだのでどうしてもこれを試したくって」とか何とかね。それを聞いて笑ってしまったよ。あそこのみんなにとってクリスマスの一番のプレゼントはスタジオに入って音楽を創ることだったわけだからね。本当に好きだからこそ、こういうことを日頃からやってるわけなんだね。僕にとってはこういう生き方こそ悔いのない充実した人生なんですよ。

     *   *   *

最後の部分の元の英語は、
"We do this because we love this. 
And to me, it’s a life really well lived."
です。
本当にみんな言っていることは同じですね。

「志」というと何だかえらく高尚なもののように思えますが、
実はそれは、自分はどう生きるか、どういう存在でありたいのか、
そういう、誰にでも突き付けられた、
自分自身でしか答えられない問いなのかもしれません。

2022年5月4日水曜日

【新作】昨年の「なちゅ祭り」の動画が一斉公開されました!

RL の日本ではゴールデンウィークのお休み、
皆様いかがお過ごしでしょうか?
その間世界ではいろいろ経済も政治も動いていて
経済と言えば、これからの資本投資はメタバースと NFT だぜ!
というノリで一色ですが、メタバース元祖の SL に暮らす身としては
何につけても今さら感がありますな。。。

と、そんな折、昨年3月に行った「春のなちゅ祭り」の動画が
5点一挙に公開されましたのでお知らせです!
昨年は2日間にわたってこじゃさん、スノさん、こじろーさん、
るぅさん、ナチュさん、きららさん、じなつん、そして自分と
8組が出演してのステージだったのですが(覚えてるかな?)、
このうち DJ のスノさん、こじろーさん、じなつんを除く
5名の動画が YouTube で公開されました! いやぁ、めでたい!

・こじゃさん
 

・るぅさん
 

・ナチュさん
 

・きららさん
 

・ヒロシ
 

いやぁ、なつかしいですね!
1年も経つと、もう自分のものを観ても別人のものなので
おおっ、とか思ってしまうのは性格がオメデタイからですね。w

そんなことを言っているうちに、今年は SL 19歳のお祭りとのこと、
SL19B が 6月16日(木)〜7月5日(火)まで開催されるとて、
締切が5月8日(日)なので、今年も参加するかなぁ、
と思っているところであります。
今年は最近チームを組んでいると言えるナチュさん、こじゃさんが
どうも出演できそうな状況ではありませんので、
演出のケルパさん、撮影のしんさんと組んで
何かできるかなぁ、と思案中なのであります。
まぁ、どうなるかまだわかりませんが。^^;

まずは昨年の自分たちの活動をお楽しみ下さい。
そして今年の夏、秋に向けて何が起こるか
これも楽しみにして頂けると嬉しいです。

それでは、また!

2022年5月1日日曜日

【RL】 ヴァーグナー、ブルックナー、マーラー(3)

先日ある人との会話の中でヴァーグナーの音楽の話が出ました。
それで思い出したのですが、昨年の1月に自分は
マーラーのことをこの日記に書きかけて途中になったままなのでした。
マーラーについて書くと言いながら、話はヴァーグナーに始まり、
映画の「スターウォーズ」の音楽に話は発展し、
そこから再びヴァーグナー、ブルックナーと戻って来て
次から本論のマーラーについて書く、というところで
止まったままになっていたのです。
自分がふっと、一瞬のうちに感じていることを
文字にして人に伝えるとなるとこれがなかなか時間の掛かるもので、
特に自分はマーラーについて書けるほどの知識がないことも相俟って
仕事が忙しくなったところでそのままになっていたのでした。
久しぶりの大型連休となりましたので、
心を落ち着けて一気に続きを書いてケリを付けようと思うのです。
尚、いきなりここから読んでも皆さん訳分からないでしょうから、
前回の記事のリンクを掲げておきます。


     *   *   *

マーラーの音楽について書くに当たって気づいたのは、
自分はあまりマーラーの生涯について詳しくないということでした。
従って、それぞれの曲がどのような状況で作曲されたかは、
CD の解説に載っているほどの知識しかないのです。
そこでマーラーの人生について復習しようと思って思いだしたのが
大学時代に友人と観たケン・ラッセル監督の「マーラー」なのです。

この映画、1974年にカンヌ映画祭で公開されたものなのですが、
日本での公開は 1987年と10年以上も遅かったのです。
恐らく当時の日本でマーラーやブルックナーが流行っていたので
そんなトレンドの中で公開されたものなのでしょう。
友人が誘ってくれたのも正にその時期で、
前に書いたようにその頃はあまりマーラーの音楽には興味なく、
ただ、監督がケン・ラッセルというので
どうも表現がおもしろいのではないかという関心から
観に行くことにしたのではないかと思います。

映画の構成は、アメリカ公演からヨーロッパに戻って来たマーラーが
妻のアルマと共に列車でヴィーンに向かうその中で、
二人の会話からマーラーが来し方を思い出し、
車内での会話シーンと追憶のシーンとを行ったり来たりするもの。
追憶シーンは全体的に——ケン・ラッセルですので!——
ファンタジー的な要素が多くてヤバイ。w
ヴィーンの国立歌劇場の芸術監督になるには
ヴァーグナーの未亡人コジマに認められないといけないのですが、
そのためにユダヤ教徒のマーラーがカトリックに入信、
その後認められるための努力をするシーンは岩山の上を舞台に
ブリュンヒルデのような勇ましい格好のコジマが命令することを
マーラーが1つ1つこなしていくという滑稽なものです。

昨年の1月、この映画のことを思い出して
とっても久しぶりに復習のために観直しました。
今書いた通りファンタジー要素が強いものの
逆にマーラーの生き様の本質をイメージとして伝えている、
そんな印象を改めて持つことができ、大変参考になりました。

