2024年10月6日日曜日

【イベント】 10月18日(金)より今年の Burn2 スタート!〜ヒロシのライブは10月26日(土)22:00!

あーーーーっと言う間に10月になってしまいましたね。
今年も残すところあとわずか、という感じがしてきます。
そしてそう、10月の SL と言えば、年に一度のお祭り
Burn2 の開催月でもあります。
今年は10月18日(金)〜27日(日)までの1週間、
RL バーニングマンと同じ "Curiouser & Curiouser" のテーマで
行われます。

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"Curiouser & Curiouser" というのはヘンな英語ですが、
これは『不思議の国のアリス』の物語の第二章冒頭で
起こっていることに驚いたアリスが口走った言葉で、
「ましましおかしなことになってるわ!」とでも訳しますか。
バーニングマン公式の趣意書によると

「答えのないパズルを讃え、不合理と馬鹿馬鹿しさを大切にし、
知らない人や未知のものをお茶に招こう」

というものだそうで、この趣意書は後日翻訳をお届けします。

さてその Burn2 での僕のライブですが、
いつもお伝えしている通り、2007年に初めて
当時 Burning Life と言っていたこのイベントを見た時、
そこのセンターキャンプで繰り広げられるいろいろなイベントや
パフォーマンスに魅了され、充実した日々を送ったことがあり、
センターキャンプは僕にとってのイベントの原点のような場所。
というわけで今年もそのセンターキャンプで1回だけ、
10月26日(土)22:00 からライブを行います。

この日は僕が初めて SL でライブを行った、
SL ミュージシャンデビューの10月27日の前日であり、
またその10月27日には4枚目のアルバム、
それも Burn2 と SLB をテーマにしたアルバムを
リリースする予定です。
なので、デビュー14周年記念はアルバム発売記念を絡めた
ライブになる予定です。
是非楽しみにしていて下さいね!

■Hiroshi Kumaki Burn2 2024 ライブ
 ・日時:2024年10月26日(土)22:00〜23:00
 ・会場:Burn2 2024 センターキャンプ
    (SLURL は決定次第お知らせします)

2024年9月23日月曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・結び

 前回お見せした生成文法の図を生成 AI との関連で
勤務先の IT 部門のメンバーに示したのは昨年の6月頃のようだ。
結論として、英語のレベルを上げたかったら、
たくさん生の英語に、雑誌やテレビや映画を見て生の英語に
触れることなんだよ、と伝えたのだが、
「それではいつになることやら」とか
「コンピュータには勝てない」とか絶望的な反応があった。w
そうだろうと思って用意していたのが、
以前ナショナルジオグラフィックで見かけた記事から作った次の表。

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その記事は2007年のものなので、現在の PC の容量は
約10倍になっていると考えてよいと思うけれども、
そして、AI になるともっと容量は大きいと思うけれども、
人間の脳のシナプス数が桁違いに大きいことに注目されたい。
AI を過大評価すべきではないし、
人間の能力というものをもっと信じるべきなのである。
我々大人が「いつのことになるやら」と思ってしまうことを
子供はあっという間に習得してしまうのだから。

     *   *   *

ところで、前回示した生成文法の図は、
左側が日本語、右側が英語と、何れも言語を並べたのだが、
時枝誠記さんが言うように言語が音楽や絵画などの芸術と同じ
一つの表現であるに過ぎないとすれば、この図を拡大して
左側に言語、右側に音楽を持って来てもよいわけである。
実際、バーンスタインの『答えのない質問』の講義の6回目で
それに似た絵が出て来る。
更にバーンスタインは表現されたものとしての詩と音楽を
統合する絵まで出して来る。
そうなのである。
ウォルター・ペイターは「あらゆる芸術は音楽の状態に憧れる」
と書いたけれども、もっと言うと、
あらゆる芸術は統合され、相互に補完し合う状態に憧れるのだ。
それこそヴァーグナーが「楽劇」という形式で行おうとしたことだし、
日本の「歌舞伎」が実現していることなのだ。

     *   *   *

こうしてバーンスタインは、言語学や哲学の立場から
音楽というものを捉え直しているように思われるのだが、
僕がやろうとしていることはその反対に、
音楽の側から哲学を捉え直してみようということなのである。
大変長い前置きになったけれども、
こうして昨年生成 AI の登場をきっかけに学び直した生成文法、
小澤征爾さんの逝去をきっかけに触れたアイヴスの音楽と
バーンスタインの一連の講義、
そして今年の SL21B をきっかけに読んだ
ワインバーグの『宇宙創成はじめの3分間』、
こうしたものが今年の Burn 2 のテーマを見て1つになったのだ。
そう、今年の Burn 2 のテーマは、『不思議の国のアリス』から
"Curioser and Curioser" となっていて、曰く、
「答えのないパズルを讃え、不合理と馬鹿馬鹿しさを大切にし、
知らない人や未知のものをお茶に招こう」というものなのだ。
この「答えのないパズル」が「答えのない質問」を想起させたことは
ここまで読んでくれた方ならすぐにわかるだろう。

今年、Burn 2 の終わるその日に、4枚目のアルバムを出す予定だが、
これまで SL で演奏してきた曲をリリースするのは
これが最後になると思う。
そのあとは、哲学的なテーマを音楽で表現してみたいと考えている。
今年の Burn 2 はその新しい活動のはじまりとなるだろう。
Hiroshi Kumaki の音楽の第2章のはじまりである。

2024年9月17日火曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その4

 う〜ん、どこから話そう。
生成文法のことである。

「文法」と言えば皆さんがイメージするのは
高校の時に学んだ「英文法」や、中学校の時の「国文法」であろう。
これらの文法の体系は元はと言えば言語学から来ているが、
その言語学は古代ギリシャのホメロスの叙事詩などを
解読するために生まれたものだと言っていい。
ホメロスの叙事詩を解読するために書かれている文のルールが
一つ一つ検討され、そこで所謂「品詞」のような
単語のカテゴリー分けや活用表などが作られたのだ。
これが後にローマ帝国の時代にラテン語にも応用され、
更にヨーロッパ語の文法体系の規範となっていくのである。

やがて、研究が進むにつれ、サンスクリットなどのインドの言葉と
ヨーロッパ諸語は起源が同じであることが明らかにされる。
インド=ヨーロッパ語族と呼ばれるようになるそれである。
起源が同じであるとわかると話は早い。
古代ゲルマン語のこの単語はプロヴァンス語のこれに当たる、
というようなことがわかると、あと、それぞれの言語のルールが
わかると、ほぼ機械的に置き換えによる翻訳が可能なのである。

そして、日本でもまた、文字というものは中国から入って来た
漢字を使うようになり、中国語と日本語は語順が違うので
返り点を打ったり、中国語にはない「てにをは」を補うことで
中国語を日本語として読むことが可能になったのである。
これもまた、機械的な置き換えによる翻訳と言えるだろう。

これらヨーロッパでも日本でも、何れの場合でも、
表現されている「文」の置き換えができれば、
その内容を理解できるという考えの下に
言語学乃至は国語学は現在に至っていると言っていい。

しかし、日本語には有名な「僕はうなぎだ」という文例がある。
これは勿論、友だちと定食屋に行ってメニューを決める時の発言で、
「僕はうなぎにする、うなぎに決めた」という意味で、
別に特殊でもなんでもない普通の表現である。
が、これを従来の文から文への置換を行うと
英語では "I am an eel." というアヤシイ内容になってしまう。

時枝誠記(ときえだもとき)さんという国語学者がいて、
この方は学位論文で「言語過程説」というのを打ち立てた。
即ち、発話というのは音楽や絵画や小説や詩と同じように
その人の表現の一形態に過ぎないのであって、
音楽や絵画や文学がその背景にその作曲家や画家や作家の
表現したいものというのがあるのと同様、
言語による発話にもその背景に表現したい何かがあるのだ、
従って発話(文)そのものの意味というのは絶対ではない、
といったことを訴えたのだ。
その学位論文が出たのが1925年。

そして、1955年にノーム・チョムスキーという人が
「生成文法」の元になる考え方を示す。
何故、子供は文法を勉強せずに正しい言葉づかいを覚えるのか?
それは、どのような言語であれ、その言語に触れる経験を重ねる中、
ほぼ自動的にその言語のルール、文法を整理構築する能力を
人間は生まれながらにして持っているのだ、という考えであり、
チョムスキーはこの能力を「普遍文法」と名付けた。

この普遍文法について僕なりに理解しているところを
下の図に整理してみた。

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最近、AI 翻訳になって何故翻訳の精度が上がったか。
つまり、以前の機械翻訳に「この本は読んだ」と入れると
"This book read." という訳が返って来ていたが、
今はちゃんと"I read this book." と訳してくれる。
これは、AI がそれぞれの言語の膨大なデータベースに基づいて
より精密なルールでこの文の意味はきっとこうだと
普遍文法的な処理をしているからだろうと僕は見ている。
(言い方を変えると、AI の真似をして
 たくさんその言葉を経験すれば語学の上達は早いのだ。^^)

この生成文法が前提にしているのも、時枝さんと同じく、
話者の頭の中にあるイメージ、内容である。
これを日本語のルールを通せば「僕はうなぎだ」になるし、
英語のルールを通せば "I'll take an eel bowl." となるのだが、
頭の中のイメージを抜きにして「僕はうなぎだ」を
文のレベルで訳してしまうと "I am an eel." になってしまうのだ。
(こう考えると、例えば日本語を英語に訳す時、
 いきなりその文を英語で置き換えようとするのでなく、
 話者の頭の中のイメージに一回変換するとよいのだ。)

時枝さんは言語は音楽や絵画、文学と同じ表現としたのだが、
バーンスタインはこの逆に音楽も言語と同じ表現形式としたのだ。
「答えのない質問」の講義が言語学の用語である
音韻論、統語論、意味論で始まるのはある意味必然なのである。

2024年9月14日土曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その3

 前回書いた通り、アイヴスの「答えのない質問」は哲学的である。
ところで、この「答えのない質問」という日本語訳であるが、
他に「答えられない質問」という訳もある。
英語のタイトルは "The Unanswered Question" であるが、
この英語の含みは「まだ答えられていない質問」であり、
しかもそこに定冠詞 "the" が付いているので正確には
「まだ答えられていないあの質問」、そう、
何度も繰り返されたあの質問という意味なのである。
それが人間の存在に関わる質問、
哲学では問うてはいけないとされるあの質問のことなのだ。

しかし、バーンスタインは、これを音楽に関する質問と考える。
このアイヴスの「答えのない質問」が発表されたのは1908年だが、
同じ年、海を渡ったオーストリアのウィーンで
シェーンベルクが十二音技法のきっかけとなる無調の
「弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調作品10」を発表する。
そして翌1909年の「3つのピアノ曲作品11」で
完全に十二音技法の世界を確立していくのである。

そう。僕等は無調というといつもシェーンベルクの
十二音技法を思い出すのだ。
ヴァーグナーが調整が壊れるギリギリまで半音階を突き詰めた
楽劇『トリスタンとイゾルデ』の音楽、
それを耳にしたドビュッシーは「ヴァーグナーの先」を目指して
調性感に乏しい、ふわふわと浮遊するような音楽を書いたのだった。
しかし、そのドビュッシーですら、そしてストラヴィンスキーですら
まだ調性の枠の中で音楽を書いているのである。
壊れかかった調性音楽、その先はどこに向かうのか?
シェーンベルクの答えは十二音技法だったが、
アイヴスは三和音を奏で続ける、ロマン派的な美しい弦と
調性感のないトランペットや木管楽器群で
「音楽はこれからどこへ向かうのか」を問うたと
バーンスタインは見るのである。

そしてその答えを探す旅がバーンスタインがハーバードで行った
全6回のノートン講義「答えのない質問」なのである。


この講義の内容は次の通りだ。

Lecture I. Musical Phonology「音楽に於ける音韻論」
Lecture II. Musical Syntax「音楽に於ける統語論」
Lecture III. Musical Semantics「音楽に於ける意味論」
Lecture IV. The Delights and Dangers of Ambiguity「曖昧さの持つ楽しさと危険性」
Lecture V. The Twentieth Century Crisis「20世紀の危機」
Lecture VI. The Poetry of Earth「大地の詩(うた)」

最初の3回のタイトルをご覧頂ければわかるように、
音韻論、統語論、意味論というのは言語学の用語だ。
そう、バーンスタインは音楽を語るのに言語学の用語を用いて
言語学との対比、類推で語るのだ。
これがおもしろい。
何と言っても、第2回の統語論ではチョムスキーの生成文法が
飛び出して来たのには参った。
というのも、僕はちょうど昨年から盛り上がって来た
生成 AI に関連して、チョムスキーの生成文法を学び直しているからだ。
何故生成 AI が出て来てから機械翻訳の質が格段に上がったか、
それは結局のところ、生成 AI は生成文法の考え方に
基づいているからだと僕は考えるのだが、
この話をしだすとまた長くなるので今日はこの辺で。

2024年9月9日月曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その2

 バーンスタインの「答えのない質問」の講演を思い出したのも、
やはり小澤征爾さんと関係がある。

小澤さんの CD について書いている時に、
僕は吉田秀和さんの『LP 300選』を元に聴いていることに触れ、
その本の中で吉田さんが薦めている小澤さんのディスクを
書き並べたのだが、その時1つ書き漏らしたものがあることに
あとで気づいたのです。
それは、吉田さんが「追記」として、
アメリカの音楽家で挙げておかなければならなかったと書いている
チャールズ・アイヴスのディスクなのです。
これに気づいてこの本で挙げられている
ティルソン・トーマスが『イングランドの3つの物語』を
小澤さんが『交響曲第4番』を指揮しているディスクを買って
それを聴きながら、何か忘れている感じがずっとあったのです。
アイヴス、、、アイヴス、、、何かもっと有名な、
気になる曲があったような。。。

そして思い出したのがアイヴス1908年の作品
「答えのない質問」だったのです。
実は、この曲は僕にはずっと謎の曲でした。
というのは、この曲に初めて出会ったのはオーケストラでなく、
冨田勲さんのアルバム『宇宙幻想』にシンセアレンジで
入っているのを聴いたのが初めてだったのです。

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このアルバムには「ツァラトゥストラかく語りき」やら
「アランフエス協奏曲」やら、はたまた「パシフィック231」やら
僕好みの曲がいろいろ入っているのですが、
その中でこのアイヴスの曲だけが聞いたことがなかった。
正直、印象は薄いんだけれど、何とも不思議な響きの曲、
そんな風に思っていたのです。
この曲を突然思い出し、そしてバーンスタインの講演のタイトルを
思い出して、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの CD と
この曲の楽譜を手に入れたわけなんですが、
その楽譜にアイヴス自身はこんな解説を書いているではないですか。

「常に弱音器を付けて演奏される弦の響きは
 『何も知らず、何も見ず、何も聞こえない』ドルイドを表現」
「トランペットは存在についての長年の質問を繰り返す」

何と哲学的なモチーフなのでしょう!
「何も知らず、何も見ず、何も聞こえない」って
ガリアのドルイド僧よりは、日本の三猿を思い出させますよね。
前にも書いた通り、バーンスタインがこのアイヴスの曲のタイトルで
講演を行ったことは知っていたので、
そうであれば、どんな講演を行ったのか、
無性に知りたくなったわけなのです。
同時に、この曲に僕自身で取り組んでみたくなったのです。

     *   *   *

はい、というわけで、アイヴスの「答えのない質問」は、
今度の Burn2 で演奏する予定にしています。
今日のところはこの辺で。^^;

2024年9月8日日曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その1

 ヒロシです。大変ご無沙汰しています。
6月の終わりに SL21B に参加して以来、
7月の初めにこの日記を少し書いただけで、
8月は全く音沙汰ない状態が続いていましたね。
SL にも殆どインしていませんでしたので、
この間僕が何をしていたかについて、
ちょっと長くなるかもしれないけれど、書いてみることにします。

     *   *   *

高校生や大学生の頃、「音楽哲学」なるものについて
友人たちと語り合っていました。
「音楽の哲学」、即ち、「音楽の原理」のことではありません。
音楽という行為そのものが哲学的な問題、
「私たちはどこから来たのか」「自分は何故今ここにいるのか」
「私たちはこの先どこへ向かうのか」、そして究極の質問である
「存在とは何か」を考え、追求することにつながるというものです。
「哲学」と「音楽」という、最も趣味的で
最もお金にならないようなものの組み合わせが僕の中では
解き明かさなければならないものとして心の中にあったのでした。
社会人になってお金にならないものはつまらないもののように言う
周りの影響もあって、こうしたことは長い間忘れていました。
それを思い出させてくれたのが何と、
今年の SL21B だったというわけです。

今年の SL21B のテーマは "Elements" でしたので
自分のライブでは西洋の四大元素ではなく、中国の五行をテーマに
「五行組曲」というシンセサイザーの即興演奏による組曲を
皆さんには披露したわけですが、「元素」を扱うに当たって
やはりその元素が生まれたそもそもの初めである
「宇宙のはじまり」を表現しなければと思い、
冒頭に "Big Bang: First Three Minutes" という曲を置いたのです。
そう、宇宙が3分間でできたのなら、それは音楽にするには
ちょうどよい長さではないか、と。

私たちの住む宇宙が3分間でできたというのは
スティーヴン・ワインバーグが 1977 年に出版した
『宇宙創成はじめの三分間』で一般の人たちに広まりました。
僕もこの本のことは知っていて、昔立ち読みしたことはありますが、
ちゃんとは読んでなかった。
読むべき本のリストには入れていたものの、そのままになってて、
SL21B を機に、今はちくま文庫から出ているので、
仕事の行き帰りに電車の中でちょこちょこ読み始めたら
これがとても面白い!

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大学生の頃から思っているのですが、
アメリカの優れた科学者というのは皆文章がうまい。
ワインバーグのこの本も、難しい話が展開されているにも拘わらず、
各章の最後はクリフハンガーめいて気になる終わり方をするので、
え、え、それでどうなるの? と次の章も続けて読んでしまい、
あっと言う間に読み終えてしまう、という仕掛けになっています。
今更ですが、この本は目から鱗というか、そうだったのかぁ! と、
日本でニュートリノの実験が行われていたり、
その第一人者の小柴昌俊さんや素粒子物理学の南部陽一郎さんが
ノーベル賞を受賞したのが何故なのか、漸くわかってきた次第です。
このお二人にはそれぞれ
『ニュートリノ天体物理学入門 知られざる宇宙の姿を透視する』、
『クォーク 第2版―素粒子物理はどこまで進んできたか』という
何れも講談社のブルーバックスから出ている名著があって、
これも読みかけになっていたのを、ワインバーグの本を読んでから
一気に読み通すことができたのです。
更にはこれらの本で学んだことを確かめようと、
お台場にある科学みらい館に足を運んで一人興奮する始末。w

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無限に広がる大宇宙のはじまりを解き明かすには
目には見えない量子レベルで起こっていることを知る必要がある、
これはとても興味深いことです。
しかも、現代の物理学では、
宇宙が始まった最初の100分の1秒前以前のことはわからない。
とすればその前は何があったのか、何もなかったのか、
或いはまた別の宇宙があったのか?
哲学でも問うてはならないとされる「存在とは何か?」の問いは
ここで物理学という、一見哲学から最も遠い学問のテーマとも
重なっていくのです。
そんなことを考えながら僕はあのビッグバンの曲に
取り組んでいたのでした。

     *   *   *

話は変わって、今年の2月に小澤征爾さんが亡くなりましたが、
その時に書いた日記で、小澤さんが指揮と語りを担当した
「ピーターと狼」や「青少年のための管弦楽入門」を録れた
CD について紹介しました。
その際僕は「あの気さくな語り口で、とても親しみがあっていい」
と書きましたが、そう書きながら僕が思い出していたのが
同じ指揮者のレナード・バーンスタインだったのです。
バーンスタインは1958年から1972年にかけて
Young People's Concerts という子供たちが
クラシック音楽の演奏会に親しめるような企画を行っていて
それが CBS のテレビで放送され、それが DVD にもなってますが、
そこでのバーンスタインの語り口がまた素晴らしいのです。
ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」は英語の原題を
The Young Person's Guide to the Orchestra というのですが、
小澤さんのあの語り口と、この曲の原題とが
バーンスタインの Young People's Concerts への連想に
つながったのだと思います。

CBS で放送されたバーンスタインの Young People's Concerts は
全部で53回あって、DVD を揃えるのはとても大変です。
一部は観たことがあるのですが、一度全部観てみたいと思って
調べてみたら、何とちゃんと YouTube に上がっているのですね。


それでちょこちょこ暇を見つけては、というよりは、
半分は仕事感覚で全53回観ましたよ。
第1回の「音楽って何?」から始まり、
第33回の「オーケストラの響き」とか、
僕等が半分当たり前に思っているようなことを
簡単な言葉で改めて整理してくれているのはとても勉強になります。
更に動画だけでなく、各回のスクリプトも公開されていますので、
興味のある方はどうぞ。


で、こういう長いシリーズを観終わると、
終わったことが淋しく、残念なものに思えて
続きはないかと期待したり、探したくなるもの。
それで思い出したのが同じバーンスタインが 1973 年に
ハーバード大学で行った6回の講義「答えのない質問」。
分厚い本になっているのは知っていて、大学の図書館で
パラパラめくってはいたけれども、やはりちゃんと読んでなくて、
あれもビデオになってないかと思って探したら
はい、やはりありましたよ。
そしてこれが超絶面白くて、今書いている「音楽哲学」を
呼び覚ますことになるのですが。。。

     *   *   *

長くなりましたので今日はこの辺で。
こうして本や動画を立て続けに読んだり観たりして
どっぷりその世界にハマって SL はおろそかになっていた
というわけなのです。^^;

2024年7月6日土曜日

【RL】 世界が動く時

この週末、世界の様々な国で国の命運を賭けた選挙が行われてます。
まず、イギリスでは労働党が政権を奪還しました。
7月7日(日)の明日は、日本では都知事選があり、
フランスでは総選挙の第2回目の投票が行われます。
そして僕がずっと注目して来たのがイランの大統領選です。
選挙前に様々なメディアで伝えられた予想に反して
何と改革派のペゼシュキアン氏が当選したのです。
どうせ保守派の候補が勝利する茶番劇と見て、
改革派を支持する人たちは投票に行かないと言われていましたが
候補者の中でたった一人改革派のペゼシュキアン氏が
第1回目の投票で決選投票に残ったことで、
第2回目の投票では投票率が随分と伸びたようなのです。

投票は昨日だったので、今朝起きて日経でイギリス労働党勝利の
記事を読んだあと、イランはどうなっただろうと
ニュースを確認したのですが、日本の NHK は勿論のこと、
いつも一番早い BBC でさえ詳しい記事が出ていませんでした。
仕方がないので、久しぶりに IRIB、
即ちイラン・イスラム共和国放送のペルシャ語のサイトを確認、
あったあったありましたよ。
英語版のサイトでは開票の進捗についての記事はないのですが、
ペルシャ語版では日本時間午前 8:41 から開票情報が随時更新、
全国6万箇所の投票所のうち、3万5千箇所からの開票時点で
既に100万票以上の差でペゼシュキアン氏がリードしているのを
確認してから外出しました。

それにしても IRIB のサイトを見るのは久しぶりでした。
僕は2004年と2006年にイランを訪れていて、
その前後にはイランからの情報を直接確認したくて
よくアクセスしていたのです。
特に、2005年10月26日にアハマリネジャド大統領が、
「イスラエルは地図上から抹消されなければならない」
という発言を行ったと当時センセーショナルに報道された時は、
どうせこれは英語からの翻訳でしょ?
実際にはご本人はペルシャ語でどう発言したのだろう? と、
いろいろ調べたものです。

実際、同じことは誰でも疑問に思ったようで、
当時国会で鈴木宗男議員が小泉総理に質問しています。
総理は「当該発言の正確な内容を確認するには至っていない」
と回答しています。
今ネットで検索するとこの発言に関する記事は
「しんぶん赤旗」以外では見つからないことから、
後に誤訳だったことがわかって消されたのかなと想像しています。

本件は、恐らくは「ニューヨークタイムズ」紙に
ナジラ・ファティ記者が寄稿した英訳が一人歩きしたものだろうと
自分はそう見ています。
ご参考と自分の備忘のために、該当箇所の記者の英訳とその翻訳を
別途入手したペルシャ語の原稿とその翻訳とを合わせて
ここに転記しておきます。

     *   *   *

<英語版>

Who could believe that one day we could witness the collapse of the Eastern Empire? But we have seen its fall during our lives and it collapsed in such a way that we have to refer to libraries because no trace of it is left.Imam [Khomeini] said Saddam must go and he said he would grow weaker than anyone could imagine. Now you see the man who spoke with such arrogance ten years ago that one would have thought he was immortal, is being tried in his own country in handcuffs and shackles by those who he believed supported him and with whose backing he committed his crimes.

Our dear Imam said that the occupying regime must be wiped off the map and this was a very wise statement.We cannot compromise over the issue of Palestine. Is it possible to create a new front in the heart of an old front. This would be a defeat and whoever accepts the legitimacy of this regime [Israel] has in fact, signed the defeat of the Islamic world.Our dear Imam targeted the heart of the world oppressor in his struggle, meaning the occupying regime. I have no doubt that the new wave that has started in Palestine, and we witness it in the Islamic world too, will eliminate this disgraceful stain from the Islamic world.But we must be aware of tricks.

ある日突然、東の帝国が崩壊するのを目撃できるなんて、誰が信じたでしょうか。しかし、私たちは生きている間にその崩壊を見たのです。そして、その崩壊は、跡形もなく図書館に頼らざるを得ないほどでした。イマーム(ホメイニ師)は、サッダームは去らなければならない、そしてサッダームは誰も想像できないほど弱くなるだろうと言いました。今私たちが目にするのは、10年前には不死身だと思われるほど傲慢に語った男が、自分の国で、彼を支持していると信じ、その後ろ盾で犯罪を犯した人々によって手錠と足かせをはめられて裁判にかけられている姿です。

私たちの敬愛するイマームは、占領政権は地図から消し去らなければならないと言いましたが、これはとても賢明な発言だったと言えます。パレスチナ問題で妥協することはできません。古い前線の真ん中に新しい前線を作ることは可能でしょうか。これは敗北であり、この政権(イスラエル)の正当性を認める者は、事実上、イスラム世界の敗北に署名したことになります。私たちの敬愛するイマームは、その闘争において世界の抑圧者、つまり占領政権の心臓部を標的にしました。パレスチナで始まった新しい波、そしてイスラム世界でも目撃されている新しい波が、イスラム世界からこの不名誉な汚点を一掃することを私は疑いません。しかし、私たちは策略に気を付けなければなりません。


<ペルシャ語版>

كسى باور نمى كرد يك روز ما سقوط امپراتورى شرق را ببينيم. مى گفتند حكومت آهنين، اما ما در عمر كوتاه خودمان ديديم. آنچنان فرو ريخت كه اگر بخواهيد از آن سراغ بگيريد بايد به كتابخانه ها برويد. به كتابخانه كه مى رويد و به كتابدار مى گوييد، مى گويد بله ما مشتى كتاب آنجا داريم، در گونى گذاشته ايم و دارد خاك مى خورد، از آنها مى خواهيد؟ هيچ آثارى نيست. امام فرمودند صدام بايد برود و فرمودند صدام به چنان ذلتى گرفتار خواهد شد كه نظير ندارد. امروز ما چه مى بينيم. 

اين آقايى كه ده سال پيش با چنان غرورى حرف مى زد كاَنه جاودانه است، امروز زنجير در دست و پا در كشور خودش، توسط كسانى كه با حمايت آنها جنايت مى كرد و دلخوش به حمايت آنها بود، دارد محاكمه مى شود و امام عزيز ما فرمودند كه اين رژيم اشغالگر قدس بايد از صفحه روزگار محو شود. اين جمله بسيار حكيمانه است. مسئله فلسطين مسئله اى نيست كه ما بياييم و روى بخشى از سرزمين آن سازش كنيم. مگر جبهه اى مى تواند اجازه بدهد در قلبش نيروهاى دشمن حضور داشته باشند. اين به منزله شكست است. هركس موجوديت اين رژيم را به رسميت بشناسد در واقع پاى برگه تسليم و شكست دنياى اسلام را امضا كرده است. امام عزيز ما در مبارزه سنگين اسلام با دنياى استكبارى و كفر، نقطه مركزى و فرماندهى قرارگاه دشمن را هدف گرفتند و آن هم رژيم اشغالگر قدس است. من ترديد ندارم موج جديدى كه در فلسطين عزيز به راه افتاده، موج بيدارى اى كه امروز در دنياى اسلام هست و موج معنويتى كه سرتاسر دنياى اسلام را فرا گرفته، به زودى زود اين لكه ننگ را از دامان دنياى اسلام پاك خواهد كرد و اين شدنى است؛ البته بايد مراقب فتنه ها باشيم. 

東の帝国が崩壊する日が来るとは誰も信じていませんでした。鉄の政府と言われましたが、私たちはその崩壊を短い人生の中で見たのです。その崩壊の度合いはあまりにも激しく、この帝国について知りたければ図書館に行くしかありません。図書館に行って司書に言うと、「はい、そこに本がたくさんあるのですが、袋に入っていて汚れてしまってますが、それでも見たいですか?」と言うでしょう。それ程に痕跡が何も残っていないのです。イマーム[ホメイニ師]は、「サッダームは去らなければならない」とも、「サッダームは他に例を見ないほど屈辱を受けるだろう」とも言っていました。今日私たちが見ているのはどのような光景でしょうか?