さて、この原稿は、ただ音楽として聴いていると長く感じられる
マーラーの音楽が、何故「銀河英雄伝説」のアニメに
ぴったりとハマっているのか、という疑問から始まったのでした。
そこで次に感じたのが、マーラーもヴァーグナーのような
ライトモチーフとして音楽を書いていったのではないか?
ということだったのです。
マーラーの交響曲は「銀河英雄伝説」の本編110話の中だけでも
113箇所で使われていますが、その中でも第3番が
一番多く登場することもあって、この曲を何度も聴き返しましたが、
この曲はシュタインバッハのアッター湖畔という
とても自然に恵まれた場所で書かれたらしく、
恐らくケン・ラッセルの映画でも表現されていたように
この環境の中で目にし耳にした光や音を音楽にしたものなのでしょう。
シュタインバッハにマーラーを訪ねて来たブルーノ・ヴァルターが
この地の自然に驚嘆しているのを見てマーラーが
「もう見るには及ばないよ、あれらは全部曲にしてしまったから」
と冗談を言ったという話が伝わっていますが、
冗談でなく、実際マーラーはそこに存在する全てを音にしたのだと
僕はそのように感じます。
だからだと思うのですが、当初はそれぞれの楽章に
標題が付いていたようなのですが、後に誤解を受けるからと
それらの標題は取り去ってしまったようなのです。
このことからもわかる通り、元来が標題的な音作りなのです。

ここで少し脱線しますが、標題音楽と言えば
同時代の作曲家にリヒャルト・シュトラウスがいて、
シュトラウスの方は有名な器楽曲は「交響詩」と銘打たれていて
「死と変容」や「英雄の生涯」といったものが有名で、
こちらはもう標題を前面に出した音作りになっています。
中でも日本で有名なのが映画「2001年宇宙の旅」で用いられた
「ツァラトゥストラかく語りき」なのですが、
実はマーラーも第3番を作曲するに当たって
ニーチェのこの著作の影響を受けていて、
第4楽章ではその一節が歌で現れます。
マーラーが第3番から標題を消し去ったのは
リヒャルト・シュトラウスと比べられるのを嫌がったからのようですが、
それにしても、シュトラウスの「ツァラトゥストラ」が
ティンパニでダンドンダンドンと力強く始まるのに対し、
マーラーの3番はそのエンディングが、
やはりティンパニでダンドンダンドンと力強く終わるのは、
非常に対照的でおもしろいと思うヒロシなのでした。
(尚、このエンディングのダンドンダンドンの部分は、
 「銀河英雄伝説」の中で何度も使われていますね。^^)

閑話休題。
元来が標題的、と書いてしまったのですが、
マーラーという人はどちらかと言えば歌の人ではなかったか、
と自分は感じるのです。
ちょうど、シューベルトが交響曲を9曲も書いているけれども
やはり歌の人であったように。
歌こそは精神、内面の発露であり、人生の物語そのものである、
そう考えると、その物語を表現することを突き詰めれば
ヴァーグナーが提示したような「楽劇」の方向へと向かわないか?
そしてそれを舞台でなく、「交響曲」という型の中で表現したら?

前に、「交響曲」というのは器楽の最高の形態である、
ということを書いたと思いますが、
その意味でベートーヴェンが第9番で「合唱」を取り入れたのは
交響曲の限界、終わりを意味するとも言われているわけです。
が、マーラーにとっては反対に、「交響曲」に人の声を入れることは
歌曲の最高の形態であると捉えたのではないでしょうか?
実際、番外の「大地の歌」と未完成の10番を含めれば
11の交響曲をマーラーは書いているわけですが、
その半数に当たる5曲が歌入りなわけですし、
「9のジンクスを逃れた」と言われる「大地の歌」に至っては
6つの楽章全部が歌入りで、逆にこれを9番と考えると
そこでベートーヴェンが終わらせた歌なしの交響曲を
全て歌ありの交響曲、いや、交響曲付の歌として完成させた、
そのように僕には感じられるのです。

そのように考えると、そう、マーラーの交響曲には
人の声の入っていないところにも歌に満ちていないでしょうか?
それは、例えばベートーヴェンの交響曲のように
音そのものの変化・変容がおもしろい作品というのとは異なり、
ヴァーグナーのライトモチーフのように
物語に溢れた、音と化した存在たちの交響なのです。
例えば、第3番の交響曲第1楽章の冒頭、
重苦しい金管の主題が続いた後にオーボエとヴァイオリンで現れる
第3主題のなんと可憐で、花のような歌に満ちていること!

・マーラー『交響曲第3番』第1楽章・第3主題
220501a

ここには何とも知れぬ救いがありますよね。

「銀河英雄伝説」での使われ方は、これらのマーラーの音楽が恰も
このアニメのために書かれているかのようにピッタリ来るのは
こうした理由があるからなのだと僕は感じるのです。

                         了


※本文の最後でベートーヴェンの交響曲には物語性がないような感じのことを書いていますが、「銀河英雄伝説」のアニメで帝国側はドイツのイメージで描かれていることもあって、そのドイツ的なものの表現ということでやはりベートーヴェンの交響曲も効果的に使われています。実際、マーラーに次いで交響曲の登場回数が多いのがブルックナーの66回、ショスタコーヴィチの45回、ドヴォルザークの44回に続いて、ベートヴェンの交響曲も42回登場します。何れも僕の好きな作曲家たちで、そんな大好きな曲たちが次から次へと出て来るので、ホントこのアニメは楽しませて頂きました。^^