10年前にあれほど誇りを持って語っていたこの紳士は、永遠に皮肉な存在となってしまいました。今日彼は、自分の国で、彼を支援して犯罪を犯し、喜んで彼を支援した人々によって、鎖につながれ、裁判にかけられているのですが、私たちの親愛なるイマーム[ホメイニ師]はこうも言っているのです。エルサレムを占領しているこの政権は時のページから[時代が変わればいつかは]消え去るべきものだ、と。これはとても賢明な発言だと思います。パレスチナ問題は、私たちがその土地の一部について妥協する問題ではありません。前線でその中心部に敵軍を迎え入れることがあり得るでしょうか? そんなことをしたら負けを意味します。この政権の存在を公式に認めた者は、実際にイスラム世界の降伏と敗北に署名したことになるのです。傲慢と不信仰の世界に対するイスラム教の激しい闘争の中で、私たちの親愛なるイマームは敵陣営の中心人物とリーダーとを標的にしました。それがエルサレム占領政権なのです。親愛なるパレスチナで始まった新たな波、今日のイスラム世界にある覚醒の波、そしてイスラム世界全体を覆っている霊的な波が、近いうちにこの恥辱の汚れをパレスチナの膝の上から取り除くだろうと私は信じています。イスラム世界にはそれが可能なのです。勿論、敵のはかりごとには気をつけなければなりませんが。

     *   *   *

ペルシャ語原文の段落分けは、ファティ記者の英文を参考に
僕が改行を入れたもので、この僕が見ている文章が
ファティ記者が見たものと同じかどうかはわかりませんが、
少なくともこのペルシャ語の原文ではつながっている文章が、
英語版では異なる段落に分割され、
「地図から消し去らなければならない」という部分が
段落冒頭に来ることで強調されています。
元の文章は、鉄の政府と言われたフセイン大統領の帝国も
跡形もなく消えてしまった、
同じように、エルサレム政権の現体制も、時代の変化の中で
変わり、消えていくべき存在だ、と言っているにすぎません。
攻撃の対象はイスラエルという国でもそこに住む国民でもなく、
現体制を運営している指導者たちに向けられているだけなのです。
こうした誤訳が、それこそ時と共に明らかになり、
当時の報道記事もネットから消えてしまったのでしょうね。

何れにしても、強硬派だったアフマディネジャド氏は
今回の大統領選では候補者として認められませんでした。
保守派寄りのハーメネイー師は、「国民は正しい選択をする」
と述べていましたが、その国民が選択したのは
改革派のペゼシュキアン氏でした。
これからのイランは欧米に対しては強硬な姿勢でなく、
対話によるより平和的な路線を進むのでしょうか?
私が2004年にイランを訪れたのは、
当時のハータミー大統領がその著で訴えた『文明の対話』に応えて
いだきしんさんがペルセポリスで行ったコンサート
「文明間の対話」に参加するためでした。
世界がどんどん分断していくように思われる今、
再び対話を通して平和な世界が到来することを祈るばかりです。
そして、日本の皆さん、諦めてはダメなのです。
選挙で自分の意志を伝えることがよりよい未来を創ることなのです。

2024年7月1日月曜日

【SL21B】 見逃せない展示の数々

さて、土曜日のライブが終わって脱力状態のヒロシです。
日曜日になって漸く気持ちに余裕が出てきたので
やっとのことで SL21B の会場巡りを始めました。
まず訪れたのは勿論、土曜日のライブで演出と照明をしてくれた
ケルパさんの展示会場です。

■Kerupa Flow: I Have a Dream
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とってもとっても不思議な世界が広がっていますので、
是非是非ご自身で訪れていろいろ体験してみて下さい。

それから、この世界ではレジェンドと言っていい
Bryn Oh さんの新しい展示のプレビューもありましたね。

■Bryn Oh: Skyfisher preview
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"Skyfisher" という名のアートーワークは7月6日開催とのことで
上の SLURL の展示会場で参加の仕方などが書いてあります。

この他、Burn2 でお世話になっている iSkye Silverweb さん他の
仲間のような方々の展示もありました。
が、リストを見ていて、お? と目に止まったのが次の展示。

■CoutureChapeau Resident, Balthazar Fouroux, Chigadee London: Elementary, my dear Watson
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そうなんです。ベーカー街221B なんですよ、ワトソン君。
ドアを開けて入ると「あの部屋」が再現してあって、
コーヒーテーブルの上にちらかってる
"Earth" とか "Fire" とか書かれている紙に座ると。。。
そう、四大元素を表した部屋に飛ばされて、
そこにある宝箱をクリックすると、
シャーロック・ホームズ縁の品々や四大元素を満喫できる
お勧め SIM のリストがもらえるという仕掛けです。

昨日見たのは大体こんなところ、他にもおもしろいところは
たくさんありそうです。
展示会場は7月21日(日)までやっていますが、
その全リストはこちらのページをご参照下さい。

■SL21B Exhibitor Showcase

2024年6月30日日曜日

【SL21B】 昨晩の SL21B ライブありがとうございました!

昨晩 6月29日(土)22:00 から SL21B の会場で行われた
僕のライブにご来場頂いた皆様、ありがとうございました!
殆ど告知できていないにも拘わらず、たくさんの方々にお越し頂き、
嬉しく、またありがたく感じております。
恐らく前のステージからの流れでいらした海外の方々も
初めて僕のライブを見る皆さんにも喜んで頂けたようで何よりです。

今回は「五行組曲」ということで、テーマの "Elements" に基づき
中国の Elements 思想である五行、即ち木・火・土・金・水を
音楽で表現するという試みでした。
「五行」と敢えて言うと難しいように思われますが、
私たち日本人の慣習や行動様式の中に根付いていて、
まずカレンダーの1週間がそうですし、
例えば今年の干支は「きのえたつ」と言いますが、
これは漢字で書くと「木の兄辰」で、
十二支にこの五行の木・火・土・金・水が
「兄(え)」と「弟(と)」の2つずつ組み合わさることで
60年で一つの周期を成すようになっているわけです。
そう、正にこれは周期で、この順番は、
木は火を、火は土を生み出し、最後に水がまた木を生み出すことで
永遠に循環するようになっているのです。

さて、その五行をテーマにした「五行組曲」ですが、
冒頭に宇宙の始まりビッグバンを置きました。
そして今の宇宙の原型は3分46秒で出来たということなので
曲の長さもそれに合わせて3分46秒にしてあります。w
これはスティーヴン・ワインバーグの名著
『宇宙創成はじめの3分間』からのインスピレーションで、
最初は実際に宇宙が出来上がった時間に合わせて曲を作ろうか
とも思ったのですが、ワインバーグさん書かれている通り
「ふつうの映画のように等しい時間間隔で情景を示」すことは
できないのです。
即ち、宇宙創成は次のような6つのフレームで進んだのですが……

第1フレーム:0.01秒後
第2フレーム:0.11秒後
第3フレーム:1.09秒後
第4フレーム:13.82秒後
第5フレーム:3分2秒〜3分46秒:原子核の形成
第6フレーム:30分40秒後から70万年後:宇宙の膨張

この時間に合わせて音楽の作るのはムリです。www
なので自由なイメージで3分46秒の曲に仕上げました。
爆発の音がする直前「ピ・ポ・パ・ポ・ピ・ポ・パ・ポ」と
ヘンなオッサンのような声が聞こえるのは勿論、
僕のシンセサイザー音楽の原点、冨田勲さんへのオマージュです。

その他、木は上へ上へと垂直に伸びていくのと同時に
横へ横へと水平にも広がっていくイメージ、
火は太鼓の連打、土はティンパニ、金はガムランで表現し、
水は結局ピアノで表現することにしました。
そして最後に木が戻って来るところはオルガンで、という構成です。

それにしても昨晩は2回も落ちてホント申し訳なかったです。
1回目は、何とも SL の動きが変でした。
1曲目始まって、楽器に「座った」ところで、
楽器をタッチするとどのスタイルで演奏するか
アニメをコントロールするダイアログが出るのですが、
そこにあるボタンの1つをクリックした瞬間、
何故か前回ログアウトした場所にテレポした上で落ちたのです。
(ヒロコもマイクの操作をしようとして落ちたと言ってました。)
で、リログしたら今度は動けない。
何と、楽器に座っている状態が続いているのです。
最終的にはステージ脇の草地にもう一度テレポすることで
何とか解消しました。
ケルパさんもコマンドが通らないことがあると仰っていたので
1週間イベントをやってきて、
SIM の状態がかなり重くなっていたのではないかと想像します。
Burn2 のようにリスタートする時間も設けてないようですし。

まぁ、そんなこんなありましたが、会場の皆さんや
演出のケルパさん、中継のしんさんに支えられて
無事ライブを終えることができました。
ここで改めて皆さんに御礼申し上げます。
ありがとうございました。

昨晩いらっしゃれなかった皆さんには
しんさんが中継した動画が未編集の状態で暫くの間は
見ることができるようですので、是非ご覧になって下さい。
(私自身は怖くてまだ見てないのですけれど。w)

■Hiroshi Kumaki Live at SL21B「五行組曲」
・日時:2024年6月29日(土)22:00〜23:00
・会場:SL21B Stonehold Stage
・演出:Kerupa Flow
・YouTube中継:Sin Nagy (Hole Shot Live)


<セットリスト>
1. Happy Birthday Second Life (w/Hiroko Sweetwater)
2. Suite: Wuxing (Five Elements)
  a) Big Bang: First Three Minutes
  b) Wood
  c) Fire
  d) Earth
  e) Metal
  f) Water
  g) Wood (Reprise)
3. ONE (w/Hiroko Sweetwater)

2024年6月29日土曜日

【SL21B】 いよいよ今晩22:00〜ヒロシの SL21B ライブです!

ああぁぁ〜〜っと言う間に当日になりました。
はい、今晩22:00より僕の SL21B ライブです。
今年の SLB のテーマ "Elements" に合わせて、
シンセサイザーの即興演奏による「五行組曲」というのをやります。
まだバックで流すトラックが完全には出来上がってないのですが
時間までには何とかなるでしょう。

今年の SLB は PBR、
つまり新しい物理モデルによるレンダリングを
広くお披露目する場でもあるようで、Firestorm ビューワーも
これに対応したバージョンを出して来ましたが、
まだあまり安定していないような話も聞きますので
自分は今日のところは安全をとって旧バージョンで臨みます。

ステージ演出はいつものようにケルパさんにお願いしています。
そして、今日はしんさんによる YouTube の中継もあります。
いろいろなご事情で会場にいらっしゃれない方は、
是非 YouTube の方でお楽しみ下さい。

本番まであと12時間。
今日この場でしか見ることのできないショーになりますので
是非お友だちとお誘い合わせてお越し下さい。
会場でお待ちしています!

■Hiroshi Kumaki Live at SL21B「五行組曲」
240626a

・日時:2024年6月29日(土)22:00〜23:00
・会場:SL21B Stonehold Stage
    ※ポスターの表記と異なりますが、こちらの方が近いです。
・演出:Kerupa Flow
・YouTube中継:Sin Nagy (Hole Shot Live)

2024年6月26日水曜日

【SL21B】 SL21B 始まりました!〜そしてヒロシのライブは今週末、6/29(土)22:00からです!

いやぁ、出遅れました。
セカンドライフ21歳の誕生日イベント SL21B が
先週末6月21日(金)から始まっていたんですけどね。
この週末はあちこちに移動でメチャメチャ忙しかった!
で、もう皆さん既にあちこち見て回ったり
ライブや DJ パーティーを楽しんでいらっしゃるとは思いますが、
例年のことですので、遅まきながらこの日記に書きます。

まぁ、知り合いのイベントに参加されるのでしたら、
直接会場に行ってもよいようなものですが、
やっぱりこういうお祭りの場合は入場ゲートというか
そういうところから入ってあちこちブラブラ見物したいもの。
というわけで、今年の Welcome Area はこちらになります。

■Welcome Area

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んー、何かイメージ的には昨年と変わらないような気もしますが、
今年はピラミッドみたいなケージになっていますね。
そして、メイン会場へは長〜いアプローチがあるのは前回同様。

んで、イベントが行われるステージは4箇所あります。
そう、西洋の「四大元素」に因んで、土、水、空気、火のイメージの
ステージになっているわけです。

■SL21B Stonehold - Earth Stage

土=大地のイメージのステージは僕が今週末ライブをやるところです。
元々僕が SL で音楽活動を始めた時、最初にやった曲が
「DAICHI」でしたからね、原点回帰的にこのステージでやります。

■SL21B Firestone Keep - Fire Stage

■SL21B Aquatorium - Water Stage

■SL21B Nimbus - Air Stage

そして、このだだっ広い会場、どこから見ていいか分からない、
という方には、何と言ってもポッド・ツアーがお勧めです。
会場内いろんなところに連れていってくれますので、
気に入ったところで途中下車してみるのもよし。

■Pod Tour Station

あと、折角のお祭りなんだからフリーのギフトはないの?
という方には、はい、ギフトエリアもちゃんとありますよ?

■SL21B Gift Area

そして、あまり知られてないんだけど、
僕が毎年楽しみにしているのが、過去の SLB の歴史を見られる
Tapestry of Time なんです。
以前は Time Machine と呼ばれていましたね。
そうそう、あの時こういうのあった! と懐かしい思い出が
蘇って来る場所です。

■SL21B Tapestry of Time

そんな SL 21回目の誕生日ですが、僕のライブは6月29日(土)、
今週の土曜日、日本時間の22:00 からになります。
今年のテーマ "Elements" に合わせて、
東洋人である僕は「四大元素」ではなく、中国由来で
日本人の生活にも深く根ざしている「五行」をテーマに
シンセサイザーの組曲を演奏する予定です。
例によってケルパさん、しんさんに手伝ってもらいますが、
この場限りの、2度とやらない企画になると思いますので、
是非カレンダーに印を付けて、お友だちとお誘い合わせて
遊びに来て下さい。
会場でお待ちしています!

■Hiroshi Kumaki Live at SL21B "Suite: Wuxing"
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・日時:2024年6月29日(土)22:00〜23:00
・会場:SL21B Stonehold Stage
・演出:Kerupa Flow
・撮影:Sin Nagy

2024年6月8日土曜日

【ライブ】 SL21B・ヒロシの出演は6月29日(土)22:00 Earth ステージで決定!

大変ご無沙汰しております。
永い永い冬眠から漸く目を覚ましたクマであります。
流石に6月ともなると暑くて暑くて寝ていられません。
そして、そう! 6月と言えば我等が SL の誕生月でございます。
というわけで、SL 21歳の誕生日イベント SL21B に向けて
このお祭りには参加せねばとムックリ起き上がったクマなのです。

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今年の SLB は6月21日(金)〜7月21日(日)の開催ですが、
公式ステージでの音楽イベントは最初の10日間だけ、
Earth, Air, Fire といういかにも西洋の四代元素を意識した
3つのステージで行われます。(何故4番目の Water がない?w)
このうち Fire は何でもアリの Adult エリアとなっています。

そこで! ヒロシのライブは、
6月29日(土)22:00 Earth ステージと決まりました!
イエ〜〜〜イ!
例年通り今年もケルパさんとしんさんに手伝って頂く予定で、
SL21B のテーマ "Elements" を意識した組曲をと考えています。
果たしてどんな音楽になるのか、
今の時点では自分自身でも全く分かっていませんが、
このイベントでしか聞けない貴重なものになるはずですので、
是非、カレンダーに印を付けて、
当日はお友だちをお誘い合わせてお越し下さい。
会場でお待ちしています!

■Hiroshi Kumaki SL21B ライブ
・日時:2024年6月29日(土)22:00〜23:00
・会場:SL21B Earth Stage

2024年6月2日日曜日

【RL】 ノストラダムスの予言について

『聖書』に預言書と呼ばれるものがある。
最も有名なものは三大預言書、即ち「イザヤ書」、
「エレミヤ書」、そして「エゼキエル書」であり、
その他に十二小預言書と呼ばれる一群の短いものもある。
特に「エレミヤ書」や「エゼキエル書」は、
超自然的な記述がある点も魅力だが、
結局のところ歴史はこの預言者たちが言った通りに動いて行った、
という点に凄まじいものを覚えないではいられない。

そしてこれら『聖書』の預言者たちよりも日本で有名な予言者は
勿論ノストラダムスである。
これは亡くなられた五島勉さんが1973年に出した
『ノストラダムスの大予言』がブームになったことが大きい。
曰く、1999年7月に人類は滅亡するというのだ。

「一九九九の年、七の月
 空から恐怖の大王が降ってくる
 アンゴルモワの大王を復活させるために
 その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配に乗りだすだろう」

この頃既に生まれていた僕はこの話に大変興味を持った。
同じ1973年に小松左京さんの SF『日本沈没』も出版され、
同じ年に映画化、翌1974年にテレビドラマ化された。
1975年には NHK で「なぞの転校生」が放送された、
そういう時代である。
当時はスモッグなどの公害問題がテレビのニュースで流れ
ーーそう言えば1971年には公害問題をテーマにしたヒーローものの
「スペクトルマン」もテレビで放映されていたーー、
1973年にはオイルショック、1974年の狂乱物価と、
1970年の大阪万博のテーマは「進歩と調和」であったが、
世の中には何とも言えない不安が取り巻いていた時代であった。
そんな時代に、遠くない将来人類が滅亡する、というメッセージは
多くの人の心に刺さったと言える。

1999年は疾に過ぎたが、そもそも五島さんは正確には
当時どのように書いていたのか、子供の頃読んだ筈だが、
フランス語原典を簡単に読めるようになった今、
改めて読み直してみてわかったことがあるので備忘も兼ねて
ここにまとめておくことにする。

     *   *   *

原典を読んでわかったことは、ノストラダムスは
イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった聖書の預言者とは
タイプが違うということだ。
かれは天文学や西洋占星術の大家であって、
「暦」を発行していた人なのだ。
つまり、ニュートン力学的な天文学の世界では
何年後にどの星がどの位置にあるということを正確に予測できる。
だから暦を発行していたわけだし、その延長で何年も先のことを
予測できたというわけなのだ。

それをまとめたのが『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』で、
4行の詩を100篇ずつ集めたものを、10巻に著した書物であるが、
その形式から  "Les Centuries" と呼ばれることがあり、
"century" という英語が今では「世紀」を表すので、
五島さんの本では『諸世紀』と訳されていたが、
この語は元々 "cent" =「100」から来ている言葉で、
ここでは詩が100篇集められているからの命名なので
現在の日本語では『詩百篇』などと言っているようである。
以下、元のタイトルを生かして『予言集』と呼ぶことにする。

さてその『予言集』の冒頭に、息子のセザールに宛てた手紙が
序文として掲載されているが、その冒頭でこの書の内容は
天文学によってもたらされたことが書かれている。
従ってこの書の内容を読み解くには天文学や西洋占星術の知識が、
そして古いフランス語やラテン語の知識が必須となるのであるが、
どうも五島さんはその辺りの検証はせずに、
恐らく誰かの英訳を読んで解釈していたように思われる。
これは天体が絡む詩で顕著である。

第2巻第48篇
La grand copie qui passera les monts.  
Saturne en l'Arq tournant du poisson Mars:  
Venins cachez soubs testes de saumons,  
Leurs chief pendu à fil de polemars.

五島訳では、

「巨大な軍隊は山を越えて引きあげるだろう
 マルスの代わりにサチュルヌが魚たちを裏がえす
 シャケの頭にも毒がかくされるようになる
 だが彼らの大物は極地で輪のなかにくくられるだろう」

となっていて、「サチュルヌ」を「鉛」と解釈し、
鉛の毒で魚が汚染される予言だとしている。
が、天文学や西洋占星術を考慮してそのまま訳すと
次のようになろうかと思う。

「大きな軍隊が山々を越えて行く
 土星が射手座にあり、火星は魚座で逆行する
 毒が鮭の頭の下に隠される
 その頭は荷造り紐で吊される」

4行目の "Leurs chief”ーー「彼らの頭」とは、
「軍隊の頭」=「指導者」のことなのか
複数形になっている「鮭」の頭のことなのか不明であるが、
前者で訳す方が自然であるように思われる。
僕は寧ろ、「鮭」の原語 "saumon" には "psaume",
即ち『聖書』の「詩篇」の含みがあるように思われる。

この公害的な解釈に関連して、次のものを挙げておく。

第1巻第19篇
Lors que serpens viendront circuer l'arc,  
Le sang Troyen vexé par les Espaignes:  
Par eux grand nombre en sera faicte tarc,  
Chef fruict, caché aux marcs dans les saignes. 

五島さんは2行しか訳を載せていないが、

「蛇どもが空をおおってくる
 それによって無数の人びとが死ぬ」

として、

「あきらかに航空機の無法な爆撃を暗示していると見られる一篇」

と述べておられる。が、明らかではないだろう。w
僕には最初占星術的に "serpens" は蛇座に
"l'arc" は射手座に見えたのだが、実際に射手座とへび座は隣にいる。
が、この "l'arc" は "l'are" 即ち「祭壇」の誤植らしく、
従って全体の意味としては、

「蛇の群れが現れ祭壇を囲む時
 トロイアの血を受け継ぐ者たちはスペイン人に悩まされ
 彼らによってその数は激減する
 指導者は逃げ、葦茂る沼地に隠される」

「トロイアの地を受け継ぐ者」とはフランス人のことである。
そしてフランス人とスペイン人の間での戦いとなれば
仏西戦争というのが思い出されるが、
その前にも両者の間には何度か戦いがあり、
フランスが散々な負けを喫しているものがある。
航空機とは何の関係もない詩と言えるだろう。

また、

第2巻第75篇
La voix ouye de l'insolit oyseau,  
Sur le canon du respiral estage:  
Si haut viendra du froment le boisteau  
Que l'homme d'homme sera Antropophage.

「人が望まない奇怪な鳥の音が聞かれる
 もっとも重複した大砲の上に
 小麦の値段ははね上がり
 人間が人間を食う時代が訪れるだろう」

1行目の「奇怪な鳥」を軍用機か SST(超音速機)、
或いはロケット戦争、
2行目の「もっとも重複した大砲」という日本語は
意味がわからないが、これを多弾頭式ミサイルとしているが、
原文を割と普通に訳すと

「見たこともないびっくりするような鳥の鳴き声が聞こえる
 垂直に立つ換気用の煙突の上にそれはいる
 1ブッシェルの小麦の値段が高騰し
 人が人の肉を食べるようになる」

鳥が煙突の上にいるのは不吉な前兆だそうで、
それもただの鳥ではないものが現れ、飢饉が起こるということか。
次のものも、五島さんの訳では意味不明。

第9巻第44篇
Migrés, migrés de Geneue trestous.  
Saturne d'or en fer se changera,  
Le contre FAYPOZ exterminera tous,  
Auant l'aduent le ciel signes fera.

五島さんの訳では、

「逃げよ、逃げよ、すべてのジュネーブから逃げだせ
 黄金のサチュルヌは鉄に変わるだろう
 巨大な光の反対のものがすべてを絶滅する
 その前に大いなる空は前兆を示すだろうけれども」

「すべてのジュネーブ」とは「世界の有名都市」のことであるとし、
「光の反対のもの」とは、
「太陽を完全にさえぎる超光化学スモッグのすさまじい雲」
としてるが、これは読み違え。
「すべての」の原語 "tretous" は「皆さん」と呼びかけの語、
"Le contre RAYPOZ" とは "RAYPOZ" の反対、
即ち "ZOPYAR" を表し、ほぼこれと同じ語 "Zopyra" を
銘にしていたというスペインのフェリペ2世を表す、
というのが現在では一般的な理解かと思われる。
わざわざ大文字にしてますからね。

「逃げよ、ジュネーヴから去れ、全ての人よ
 サトゥルヌスの黄金の治世は鉄の時代へと変わる
 RAYPOZ を逆から読んだものが全てを滅ぼすだろう
 降誕節の前に天はそのしるしを示す」

といったところで、ジュネーヴのカルヴァン派が衰退し、
フェリペ2世がそこに攻め入って駆逐することを表したものらしい。

五島さんの解釈があまりにも現代に引き付け過ぎているので
ちょっと長くなったけれども、
さて、話を天文学、占星術絡みに戻すと、
次のものは五島さんの訳を読んで、原文が浮かんだものだ。

「日がタウルスの第二十番目に来るとき、大地は激しく揺らぐ
 その巨大な劇場は一瞬に廃虚となるだろう
 大気も空も地も暗く濁り
 不信心な者たちは神や聖者の名を必死に唱えるにちがいない」

原文は次の通りで、

第9巻第83篇
Sol vingt de Taurus si fort de terre trembler,  
Le grand theatre remply ruinera:  
L'air, ciel & terre obscurcir & troubler,  
Lors l'infidelle Dieu & saincts voguera.

占星術的に訳せば次のようになる。

「太陽が牡牛座の20度にある時大地が強く揺れる
 満員の大劇場は崩壊する
 大気と空と大地は黒く濁り
 時にこれまで信じなかった者たちも神と聖人に祈るだろう」

「タウルスの第二十番目とはなんじゃ〜」と思ったのだが、
五島さんはこれを牡牛座の20日目と解釈、
その番号を合わせて1983年5月10日としているが、
その考え方自体は結果的に合っている。
次が1983年5月10日のホロスコープで、太陽は牡牛座の19度にいる。

240602a

ノストラダムスの予言をややこしくしているのは、
この世界が紀元前5200年に始まり、
土星、金星、木星、水星、火星、月、太陽の7つの天体が
それぞれ354年と4ヶ月の周期でこの世界を支配するという
考え方を下敷きにしている点だ。
354年と4ヶ月とは何とも中途半端な数に見えるが、
これは太陰暦の1年をベースに考えられたもので、
太陰暦の1年は354日であるが、そうすると太陽暦の365日と
だんだんズレが生じてくるので、大体3年に一度
閏月というものを設けて1年を13ヶ月とする。
これを考慮すると1年は354.3333...日となり、
その1年と同じ数の年数を重ねると354年4ヶ月となるのだ。

これを踏まえたのが次の詩で、

第1巻第48篇
Vingt ans du regne de la Lune passez,  
Sept mil ans autre tiendra sa monarchie:  
Quand le Soleil prendra ses iours lassez:  
Lors accomplir & mine ma prophetie. 

五島さんはこれを次のように訳していて、

「月の支配の二十年間は過ぎ去った
 七千年には、別のものがその王国をきずくだろう
 太陽はそのとき日々の運行をやめ
 そこでわたしの予言もすべて終わりになるのだ」

月は滅び行くものの象徴で、人間はあと二十数年で滅びる
といったように解釈しているようだが、
この紀元前5200年を起点とする考え方では
3回目の月の支配が始まるのが1535年であり、
ノストラダムスが『予言集』をまとめている1555年は、
正に月の支配の20年が過ぎた年なのである。
従って、僕の訳では、

「月の支配が始まって20年が過ぎた
 7千年を超えるまでその王国は続くだろう
 太陽が残された日々を受け取る時
 私の予言は成就し、終わる」

月の支配が終わり、3回目の太陽の支配が始まるのは
7086年目の8の月からで、西暦1887年に当たる。
そこから2行目が導かれるわけで、
月の支配は7000年を越えるまで続くわけである。
西暦7000年に人類が滅亡したり
人類とは別の生き物が支配することを言っているわけではない。
尚、「別のもの」は原文 "autre" から来ているのだろうが、
この言葉はどちらかというと「7000年」にかかっているように
僕には思われる。

因みに、「太陽が残された日々を受け取る時」とは
太陽の支配が終わる時、と考えると
それは西暦2242年に当たり、これこそ世界の終わりと
考える人たちがいるが、このことはまた最後に触れる。

さて、これは五島さんに限らないが、
次の詩はヒトラーの台頭を予言したものとしてよく引用される。

第2巻第24篇
Bestes farouches de faim fleuues tranner;  
Plus part du champ encontre Hister sera,  
En cage de fer le grand fera treisner,  
Quand rien enfant de Germain obseruera.

2行目の "Hister" が "Hitler" を400年前に予言しているというのだ。
五島さんの訳では、

「飢えた残虐なけものどもが、川のなかでもがく
 多くの兵営はイスターにそむき
 鉄のカゴのなかでその大いなる奴はウロウロするだろう
 ゲルマンの子は何も認めようとはしなくなる」

となっているが、 "Hister" とはラテン語でドナウ川下流のことだ。
更に、"Germain" は勿論「ゲルマン」や「ドイツ」の意味はあるが、
普通にフランス語では「兄弟」を意味する言葉でもある。
どちらかというと、20世紀ではなく、
ドナウ川下流からハンガリーやオーストリアを襲った
スレイマン大帝率いるオスマン帝国のことではなかろうか。
4行目の "rien" は文字通りには英語の "nothing" に当たる語だが、
どうも初版では "rin"、即ち「ライン川」になっていたらしい。
となると、

「野獣どもが空腹に駆られて川を泳いで渡る
 軍隊の大部分はドナウ川に向かって対峙する
 鉄の檻の中に偉大なる者が閉じ込められる
 兄弟の国の子たちがライン川を見守っている時に」

兄弟、即ちドイツがライン川の向こうに見守っているのは
勿論長い間敵対しているフランスのことであろう。

う〜む。
今読み直してみると五島さんの解釈があまりに突飛すぎるので、
ついついあれもこれも伝えたいと長くなってしまった。
最後に皆さんが興味あるであろう
問題の「一九九九の年、七の月」の詩を見てみよう。

第10巻第72篇
L'an mil neuf cens nonante neuf sept mois,  
Du ciel viendra vn grand Roy d'effrayeur:  
Resusciter le grand Roy d'Angolmois,  
Auant apres Mars regner par bon-heur. 

先の、紀元前5200年を天地創造とする世界観を踏まえれば
この詩の謎は解ける。
また、息子セザールに宛てた序文では、
ノストラダムスは自分たちは第7の千年紀にいると書きつつ、
彼の『予言書』は3797年までの予言だとも書いている。
更に僕の見るところ、「年」を表すのに "an" と "annee" の
2つの言葉を使い分けているように思える。
即ち、前者が一般的な「年」で後者が特定の年のように。
そう考えると、1999の年とは西暦1999年ではなく、
次の2千年紀が終わる前の年のことではないか?
次の2千年紀とは即ち第9の千年紀のことで、
もうその次は1万年紀に入ってしまう。
そう、第9の千年紀でこの世は終わり、と
ノストラダムスは考えたのではなかったか。

それでは、第10の千年紀が始まるのはいつか?
それは西暦3800年である。
1999年の7の月とはその4ヶ月前を指し、
序文にある3797年とはその3年前のことではないか?
そうすると辻褄が合ってくる。
僕の解釈では、この詩は、

「1999年の7番目の月に
 失われたものを立て替える偉大な王が空から現れる
 アングレームの偉大な王を蘇らせるために
 その前後に運良く火星が支配する」

そう、西暦3800年は火星が支配する時代に当たる。
「恐怖の大王」と訳されていた "vn grand Roy d'effrayeur" だが、
最後の単語は "deffraieur"、即ち、失われた費用などを
立て替えてくれる人を意味する単語で解釈する方が自然だ。
そして「アンゴルモワ」、もしかして「モンゴリア」か?
と言われていた "Angolmois" はアングームア、
即ち、ヴァロア朝アングレーム家の出身の地のことであろう。

ノストラダムスの時代の王は正にこのアングレーム家であり、
その衰退は既に目に見えていた。
この詩は、西暦3799年の7の月にそのアングレーム王家を
再興してくれる新たな王が現れることを表しているように思える。
しかし、世界は3800年に終わるのだ。
つまり、アングレーム王家の復活はもうあり得ないということを
ノストラダムスは遠回しに表現したのではないだろうか。

ノストラダムスは十六世紀とか二十世紀とか
そういう短い単位ではなく、千年単位で世界を見ていたのだ。
この詩は確かに世界の終わりを表したものではある。
しかしそれはまだ1800年近い未来のことなのだろう。

2024年5月12日日曜日

【イベント】 SL の誕生祭、SL21B は6/21(金)〜7/21(日)開催です!

さて、このところずっと SL から離れていて(裏ではやってましたが)
RL の小澤征爾に関する記事ばかり書いてきましたが、
もう5月になりましたので、そろそろ戻るタイミングですね。
そう、セカンドライフ 21 歳の誕生日、SL21B の開催が
発表になりました!


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セカンドライフの誕生日そのものは 6月23日で、
SL19B まではこの日を中心にした1週間で行われて来ましたが、
20周年となった昨年の SL20B で会期が大幅に拡張され、
今年も 6月21日(金)〜 7月21日(日)までの
何と1ヶ月間に渡って行われることになりました!

テーマは "Elements"。
「要素」とか「元素」とか「成分」とか「基礎」とか
いろんな意味があって、ディズニー・アニメの
「マイ・エレメント」が関係あるのかないのかわかりませんが、
上のリンク先の公式サイトによると次のような説明になっています。

「今年の誕生日のテーマは「要素」になります。 このテーマは、私たちの広大な仮想世界の風景と、その中に暮らす皆さんの多種多様なコミュニティとを形づくっている、基本的な構成要素を探求する旅へと私たちを誘います。 クリエイターやアーティストの燃えるような情熱がそうでしょうし、私たちの社会環境が常に流動的に変化し、適応していることもそうした要素の一つでしょう。また、コミュニティ内に於ける住民の皆さん同士の力強い絆もそうでしょうし、セカンドライフが更に未来に向かって前進することを可能にする、技術革新という新鮮で爽やかな風もまたそうでしょう。今回のこの「要素」というテーマは、私たち一人一人がセカンドライフで築き上げていく経験一つ一つの核となる力を讃えるものなのです。」

う〜ん、「要素」と関わりのないものは何もありませんので、
どんなことでも表現できそうで、却って難しいですね。
僕も、最初は全くイメージが湧きませんでしたが、
そこはやはり一人で考えるものではないですね。
盟友ケルパさんと会話しているうちに自分が何をやればよいか
だんだん見えて来ましたので、お楽しみにしていて下さい。

あ、そうそう!
最後に大事なこと!
私のように Performer(ライブ、DJ)で参加したい人の
応募の締切は 5月31日(金)なのですが、
展示会場、物品販売、ボランティアの応募締切は
今日! 5月12日(日)です!
連絡おせ〜よ、もっと早く言えよ、という声も聞こえて来そうですが、
逆に悩むヒマがなくていいですよね!^^;
ちょっとでも気になった方は、上のリンク先からこのあとすぐ、
申し込んでみて下さい!
(多分 SL 時間を考えると、日本時間の月曜日 16:00 まで大丈夫
 かと思います。。。)
皆さんと共に21歳の誕生日を盛り上げられればと思っていますので
どうぞよろしくお願いします!

2024年5月4日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その10・メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』

前回に続いてメシアンである。
小澤征爾さんがメシアンからその作品の演奏を任されていたことは
前にも書いた通りだが、その最後の大仕事とも言えるのが、
メシアン唯一のオペラで、上演に4時間を要する大作
『アッシジの聖フランチェスコ』の初演だったと考えている。
これはパリ・オペラ座の委嘱で制作されたもので、
その初演は1983年11月28日にオペラ座で、
小澤さんがパリ・オペラ座管を指揮して行われた。
その時の録音がリリースされていて、これはとても貴重なものだ。

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僕にとってこの CD が貴重なのは、この曲については、
前にも書いた武満徹さんとの対談集『音楽』の中で語られていて、
この本が出てすぐ読んだ僕にとっては、
1941年作曲の『世の終わりのための四重奏曲』とも
1949年作曲の『トゥランガリーラ交響曲』とも異なり、
リアルタイムの、現在進行形のメシアンの新作だったからだ。
その、1979年頃に行われた対談のなかにこんな会話がある。

「武満 メシアン先生は目下大作にとりかかっているんだろう?
小澤 二年後にそのオペラを指揮しなきゃいけない。それがなんと楽譜で三千ページあるんだ。この間、ピアノ・スコアを見てきたけれど。今、オーケストレーションしてるらしい。
武満 あの人のは、もう少し短くなるといいけれどね……。『キリストの変容』もちょっと長過ぎるね。あの人は、あそこまでやらないと、どうしても満足できないんだよ。おれなんかは、一生かかっても三千ページは書けっこない(笑)。
小澤 この間もメシアン先生から念を押されて、やることになっている。一九八二年に。
武満 七管編成でしょ。
小澤 七管編成で、オンドマルトノというのが三台。
武満 そんな大編成で、歌って、聞こえるのかな。 
小澤 それが聞こえるんだって。ちゃんと計算できているみたいよ。すごいねェ。」

おお、おお、『トゥランガリーラ』でも使われた大好きな楽器
オンドマルトノが3台も使われるとは!
そして、七管編成なんて聞いたこともないんだけれども。
普通のオケの曲だと三管とか四管ですよ。
この何管というのは、木管楽器のフルートやクラリネットなどの
パートの本数を基準にして呼ばれるけれども、
木管の本数が決まるとそれに応じて金管の本数、弦の台数も決まり、
オケ全体でどのくらいの演奏家が必要になるかが決まるのだが、
実際、編成表を見るとフルートだけで、

・ピッコロ×3
・フルート×3
・アルトフルート×1

となっていて実際7本必要なのだ!
(普通はピッコロやアルトフルートは何人かいるフルートの1人が
 持ち替えで対応するものだが。。。)

そうやって8年をかけて出来上がったのは全3幕8場から成る
上演時間4時間にも及ぶオペラで、それだけに聴き終わった時の
感動はとても言い尽くせぬものがある。

そうそう上演されることのない巨大でレアなオペラなので
ここで簡単にどんな曲か説明をしておくと、
アッシジの聖人フランチェスコ
(日本では伝統的にフランシスコと呼び慣わされている)の生涯を
8つの情景で描くもので、
オペラや楽劇に付き物の序曲や前奏曲といったものはなく、
またアリアらしいものもない。
ただ、ヴァーグナーの楽劇のように登場人物それぞれに
ライトモチーフのような主題があり、
中でもフランチェスコや天使には複数の主題が割り当てられている。

更に、メシアンと言えば鳥の研究と
その鳴き声を音楽で表現することで有名だが、
この作品でも、それぞれの登場人物に特徴的な鳥が割り当てられ、
舞台を見ていなくてもその鳥のさえずりで例えば天使が現れたことが
わかるようになっているという仕掛けである。
これは、聖フランチェスコが鳥に説教をしたという伝説から
当然そのシーンがこのオペラには組み込まれているわけだけれども、
アッシジのあるウンブリア地方によくいる鳥から始まり、
世界中から34種の鳥が選ばれ、その囀りが音で表現される。
34の鳥の中には日本のホオアカ、フクロウ、ウグイス、
そしてホトトギスも選ばれ、登場する。

それぞれの情景の内容は次の通り。

第1景『十字架』
木琴を始めとする鍵盤打楽器によるヒバリの囀りで幕を開ける。
続いて修道士レオーネが『伝道の書』の「道にはおののきがある」
を下敷きに「私は恐ろしい」と歌う。
そこにズグロムシクイ(カピネラ)の囀りに導かれ
フランチェスコが登場、「完全なる歓び」について語る

第2景『賛歌』
フランチェスコと修道士たちが「太陽の讃歌」を歌い、お勤めをする。
最後にフランチェスコは重い皮膚病を患っているものを怖れており
その怖れを克服することを主に誓う。

第3景『重い皮膚病患者への接吻』
フランチェスコは重い皮膚病患者に会い、接吻する。
すると病は癒され、その喜びから踊り出す。
患者はそれまで人生に対して卑屈だったのがよりポジティブに
生きようとする。

第4景『旅する天使』
フランチェスコたちのいる修道院を旅姿の天使が訪れる。
キバラセンニョムシクイ(ジェリゴネ)の囀りが天使の登場を暗示。
天使は修道院にいる修道士たちに「予定説」に関する問いをする。
修道士エリアは問いに答えず天使を追い出し、
再び訪れた天使に修道士ベルナルドは答える。
天使が去ったあと、修道士たちは旅人が実は天使だったことを知る。
(因みに天使は5色の羽根を持っている。
 これはサンマルコ美術館にあるフラ・アンジェリコの
 『受胎告知』の絵にインスピレーションを得ているらしい。
 この絵のリンクはこちら。)

第5景『音楽を奏でる天使』
再び天使が修道院を訪れ、今度はフランチェスコの前に現れる。
天使はヴィオールを奏でるが、このヴィオールは
オンドマルトノの音で表現される。
天使の音楽を聞いているうちにフランチェスコは倒れる。
天使が去ったあと、倒れているフランチェスコを
修道士たちが抱え起こす。

第6景『鳥たちへの説教』
フランチェスコが鳥たちに説教をする。
説教は途中様々な鳥たちの鳴き声で中断される。
そして最後に様々な鳥たちの囀りが一斉に起こる
全曲の中でも最も素晴らしい聴き所となる。

第7景『聖痕』
夜中の山でフランチェスコが祈りを捧げている。
イエス=キリストの受けた苦しみを自分にも分けてほしいと願う。
合唱がイエスの声を表現し、その後5回のクラスターで
イエスの受けた5つの傷がフランチェスコにも表れたことを暗示。

第8景『死と新生』
フランチェスコは「太陽の讃歌」を歌いながら
あらゆるものへの別れを告げる。
フランチェスコが死ぬとヒバリが賑やかに歌い、
最後は感動的な合唱で幕を閉じる。

言葉で書くと難しいようだけれども、
実際に音楽を聴くと、『トゥランガリーラ』でもお馴染みの
メシアン独特のフレーズが登場したり、
鳥たちのざわめきやら、重大なことが起きる時のクラスター音など
音楽的には非常にわかりやすいものになっている。
いや、そのわかりやすさを実現しているのは
やはり何と言ってもメシアンの演奏に精通した小澤さんの棒だろう。

もう随分昔のことなので正確なことは覚えていないのだけれど、
この1983年のパリでの初演の時だったのか、
1986年の日本での部分初演の時のことだったのか、
そのリハーサルの模様が NHK のニュースで報道されたことがある。
その中で、メシアンが小澤さんに注文を付けるのだ、
今のところはそうじゃない、こういう風に演奏してほしい、と。
すると、何と小澤さんは作曲者本人に反論するのだ。
多分、いや、あなたのその意図を実現するには
こういう風に演奏した方がよいのだ、
実際の音にするのは自分の仕事だから自分に任せてほしい、
といったようなことだったように記憶している。

この場面を見て、凄い! と思ったものだ。
小澤さんが楽譜を読み込んで作曲者の意図を理解し、
それを具体的な音にする話は村上春樹さんとの対談に
何度も出て来るけれども、
ある意味作曲者本人ですら想像できていない音が
小澤さんには具体的に聞こえているということではないだろうか。
小澤さんは齋藤秀雄先生から教わったのは、
単に指揮法ではなかった、一番大事なのは、と
「私の履歴書」の中で語っている。

「先生が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ。」

小澤さんが指揮をする時のあの熱い感じは実はここから来ているのだ。
そして、作曲者のメシアン本人にあそこまできっぱりと
物申せるというのは確とした信念があるからだ。
『アッシジの聖フランチェスコ』の録音に聞くのは、
メシアンの音楽への理解と共感、
そして自分自身の信念と情熱の結晶と言えないだろうか。
だからこそ4時間に及ぶ音楽が説得力を持ち、
大きな感動をもたらすことができるのである。

     *   *   *

例によって既に十分長い文章になってしまったけれども、
自分の手許にある小澤さんの CD に纏わる話と
その感想について語るのは一旦これで終わりにする。
終わるに当たって、まだまだ聴いていない、
そして聴いて見たい小澤さんの CD もあることなので、
それについて触れておきたいと思う。
その前にまず、これから小澤さんの演奏を聴いてみたいと
思われる方の為に、日本版「ニューズウィーク」誌の
2024年3月5日号の小澤さんの特集記事にあった
「ニューヨークタイムズ」記者の名盤8選なるものを転載しておく。

・メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』1983年パリ・オペラ座管
 (初演時のライブ録音)
・ベルリオーズ『幻想交響曲』2014年サイトウ・キネン
 (サイトウ・キネン・フェスティバル松本のライブ録音)
・フォーレ『管弦楽作品集』1986年ボストン響
・マーラー『交響曲第1番』1987年ボストン響
・デュテイユー『時間の影』1998年ボストン響
・ストラヴィンスキー『春の祭典』1968年シカゴ響
・チャイコフスキー『白鳥の湖』1978年ボストン響
・リスト『ピアノ協奏曲第1番・第2番/死の舞踏』
 1987年クリスチャン・ツィメルマン (pf), ボストン響

今回書いた『アッシジの聖フランチェスコ』を除いては
僕が持っているものとは全く被っていないね。w
というわけで、僕が気になっているディスクは次のものになる。
上のリストにも影響を受けているけれど、録音の古い順に、

・ストラヴィンスキー『春の祭典』1968年シカゴ響
・チャイコフスキー『ロメオとジュリエット』1973年サンフランシスコ響
・ベートーヴェン『交響曲第9番』1974年ニュー・フィルハーモニア管
・デ・ファリャ『三角帽子』1976年ボストン響
・デュテイユー『時間の影』1998年ボストン響
・ブラームス『交響曲第1番』2010年サイトウ・キネン
 (カーネギーホールでのライブ。村上春樹さんの激賞で。w)
・ラヴェル『子供と魔法』2013年サイトウ・キネン
 (サイトウ・キネン・フェスティバル松本でのライブ)

小澤さんが亡くなってから小澤さんの CD は、
中古でも手に入りにくくなっているけれども
そのうちどこかで見つけたら聴いてみようと思っている次第。

2024年5月3日金曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その9・メシアン『トゥランガリーラ交響曲』

僕がクラシック音楽の曲は吉田秀和さんの『LP 300選』に基づいて
聴いていったことはこれまでにも何度か書いたが、
実際にレコードや CD を買ったのはその本の前の方と後の方から、
つまりバッハ以前の古楽とドビュッシー以降の現代音楽からだ。
何と言ってもそこに出て来る作曲家の名前の殆どを知らないし、
名前は知っていても実際に作品を聴いたことがないものばかり。
特にベートーヴェン以降の、所謂「ロマン派」と呼ばれる曲の数々は
別にレコードなど買わなくても日常生活に溢れているので
もっと新しい響きを求めていたのだ。
そう、現代音楽が新しい響きであるのは勿論だが、
バロックより前の中世の音楽もまた新しい響きであったのだ。

社会人になったばかりの頃、僕は新宿西口の会社で働いていて、
帰りによく当時 NS ビルにあったレコード店に立ち寄っていた。
そこはこうした現代音楽や古楽のレコードが充実していたのだ。
その時買ったものの中に小澤征爾さんがトロント響を指揮した
メシアン『トゥランガリーラ交響曲』と
武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』をカップリングした
2枚組の LP があった。

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この LP を見つけた時は、とてもお買い得な曲の組み合わせと
演奏者であるように思えて——勿論これは吉田さんの本の
レコード表にも載っているレコードなのだが——、
もう興奮のあまり衝動買いしたのを今でもはっきりと覚えている。

2枚組ということは、メシアンの曲が LP で3面、
残りの1面に武満さんの曲が入っているわけだが、
つまりメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』の方は
全10楽章から成り、1時間を越える長大な曲なのだが、
マーラーの曲は長くて苦手と言っている僕も
この曲は大変面白く聴けたのだった。

それは一つには、歌を含まない純粋な器楽曲であることと、
また、トロンボーンとチューバによる重々しい「彫像の主題」、
弦楽器とオンドマルトノによる官能的な「愛の主題」、
そしてピアノを含む打楽器群によるガムランのリズムなどが
繰り返し或いは変形され、或いは組み合わせられて登場するのが
古典的な交響曲の伝統の上に成り立っているからだと思う。

それに、そう、今書いたオンドマルトノの響きが何よりおもしろい。
「愛の主題」以外でも、いろんなところでピューピュー鳴るのだ。w
そして、実際、10もある楽章はそれぞれが特徴あり、個性的で
全く飽きさせないのだ。
第6楽章の「愛の眠りの園」はメシアンお得意の鳥の表現で、
ピアノが静かに夜鳴鶯のチチチという鳴き声を奏で続けるのもいい。

前に触れた『交響曲名曲名盤100』の中で諸井誠さんは
この曲について「豊麗な音洪水」と表現しているが言い得て妙で、
アートで言えば、次から次へと絶えず様々な色や光が
めくるめく空間の中に身を置いて幻惑されるような
そういう体験を音でする感じなのだ。
メシアンは音に色を感じる人なのでそれは当然のことなのだろうが、
色彩的で官能的表現を得意とする小澤さんの棒は
その魅力を十二分に引き出し、現出しており、
だからこそこの大曲を飽きさせずに最後まで聞き通させるのだ。

そういう小澤さんの演奏は、作曲者のメシアンご本人に
とても気に入られたようだ。
このトロント響との録音は1967年だが、それに先立つ1962年、
小澤さんは NHK 交響楽団を率いてこの曲の日本初演を行っている。
恐らくこの時のことだと想像するが、村上春樹さんとの対談の中で
小澤さんは次のように述べている。

「メシアンさんは僕のことを本当に気に入ってくれて、というか惚れ込まれちゃって、自分の音楽が全部君がやってくれとまで言われました。」

そして1978年から1979年にかけて行われた武満徹さんとの対談を
まとめた『音楽』の中で小澤さんは、

「N 響で僕がメシアンの『トゥーランガリラ交響曲』を初演指揮した。それ以来、おかげで、おれは苦労している(笑)。」

と言っているところを見ると、恐らくメシアンは自作の演奏を
折に触れて小澤さんに依頼するのだろうが、
それでは小澤さんに全て委ねるかというとそうではなく、
きっと作曲者本人としてここはこうしてほしい、
そこはそれじゃダメだ、といろいろ注文を付けたのだろう。
実際、『アッシジの聖フランチェスコ』の初演リハーサルの風景を
以前見たことがあるけれども、その時メシアンが小澤さんの演奏に
注文を付けていた。これについて詳しくはまたあとで。

ともかく、そうしてメシアンが信頼していた小澤さんの演奏である。
僕が LP を買った頃はこの小澤さんのものしかレコードはなかったが、
その後、プレヴィンやサロネン、ラトルなど
世界の指揮者が続々と録音してリリースするようになったので、
今となっては「古い演奏」なのかもしれないけれども、
僕には小澤さんのこの1枚聴けば十分なのである。

P.S.
LP 時代にメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』と
武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』とか
カップリングされたのは、ただ単にレコードというものの制約、
『トゥランガリーラ』が3面必要で1面余るので
4面に20分程度の曲を埋める必要があって武満さんの曲の録音を
使ったのではないかと邪推していたが、
今考えると、『トゥランガリーラ』は協奏曲的ではないものの、
オーケストラに独奏ピアノ、独奏オンドマルトノを伴う交響曲
ということになっている。
方や、『ノヴェンバー・ステップス』は、
オーケストラに独奏琵琶と独奏尺八を伴う管弦楽曲であるので、
実は同じタイプの曲だと言える。
『ノヴェンバー・ステップス』の初演が1967年11月のことだから、
寧ろこの曲を RCA に録音するに当たって、
それではメシアンの曲も一緒に、ということになったのかもですね。

2024年4月29日月曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その8・ストラヴィンスキー『火の鳥』

前回シェーンベルクの『グレの歌』について、
小澤征爾さん指揮のものとブーレーズ指揮のものとで
聴き比べのようなことをやったのでそのつづきのような感じで
今回は小澤さんが1972年にパリ管を率いて EMI に録音した
ストラヴィンスキーの『火の鳥』を取り上げる。

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実は僕はこのディスクのことは全く知らなかったのだ。
大体、ストラヴィンスキーはブーレーズかアンセルメで聴いていて、
たまに初演者ピエール・モントゥーの録音を聴いたりするくらいで
それで十分なのだ。
特にブーレーズの『春の祭典』は、あの複雑なリズムの曲を
理解するのにどれだけ役立ったことか。
アンセルメの『ペトルーシュカ』は、弦楽器がこんなにも
色彩豊かな音を出すのだと驚かされたものだ。

それが今年小澤さんが亡くなったあと、
中古屋さんでこのディスクを見かけて、調べてみたら、
何と、『火の鳥』の全曲演奏の録音としては最も初期のもので
——1959年にドラティがロンドン響と、
1961年に作曲者自身がコロンビア響と録音しているのが
最初期の録音らしい——、小澤さんがこれを録れた当時は
この曲の全曲演奏というのは珍しいものだったらしい。

まぁ、本来バレエという舞台があっての音楽で、
例えばチャイコフスキーの三大バレエなどはどれも2時間あるので
踊りのない、演奏会やレコード向けには組曲や抜粋盤で十分、
という見方はあるのだろうが、
ストラヴィンスキーの三大バレエは何れもそう長時間ではないので
今考えると全曲盤がなかったのが不思議なくらいだ。
小澤さん自身、この EMI 録音の3年前の1969年、
まだ着任前のボストン響を率いて組曲を RCA に録音している。
前に触れた門馬直美さんの『管弦楽・協奏曲名曲名盤100』では
全曲盤はブーレーズのものについて触れつつ、
何故か小澤さんのは組曲の方についてしか触れられていない。

今回いろいろ調べて見たら、この『火の鳥』の全曲演奏、
実は日本での初演を行ったのも小澤さんだったようで、
1971年に日本フィルを指揮して行われたらしい。
とすると、小澤さんはいつかはこの曲の全曲演奏を、と考えていて
その流れの中で1972年の EMI 盤の録音につながっていったように
想像されるのである。

さて、そんなこんなで今回手に入れた
その 1972年の EMI 盤の感想だが、やっぱり、何と言っても
ダイナミックで迫力のある演奏、の一言に尽きる。
ブーレーズも、門場さんが「迫力満点」と評されている通り
僕等がストラヴィンスキーの音楽に求めるものがそこにあるのだが、
小澤さんのはもっとデュナーミクの変化が豊かで、
加えてパリ管の響きがそれに明るい色彩感を与えていて素晴らしい。
1973年のレコード・アカデミー賞を受賞したのも当然という感じの
名演と言える。

そして、この小澤さんのディスクが火付け役になったのか、
僕がいつも聴いているブーレーズが CBS に録音するのが1975年、
そのあとコリン・デイヴィスが1978年に、
ドホナーニが1979年にと、世界の指揮者が我も我もと
次々に録音、リリースするのである。
そう、小澤さんも1983年に手兵ボストン響と同じ EMI に、
ブーレーズも1992年にシカゴ響とグラモフォンに再録音している。
そう言えば、僕が大いに影響を受けた冨田勲さんが
『火の鳥』をリリースしたのは1975年でブーレーズより早い。
こちらは組曲ではあるけれども、もしかして小澤さんのディスクに
触発されたのでは? と勝手な想像をしてみたりする。w

小澤さんはストラヴィンスキーとも交流のあった人なので
ストラヴィンスキーの曲の録音にも熱心だったようなのだが、
自分の場合はそこのチェックが全く抜けていた。
実際小澤さんのストラヴィンスキーの世評はよいようで、
1968年にシカゴ響と RCA に録れた『春の祭典』は
日本版「ニューズウィーク」誌でも取り上げられていたし、
村上春樹さんとの対談の中でも出て来るので、
是非そのうち聴いてみたいと思っている。
何と言っても『春の祭典』は、
僕に管弦楽の素晴らしさを教えてくれた教科書のような音楽だし、
それを小澤さんが指揮しているというのだから。

いやぁ、その「ニューズウィーク」誌の特集記事やら
村上さんとの対談を読んでいると、まだ聴いてないもの
聴いてみたいものがどんどん出来るので困ったものだ。w
そうではあるのだけれど、それをやっているとキリがないので、
この「小澤征爾さんを聴く」のシリーズもあと2回、
何れもメシアンの録音について触れて終わることにする。
次回は『トゥランガリーラ交響曲』について書くつもり。

2024年4月28日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その7・シェーンベルク『グレの歌』

小澤征爾さんのことを自分のヒーローだったと書きながら
そんなにたくさん CD を買って持っているわけではないことを
前にも書いた。
基本的には吉田秀和さんの『LP 300選』のレコード表に基づいて
CD を買って聴いていたので、当然小澤さんの演奏の前に
聴いておかなければいけない演奏がたくさんあるからだ。
その中で、シェーンベルクの『グレの歌』については、
「参考盤」とした上で、小澤さんのものが筆頭に、
続いてブーレーズのものの2つが挙がっている。
だからこの曲についてはまず小澤さんの演奏で聴こうと
そう思っていたのだった。

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にも拘わらず縁とは不思議なもので、
シェーンベルクの音楽についてはかつてブーレーズの演奏を
LP で持っていて、その後 CD で買い直す時に全集版で買ったので
期せずして『グレの歌』はブーレーズの演奏を先に聴くことになった。
これは1974年に BBC 響を指揮して録音されたもので、
確か「レコード芸術」の「歴史的名盤」に推薦されていたものだ。
まぁ、曲を聴くだけならそれでもよいのだが、
結局その後欲しかった小澤さんの CD も買うことになる。

何れにしても、『グレの歌』はシェーンベルクの、
まだ十二音技法を取り入れる前の、演奏に2時間もかかる歌曲で、
つまり歌詞があるので、交響曲や管弦楽曲のように
聞き流すわけにはいかないので、シェーンベルクの曲の中でも
聴くのは後回しにしていたのだ。

『グレの歌』についてはクラシックファンでも
マニアックな方でないとあまりご存じではないと思うので
簡単に説明をしておくと、「グレ」というのは最近流行の
「半グレ」とは何の関係もなくて(当たり前か w)
デンマークのコペンハーゲンから北に40キロのところにある、
森に囲まれ、湖に面した場所の名前で、ここにはお城があって、
14世紀の後半、ヴァルデマー4世という王様が治めていたのだが、
その王様に纏わる伝説をデンマークの作家が小説にしていて、
小説に登場する詩をドイツ語に訳したものに
シェーンベルクが作曲、管弦楽の伴奏を付けたのがこの曲だ。

歌に管弦楽の伴奏を付けただけと簡単に考えてはいけない。
その管弦楽は150人から成る大規模なもので、
これに5人の独唱者、3群の男声四部合唱、
更に混声八部合唱が加わるので400人規模の大編成で、
この曲が完成した1911年当時、史上最大の歌曲だったのだ。
そう、大人数を要するコンサートと言うと
マーラーの『交響曲第8番』、通称「千人の交響曲」があるが、
ほぼ同時期に作曲されたこの曲が800人位要するのを考えると
そのとてつもなさが感じられようというものだ。

全体は3部から成っていて、第1部は前奏曲に導かれて
ヴァルデマーが恋人トーヴェと互いへの愛を歌う歌が、
テナーとソプラノで交互に歌われ、ヴァルデマーの5番目の歌の後
管弦楽による間奏が入る。
実はここでトーヴェが嫉妬したヴァルデマーの王妃に
毒殺されたことが暗示されるのだ。
この間奏に続いてメゾ・ソプラノの「山鳩」が
トーヴェが死んだことを悲しむ歌を歌って第1部は終わる。

第2部は、トーヴェの命を奪ったことで神を恨み呪う
ヴァルデマーの歌が歌われ、これは5分くらいで終わる。

第3部は、第2部で神を呪ったことの罰として、
ヴァルデマーと彼に従うゾンビとなった騎士たちが
夜な夜なグレ湖を駆ける百鬼夜行を命ずる。
ヴァルデマー王の歌、男声合唱による百鬼夜行の歌の間に
これに怯える農夫や百鬼夜行に付き合わされる道化による
滑稽な歌が挟まる。
やがて夜が明け、ゾンビたちは墓に戻り
明るく昇って来る太陽を讃える大合唱で感動的に終わる。
小澤さんの CD のジャケットはムンクの「日の出」が使われていて
実にこの感動的なエンディングにぴったりだ。

さて、その小澤さんの演奏。
ブーレーズから5年後の1979年のこの録音は、
全体的にダイナミックで、ヴァーグナーの楽劇を聴いているよう。
実際、この曲は所作を伴わないオペラとも考えられるが、
カラヤンに勧められてオペラにも取り組んで来た
小澤さんならではの劇的な表現と言ったらいいだろうか。
まず、前奏曲はとても美しい。
こういう色彩的な表現は小澤さんの得意とするところ。
続く第1部の歌は全体にヴァルデマーのトーヴェに対する
逸る気持ちを表現しているような切迫感に溢れている。
そして情熱的に盛り上がったオケによる間奏は
やがて淋しげな響きに移り、山鳩の悲愴な歌へと繋がっていく。
第3部のおどろおどろしい感じの百鬼夜行、
滑稽な農夫や道化もそれらしくてよいが、
何と言っても最後の合唱が感動的。
このエンディングにはゾクっとさせられたものだ。

さて、ここでブーレーズ盤との比較をちょっとしっておこう。
というのもブーレーズはシェーンベルクの曲を一通り録音していて
というか、僕はシェーンベルクの曲はブーレーズで聴くことが
多いからだ。

ブーレーズの『グレの歌』は、ニューヨーク・フィルと録れた
『浄夜』などに比べるとずっとしなやかだ。
少なくとも第1部に関しては、である。
小澤さんの演奏の感想でヴァーグナーの楽劇のよう、と書いたが、
そう言えばこの録音のあと、1976年からブーレーズは
バイロイトに出演していて、ヴァーグナーの『指輪』などを
振っていたことを思い出した。
僕がまだ子供の頃だったが、ブーレーズがヴァーグナー?
と不思議に思いながら、当時は FM でバイロイトの録音を
流してくれていたのでそれを聴いていたのを思い出したのだ。

しかし、ここにはイヴォンヌ・ミントンとか
スティーヴ・ライヒとか、ブーレーズのシェーンベルク録音の
常連が参加していることで、シェーンベルクの音の変遷がわかって
実に興味深い。
第1部最後の「山鳩」はイヴォンヌ・ミントンが歌うが、
ここで既に僕には彼女が歌った『月に憑かれたピエロ』を
思い起こさせる。
第3部の新しい管弦楽の使い方もそう。
そして何より驚いたのは、最後の合唱前の「語り手」を
スティーヴ・ライヒが担当するが、
小澤盤ではこの「語り手」はレチタティーヴォのようなものと
軽くそう捉えていたが、
スティーヴ・ライヒは冒頭からはっきりと
シュプリッヒゲザンクで歌うので、
後のシェーンベルクの音楽の特徴をはっきりと示していて
この音楽の終わりがシェーンベルクの新しい音楽の始まりを
予告するものとなり、それが日の出と重なっていくという
実にシェーンベルクの音の変遷、歴史をそのまま辿るような
演奏になっているのである。

実際、この曲は1900年から1911年まで10年に渡って書かれていて、
その間には交響詩『ペレアスとメリザンド』があり、
『5つの管弦楽曲』があり、『架空庭園の書』があり、
そしてこのあと『月に憑かれたピエロ』が来るのである。
ブーレーズの演奏はそのことを、小澤さんよりは淡々とした表現で
示してくれているように思う。

2024年4月27日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その6・マーラー『交響曲第1番』

今日は小澤さんがボストン響を指揮した
マーラーの『交響曲第1番』について書いてみようと思う。
これは自分にとっては何とも衝撃的な演奏だったのだ。

マーラーの交響曲も小澤さんが得意とするレパートリーの一つだ。
日経新聞に連載された「私の履歴書」では、
ミュンシュに指揮を教えてもらうために
タングルウッドの音楽祭に参加した時に、
宿舎で同室のホセ・セレブリエールがマーラーのスコアを勉強してて
そこで初めてマーラーのスコアを見たと書いている。
村上春樹さんとの対談集『小澤征爾さんと、音楽について話をする』
の中でそのことについて、小澤さんは次のように語っている。

「それはもう、すごいショックだったですよ。そういう音楽が存在したことすら、自分がそれまで知らなかったということが、まずショックだった。ぼくらがタングルウッドでチャイコフスキーとかドビュッシーとか、そういう音楽をやってるあいだに、こんなに必死になってマーラーを勉強しているやつがいたんだと思うと、真っ青になって、あわててスコアを取り寄せないわけにはいかなかった。だからそのあと、僕も一番、二番、五番あたりを死に物ぐるいで読み込みましたよ」

このタングルウッドの音楽祭に参加したのが1960年7月のこと。
そして小澤さんは1961年の4月にバーンスタインに招かれて
ニューヨークフィルの副指揮者に着任する。
ちょうどバーンスタインがマーラーにのめり込んでいた時期で、
きっとバーンスタインは機会を捉えては小澤さんに
マーラーの魅力を熱く語ったのだろうと僕は想像する。

1960年というのはマーラーの生誕100年に当たる年で
バーンスタインは2月7日に CBS で放送された
Young People's Concert で "Who is Gustav Mahler" 
(グスタフ・マーラーの魅力)のタイトルでマーラーを取り上げ、
生誕100年を祝って、ニューヨーク・フィルでは毎週のように
マーラーの音楽を演奏していることを告げ、若い皆さんにも
この誕生パーティーに参加してほしいからと、
『交響曲第4番』と『大地の歌』の一部を演奏するのだ。
番組の録画が YouTube に上がってこれを見ると
バーンスタインがマーラーの音楽を紹介する様は
とても嬉しそう、幸せそうに見える。

バーンスタインは CBS へのマーラーの交響曲全集録音で有名だが、
正にその第一弾が『交響曲第4番』で、クレジットを見ると
1960年2月1日とあるから、正に CBS の番組放送の直前だ。
ソプラノも番組と同じリーリ・グリストが担当している。
そして第二弾が『交響曲第3番』で、これは1961年4月3日の録音、
ということは、正に小澤さんの副指揮者就任直後で、
実際その録音の現場にいてバーンスタインがマーラーを指揮するのを
目の当たりにしていたに違いない。

後に、1965年に小澤さんがトロントに行く時に
バーンスタインはニューヨークにいるべきだ、と大反対したらしい。
先の「私の履歴書」によると、

「僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。」

とあるから、もしかしてマーラーを全曲演る条件で
バーンスタインがそれなら、と OK したのではないかと思うと
フッと笑えてくる。
その位、小澤さんとバーンスタインとマーラーとは
結びついているのではないかと。w

余談だが、先の村上春樹さんとの対談集では、
小澤さんと同時期に副指揮者を務めていた2人の話が出て来るが、
その2人の副指揮者と共に小澤さんが
Young People's Concert に登場するのが 1962年4月14日の放送。
この時の映像で若き日の小澤さんの指揮振りを見ることができる。
全体にほっそりとした印象を受けるけれども、
その指揮振りはとても力強く、後の小澤さんの情熱的な指揮振りを
予感させるものになっている。

例によって前置きが長くなった。
その小澤さんがボストン響を振って1977年に録れた
マーラーの『交響曲第1番』である。

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このディスクを僕は最初知らなかった。
というか、以前長々と書いた通り、僕はマーラーの音楽は苦手で
ずっと敬遠していたのだが、アニメの『銀河英雄伝説』で
マーラーの交響曲が使われているのを聞いて、
なるほどマーラーの交響曲というのは実は楽劇ないし劇伴であった
との独自かつ勝手な解釈、納得の下に
マーラーの交響曲を聴き始めたのだった。
その時、『交響曲第1番』に関してはもう定盤中の定盤、
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア響の演奏で聴いていた。

が、ある時手に取った『交響曲名曲名盤100』で
諸井誠さんがこの曲についてワルターのディスクについて触れた後、
こう書いていたのだ。

「ところで、これを聴く時に、小沢/ボストン so の場外ホーマ的大快演をぜひ一聴してほしい。録音も抜群。 小沢特有の澄明な抒情性を見事に抱えている。正にこれは青春の響きだ。オケ全員が心から小沢を大切にして弾いているのがビンビンわかるのも嬉しい。」

何ですと?
諸井さんはワルターがこの曲を「マーラーのウェルテルといいたい」
と評したことに触れつつ、青春を表現したものと解しておられるが、
その青春の響きが感じられるのが小澤さんの演奏だと言うのだ。

これを読んで僕は早速この小澤さんのディスクを手に入れた。
確かに、うん、素晴らしい。とても美しい響きで、
瑞々しい、という言葉はこういう音を表すためのものかと思える。
ワルターのは、何と言うか、「かくあるべし」というような
ある種の重みが感じられるのだが、
小澤さんの演奏で聴くと、そこに明るく軽い「舞い」が感じられ、
その響きは後年の『大地の歌』の第3楽章「青春について」を
思わせるのだ。
そう、『大地の歌』の萌芽が既に『第1』にあることを
小澤さんの演奏は気づかせてくれる。
始まりと終わり。それは正にニーチェ的な「永劫回帰」であり、
『大地の歌』の最後の歌詞、"Ewig(永遠)" に通ずる。

あと、小澤さんのこの演奏には、最終的にマーラーが削除した
「花の章」がちゃんと演奏されていることも嬉しい。
結果、ワルターの演奏とは全く異なる印象の曲に仕上がっていて、
実際、僕は小澤さんの演奏を聴いたあとで
もう一度ワルターの演奏を聴き直したくらいだ。

小澤さんは別に奇をてらっているわけではない。
寧ろ楽譜を丁寧に読んだらこうなった、というだけのことだろう。
ワルターはマーラーの弟子であって、マーラーの音楽についても
そして指揮法についても先生から教わった音楽を
僕等に届けてくれているのだと思う。
だからこそそこには「かくあるべし」的なものがあるのだが、
それとは異なる、楽譜そのものに込められた響きを
純粋に具体的な音にすることでそれとは異なる
新たな、新鮮な響きが生まれたというのはとても素晴らしいことだ。
この小澤さんの『第1番』に接して僕は、
もっとマーラーのいろんな演奏を聴いてみたいと感じた次第なのだ。

2024年4月21日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その5・レスピーギの管弦楽曲

前回は小澤さんがボストン響を指揮した
ベルリオーズの『幻想交響曲』について書いたけれども、
小澤さんはこの曲に限らずベルリオーズの作品では定評がある。
小澤さんの師匠でもあるミュンシュも当然、
ベルリオーズの作品の演奏では定評がある。
しかし残念ながら僕はこれらの作品にも演奏にも触れていない。
『ファウストの劫罰』とか『キリストの幼時』とか、
タイトルからして内容的にも管弦楽も凄そうな響きがあるし、
きっとそこには『幻想交響曲』に通ずる狂気にも似た
彼独特の管弦楽の響きがあるのだろうが、
他にも聴きたい曲、聴かなければならない曲はたくさんあるので
これらの曲は後回しにしている。
吉田秀和さんの300曲を聴くだけでもそれなりの時間とお金が
かかるのだから。。。

それにしても、ベルリオーズに限らず、小澤さんは
フランスもの、ドビュッシーやラベルなども定評がある。
小澤さんがボストン響から引き出す色彩的な表現が
こうした作曲家の作品と相性がいいからだろう。
そう言えば、吉田さんのリストに小澤さんの指揮ボストン響演奏の
デ・ファリャ『三角帽子』が挙がっているのが興味深い。
デ・ファリャと言えばもうアンセルメ指揮スイス・ロマンドの
定番があるので僕もそちらを聴いて満足していたが、
この度小澤さんが亡くなったのを機に吉田さんのリストを見直して
「しまった!」と思ったものである。
早速中古屋さんを回ったりしたがなかなか出ていない。
そのうち手に入ったら聴いてみたいものだ。

そして、この色彩的表現豊かな作品の流れにあるのが
レスピーギの作品で、小澤さんはこのレスピーギでも評価が高い。
ただ、僕がレスピーギを聴くようになったのは、ここ数年のこと。
それも吉田さんの『LP 300選』の記述が影響している。
レスピーギについて吉田さんは、

「例の『ローマの松』『ローマの泉』『ローマの祭日』三部作の作曲家 は、いわばイタリアのリムスキーみたいなものである。私は、今さらききたいとは、全然思わない。レスピーギでは、むしろ、この頃日本でもよくやられる『古代舞曲とアリア』などのほうが、清潔で、私は好きだ。これは近来演奏会でもさかんにとりあげられ、名盤も多いから、ここに入れておこうか。三〇〇選のほかの曲に比べてややおちるけれど、いわばイタリア・バロックの近代版として。」

その通り。レスピーギはリムスキー=コルサコフに
管弦楽法を師事しているので、その道では大家と言えるのだろう。
そのリムスキー=コルサコフとレスピーギについて
リヒャルト・シュトラウスのところで吉田さんはこう書いている。

「彼の交響詩から、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』という管弦楽のためのロンドは、ぬくわけにいかない。これは、ヨーロッパ三百年にわたって、星の数ほどかかれた近代管弦楽用の曲の中でも屈指の名作である。これにくらべれば、リムスキー=コルサコフだとかレスピーギだとか、その他もろもろの名家たちの同じジャンルの曲といえども、数等下だといっても過言ではなかろう。」

『ティル』は、例の『ツァラトゥストラかく語りき』とかに比べ
より小規模でより「かわいい」感じの曲であるけれども、
リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』も
レスピーギの「ローマ三部作」も、これには適わないということか。

そんなこんなで僕はレスピーギも後回しにしていたのだけれど、
『ローマの松』は管弦楽法の学習にいいということを聴いて
楽譜を買ったのは勿論、小澤さんの CD が、
「ローマ三部作」と『リュートのための古代舞曲とアリア』の
2枚をセットにして、しかも比較的安価で出ていたので
買って聴いてみた次第。

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これは門馬直美さんの『管弦楽・協奏曲名曲名盤100』で
お勧めされていたのを見ての購入。
曰く、「ローマ三部作」については、

「三部作を収めたレコードで、傑作とされていたのはトスカニーニ盤。よく歌っているし、歯切れがよく迫力がある。ただしこれはモノーラル。ステレオでは小沢のが新鮮な魅力をたたえ、量感も十分にある。」

続く『リュートのための古代舞曲とアリア』については、

「三つの組曲を収めたレコードでは、小沢かマリナーのものということになろう。どちらかというと、レスピーギに熱意をもっている小沢のほうが表現に積極性がある。」

と、このレスピーギの代表的な作品、何れも小澤さん推しだ。

そこでまず吉田さん推しの『古代舞曲とアリア』から
聴いてみたのだが、小澤さんの演奏はともかく、
やはり作品としてはイマイチだと感じた。
僕はこの曲、リュート協奏曲だと勘違いしていたのだが、
そうではなく、16〜17世紀のリュート作品を管弦楽にした、
という作品なのだ。
「古代」という日本語の訳語もイタリア語では、
「古い」という程度の意味しか持たない。
つまり、イタリア的にはバロックの初期か
それ以前の音楽なので「古い」と言っているわけだ。

しかし、そうであればじゃあヴィヴァルディやコレッリなどの
バロック音楽的な響きかというとそうではなく、
特に第1組曲や第2組曲については、そこに近代の管弦楽法を
適用しようとしているので何となく中途半端な印象を受ける。
寧ろ弦だけの第3組曲の方が、往時の合奏協奏曲を思い出させ
しっくり来るように思う。
吉田さんが「清潔で、好きだ」と表現したのはこの辺りかと感じ、
「イタリア・バロックの近代版」と評されたのも納得できる。
そういう意味では古楽を現代に蘇らせたものを
マリナーやイ・ムジチといった古楽が得意な演奏家より、
シンフォニーの響きを得意とする小澤さんの方が
実は適任なのかもしれない。
実際、この第3組曲での弦の響きはさわやかである。

さて、『ローマの松』。
吉田さんはこの曲を買っていないようだけれども、
第3楽章の「ジャニーコロの松」の管弦楽は美しく、素晴らしい。
静かに歌うクラリネットを、殆ど聞こえなくなるくらい
そうっと裏から支える弦とその絡み方の繊細なこと!
これに僕の好きな楽器であるピアノやチェレスタやハープが絡み、
心の底から癒される、美しい空間、美しいひととき。
こうした響きは勿論ドビュッシーの影響が感じられるわけだが、
そのドビュッシーを越えた美しさがここにはある。
この楽器と楽器との間で交わされる美しく繊細な会話は
はっきり言って小澤さんの方がトスカニーニより数段上と言える。

ところでこの第3楽章のスコアの最後のページに
"Grf." と書かれた不思議な楽器が登場する。
これは、"Grammofono", つまりレコードのことで、
グラモフォンから出ているレコード No. R.6105
「ナイチンゲールのさえずり」をかけるように、という指示なのだ。
そう、鳥のさえずりを楽器で表現するのでなく、
録音された本物の鳥の鳴き声を使うというもので、
これはサンプリング・ミュージックの走りと言える。
『ローマの松』は1924年の作品で、レスピーギはこのあと、
1927年に『鳥』という作品を発表しているけれども、
これは例の、ラモーのクラヴサン曲「めんどり」など
やはり古い時代の作品を管弦楽に仕立てたもので
あまり面白いものではなく、レコードを使う方がよほど斬新だ。
同じ鳥の声を音楽に取り入れるのなら、寧ろメシアンが面白い。
メシアンについてはまた後で別に書く予定なのでその時に。

「ジャニーコロの松」の他には、第2楽章「カタコンベの松」の
253章節目、"Ancora più mosso" と書かれた16分音符で刻まれる
グレゴリオ聖歌の合唱が荘厳に響き渡るようなところや、
第4楽章「アッピア街道の松」の、ティンパニと低弦が
ダンダン、ダンダンと4つで刻みながらだんだん盛り上がって来る、
この辺りの管弦楽の使い方は映画音楽でもよく耳にする感じで
そういう意味で大変勉強になる。
後者については、アッピア街道を軍隊が行進するのが
だんだんと近づいて来る、その感じを表しているらしいが、
近づいて来る過程でいろんな楽器が絡んで来る。
ラヴェルの『ボレロ』に似た趣向と言えるが、
やはりその楽器間のやりとりがはっきり聞こえて来るのは
小澤さんの演奏の方が素晴らしい。
トスカニーニの方はやはり録音技術の問題もあるのだろう。
迫力はあるけれども、低音の細かい絡みは団子になって聞こえない。

そう。こういう聴き方をするのは僕自身が作曲家だからかと思う。
作曲家がスコアのその場所にその楽器を入れたということは
たとえそれが pp であっても、他の楽器と同じ音程であっても、
その楽器がないと得られない響きがあるからだ。
僕はそういう個々の楽器の動きがはっきりと聴き取れる演奏を
「(楽譜が)見える演奏」と呼んでいる。
少なくともこれらのレスピーギ作品における小澤さんの演奏は、
管弦楽の大家であるこの人のスコアがよく見える
とても勉強になる演奏だと言えるのである。

2024年4月14日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その4・ベルリオーズ『幻想交響曲』

僕が吉田秀和さんの『LP 300選』の曲を
そこに掲載されたレコード表を元に
レコードを買って聴いていたことは前回書いたけれども、
今回その表を見直して今更のように驚いたのが、
ベルリオーズの『幻想交響曲』については、
ミュンシュ指揮ボストン響が最初に、
そして次に小澤征爾指揮ボストン響が2番目に、
その2枚だけ選ばれていることだ。

『幻想交響曲』と言えば、同じミュンシュが1968年に
パリ管と録れたものが一般的な評価が高い。
吉田さんが挙げている1962年にボストン響と録れたものも
結構人気はあって、全体にバランスが取れているのがパリ管、
サウンド面で迫力があるのがボストン響のバージョンだというのが
これまた一般的な評価である。
ここで吉田さんはそのボストン響のバージョンを選びつつ、
次選として選んだのが同じボストン響の小澤さんの盤というのが
今となっては実に興味深い。
これってある意味師弟対決ではないですか!w

かく言う僕が高校生だか大学生の時に初めて買ったのは、
吉田さんの選に基づいてミュンシュ/ボストン響のもの。
確かに迫力のある演奏だったのは覚えているが、
その LP にはラヴェルの『ボレロ』も収録されていて、
『ボレロ』は吉田さんの300曲には入っていなかったこともあり、
自分としては得した気分になっていたものだ。
この曲は、当時クロード・ルルーシュ監督の映画
『愛と哀しみのボレロ』が公開されて初めてその存在を知り、
カッコイイ曲だ! と思い、レコードが欲しかったのだ。
そう、ミュンシュのこの『ボレロ』も迫力があったように思う。

その後 CD ではパリ管のものを買ったりしていたが、
今回小澤さんの演奏と聴き比べるために
今一度ミュンシュのボストン響版も手に入れた次第。
残念なことに、今手に入る CD は『幻想』しか入ってなくて、
LP には入っていた『ボレロ』も1962年のボストン響で
聴いてみたいと思っている。
というのも、僕が持っている小澤征爾/ボストン響の CD には
何と『ボレロ』が一緒に収録されているからだ。
『ボレロ』でも師弟対決をしてみたいではないか!

さてそこで、新たに買い直したミュンシュ/ボストン響の
『幻想交響曲』、久しぶりに聴いてみて
改めてその迫力に圧倒された。
第4楽章「断頭台への行進」と第5楽章「サバトの夜の夢」が
派手な管弦楽でこの曲のクライマックスであるが、
まぁ、素人耳にもすぐわかる急激なアッチェレランド、
殆どソロのように目立って響く、迫力あるティンパニ、
この曲も持っている「狂気」を見事に表現してて素晴らしい。
そう、この曲にはチーンとした楽譜通りの演奏など相応しくない。
何と言っても "Symphonie fantastique" なのだから。

因みにこの英語で言う "fantastic" とか "fantasy" という言葉だが、
日本語で「ファンタスティック」とか「幻想的」と言うと、
美しくて幸せな夢物語のようなイメージがあるけれども、
この "fan-" という語根は元々ギリシャ語で「現れ」を意味し、
妖怪や幽霊を表す "phantom" と同じ意味合いの言葉なのだ。
現実には存在しない筈のものが見えることから、
「想像の産物」を意味するようになり、
これが芸術の分野では、フーガなどの形式がかっちりしたものとの
対比として、音楽家が自由に、その時々のインスピレーションで
即興的に演奏する音楽も "fantasy" と呼ばれるようになる。
J・S・バッハの曲に「半音階的幻想曲とフーガ」とか
「ファンタジーとフーガ(大フーガ)」とかあるのは、
何れも前半で即興的な演奏を繰り広げられるのが、
後半のフーガの部分と対比を成す構成となっている。
例の、「月光」の名前で親しまれるベートーヴェンの
「ピアノソナタ第14番嬰ハ短調」も、
元のタイトルは "Sonata quasi una Fantasia" で、
これは「幻想曲風ソナタ」というものだ。
そう言えばあの月光をイメージさせるという第1楽章の
同じ音型がずっと続く感じは、バッハのファンタジーや
前奏曲を想起させるとは思いませんか?

話が逸れた。
そんなわけで、僕としてはこの『幻想交響曲』に関しては、
最後の「サバトの夜の夢」でどれだけ狂うかが楽しみなのだ。

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指揮者ではなく、ボストン響の側から見るとこの曲は、
1954年にミュンシュと、1962年に再びミュンシュと、
そして1973年に小澤征爾さんと、というように
ほぼ10年の間隔で録音していることになる。
つまり長年ミュンシュの下にいたオケとしては、
この曲は勝手をよく知っている曲と言えるのではないだろうか。
だから、吉田さんの選んだ1962年のミュンシュ盤と
1973年の小澤盤との聞き比べは大変興味深いと言える。

小澤さんの CD を聴いて、まず第1楽章「夢、情熱」が始まり、
最初に感じたのは弦の美しさだ。
これが小澤さんの棒の成せる業なのか、とても繊細な響きで
見事にコントロールされているように感じられる。
それがはっきりするのは何と言っても第3楽章「舞踏会」で、
この楽章ではつまりワルツが展開されるのだが、
ここでミュンシュ盤では弦はより太く迫力ある演奏だが、
小澤さんの盤では優雅に典雅にしなやかな演奏になっている。
これを聴くとなるほど後に小澤さんがウィーンに呼ばれたのも
宜なるかな、と思う次第である。

さて、問題の第4、第5楽章。
これはもう、狂い方としたらやはりミュンシュの方が上なのだが、
小澤さんも流石にミュンシュのような、
露骨なテンポの上げ方はしないけれども、
逆に安定しているように見えてじわじわと盛り立てて来る
その感じはある意味理想的とも言える。
事実、今回 CD の演奏時間を見比べて驚いたのだが、
第4楽章も第5楽章も、小澤さんの方が短い、つまり速いのだ。
これは魔法としか言いようがない。
変な言い方かもしれないが、同じミュンシュでも
パリ管のバージョンの方がこの三者の中では演奏時間が最も長い。
そして最も安定した演奏を聴かせてくれると言える。
小澤さんの演奏は2つのミュンシュの演奏の間にある
安定した演奏と狂ったような迫力ある演奏の
中間を行きながら、しかも演奏時間が最も短いという
実に不思議な魔法を見せてくれているのである。

先に、小澤さんの指揮になる弦の響きが
ミュンシュの時のものとは異なることについて書いたが、
反対に第5楽章で、あのソロを奏でるようなティンパニの響きは、
小澤さんの指揮の下でも健在だ。
それから、同じ第5楽章で鳴り響く鐘の音も、
ミュンシュ時代と同じ音色で素晴らしい。
実は僕は、ミュンシュ/パリ管のバージョンでは、
鐘の響きがどこか詰まったような感じがしてあまり好きでないのだ。
ボストン響では、ミュンシュの時も、小澤さんの時も
明るく澄み渡った響きなのが僕の好みに合っている。
つまり、小澤さんは、ボストン響にミュンシュが遺したものを
うまく生かしつつも、彼なりの新しい響きを引き出すことに
成功しているように僕には思える。

ただ、個人的な趣味の問題として1つ残念なのは、あれかな、
第5楽章の最後の方で、弦楽器に「コル・レーニョ」の指定が
されているところがある。
これは弦を弾く時に、弓の、馬の毛が張られている部分ではなく、
それを支える木の方、つまり竿の方を弦に当てて弾くもので、
当然のことながら、あの弦の豊かな艶のある響きではなくて
カサカサした、音量もあまりないノイズのような響きになるもので、
魔物やら妖怪やらが跋扈するこの第5楽章でベルリオーズは、
ガイコツがカラカラと音を立てながら踊る様子を
この奏法で表そうとしたらしい。
このガイコツがワチャワチャ踊ってる感が溢れるのは
やはりミュンシュの1962年のボストン響のバージョンだ。
小澤さんの指揮のバージョンではこのカサカサした音が
3枚の CD の中では一番大人しいと言える。

まぁ、小澤さんの場合は、ベルリオーズがおどろおどろしい感じを
出すために要所要所に仕掛けたギミック1つ1つに拘るより、
音楽全体の効果を考えて演出したんだろうな、と今は思えますね。
だから安定感ありながらも迫力のある演奏で、
演奏時間も短くなっているわけで。
このように考えて来ると、何故吉田さんが、
敢えてミュンシュと小澤さんのこの2枚を選んだのか、
今となってては納得が行くように思える。

2024年4月7日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その3・武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』

小澤征爾さんは自分のヒーローだったと言いながら、
実のところ小澤さんのレコードや CD をそう大して買ったり
持ったりしているわけではない。
誰でも経験があることだろうとは思うけれども、
高校生や大学生の頃はレコードや CD はそれなりに値が張るもので
どれから先に手に入れるかというのは悩ましいものだったのだ。

そこで高校生の頃から読んで参考にしていたのが
吉田秀和さんの『LP 300選』である。
これはとんでもない本で、選ばれた300曲のうちの第1曲は
レコードにも CD にもなり得ない「宇宙の音楽」なのだ。w
しかし、そこから始めてあるだけあって、
グレゴリオ聖歌に始まる、所謂バッハ以前の音楽を聴く楽しみを、
いやそもそもその存在を教えてくれたのはこの本なのだ。

同時に、どういう音楽が優れたものなのか、
僕の音楽的な感覚を鍛えてくれたのもこの本で、
世間では「名曲」として盛んに耳にする曲たちを
吉田さんは採らないだけでなく、その切って捨てる感じの表現に
高校生の頃は参るやら笑ってしまうやらであった。
そのいくつかをご参考までにここに書き抜いておこう。

まず、ヴィヴァルディと『四季』について。

「日本では――日本ばかりでないかもしれない――もちろん、春夏秋冬の四曲からなる合奏協奏曲『四季』が、ひどく有名だ。日本盤のLPも数種あって、それぞれ、そう悪くないのは、周知の通りである。しかも、この『四季』は、また、作品八のヴァイオリンとオーケストラのための『和声法とインヴェンションの試み』中の一部でしかない。しかし、私はこの曲を好まない。何を好んで特に幼稚な標題楽的手法のために、音楽の本当の醍醐味(だいごみ)が稀薄になり、進行が乱されて いるような曲の流行の片棒をかつぐ必要があろう? 」

幼稚な標題音楽的手法。www
続いて僕の大好きなドヴォルザークの『交響曲第九番』。

「交響曲、ことに九番の『新世界より』は、通俗名曲の十八番の一つになっている。けれど、私は、ことに、この交響曲などとりたくない。なんといっても、安っぽい効果をねらいすぎている。」

安っぽい効果を狙い過ぎた通俗名曲。www
続いては、ロシアの「無敵の五人組」について、
ムソルグスキーの音楽性を讃えたあとで、
リムスキー=コルサコフについて触れる。

「器楽も『スペイン奇想曲』とか『シェエラザード』とか、どれもみな、色彩にとみ、愉快な曲だが、それ以上どういうこともない。こういうものは、ドヴォルジャークの『新世界』やなんかと同じように、西洋音楽をはじめてきく人には、よい入門だと思う。ちょうど、一昔前の『ウィリアム・テル』や『森のかじゃ』みたいに。しかし、ここにいつまでも足ぶみしているのは、どうかといえば、少し、きつすぎるかもしれないが、私はなにしろたいして買ってない。《五人組》はボロディンとムソルグスキーがいれば、私には十分なのだ。そのリムスキー=コルサコフがムソルグスキーのスコアに手を入れたりする。」

先のドヴォルザークの『第九』と合わせてあくまで入門用として、
しかも『ウィリアムテル序曲』や『森のかじや』と
同じレベルに置かれているのには参る。w
ムソルグスキー好きの私はこの最後の一文に、
つまりリムスキー=コルサコフがムソルグスキーのスコアを
変えてしまったことに憤りを覚えて、
ますます彼の曲を聴く気が失せて、ムソルグスキーのオリジナルが
どこかの学者の手で再現されていないか調べたりした位だ。
僕が『シェエラザード』を真面目に聴くようになったのは、
管弦楽法を勉強し始めたここ2、3年のことだ。

最後にサン=サーンス。w

「私は、この人の器楽は、もうやりきれない気がする。一体、これは本当の芸術家の仕事なのだろうか。彼の旋律――有名な『交響曲第三番』『ヴァイオリン協奏曲第三番』 『ピアノ協奏曲』第二、四、五番などの主題をきいてみたまえ。なんという安っぽさ、俗っぽさだろう! そのうえ、あとに出てくる発展は、もう常套(じょうとう)手段ばかり。ただ、気持よく響く音が器用にならべられてあるというだけの音楽は、ほかの芸術なら、本当の音楽とは別に、大衆的な何かというふうに、わけておかれ、画だったら、お菓子屋か百貨店の包み紙かチョコレートの箱、または少年少女雑誌の巻頭に印刷され、やがてそれがはがされて、女子学生の寄宿舎の壁にはられる――つまり、応用ないし娯楽美術に分類されるのだろう。」

ヒドイ。www

しかし、本当にこの本は僕の音楽感覚を鍛えるのに役立ったし、
今でも、あれ? この曲について吉田さんはどう書いていただろう?
と時折見返すことがある。
さて、更に新潮文庫版のこの本には「レコード表」が付いていて、
吉田さんがよいと感じる、謂わば推薦盤のリストがあって、
レコードや CD を買う際に大変参考にさせてもらった。
これもご参考までに書き抜いておくと、
その中で小澤征爾さんの演奏が選ばれているのは次の6曲だ。
(曲名の先頭の番号は300曲中の番号)

180 ベルリオーズ『幻想交響曲』
ミュンシュ指揮ボストンso. R-RX2353
小澤征爾指揮ボストン so. P-MG2409
ブレーズ指揮ロンドン so. CS-23AC593

250 参考盤 デ・ファリャ『三角帽子』
小澤征爾指揮ボストン so. ベルガンサ P-MG1079

269 オネゲル『火刑台上のジャンヌ・ダルク』
小澤征爾指揮ロンドン so., 合唱団, ゾリーナ, クリューンズほか CS-SOCO123〜4
ボド指揮チェコ po., 合唱団, ボルジョーほか C-OQ7389〜90

277 参考盤 シェーンベルク『グレの歌』
小澤征爾指揮ボストン so. Ph-25PC37〜8
ブレーズ指揮BBC so. CS-SOCO112〜3

288 メシアン『トゥランガリラ』
小澤征爾指揮トロント so., イヴォンヌ・ロリオ (p), ジャンヌ・ロリオ (オンド・マルトゥノ) R-SX2014〜5

297〜300 全て廃盤になったその代わりとして
武満徹『カトレーン』『鳥は星の庭に降りる』
小澤征爾指揮ボストン so. P-MG1272

お気づきだろうか?
ベルリオーズの『幻想交響曲』以外は、
何れも小澤さんの演奏が1番目に挙がっているのだ。
特に現代的な曲での小澤さんに対する吉田さんの評価が
高かったことがわかるというものである。

メチャメチャ長い前置きになったけれども、
吉田さんがこの最後の 297〜300 として挙げた曲のレコードが
何れも廃盤になったことに関して注記して、

「現在の作曲家を論じて武満徹をぬかすことはとても出来ない。」

と書かれている、その一文こそ、僕と武満徹さんの音楽の
出会いとなったものなのである。
この一文がきっかけとなって武満徹さんのレコードを
買うことになるのだが、その1枚が小澤さんの指揮、
トロント交響楽団の演奏になるこのディスク、
そしてもう1枚が当時ビクターが出していた
日本の現代音楽のシリーズの1枚であった。

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もう随分昔のことなので正確な順番は覚えていないが、
多分、タイトル曲の『ノヴェンバー・ステップス』は、
どちらかというとメシアンの2枚組『トゥランガリーラ交響曲』の
最終面に入っていて先に聴いていたように思う。
そのあと、武満徹さんが小澤征爾さんとの対談集『音楽』で、
ストラヴィンスキーが『弦楽のためのレクイエム』を評価してくれ、
それが彼が世に出るきっかけとなったということを読んで、
『弦楽のためのレクイエム』とはどんな曲だろう? と、
確か若杉弘さん指揮、読売日本響の演奏になる
ビクター盤を買って聴いたのだと思う。
でもどこかピンと来ていなくて、
その後小澤さんのこのディスクを見つけて聴き直したように思う。

いや実際、ここでの小澤さんの演奏はやはり熱い。
『弦楽のためのレクイエム』に関して言えば、
淡々と響く若杉さんの演奏よりも、
小澤さんの演奏はとても説得力を持って僕の心に迫って来るのだ。
深い深い闇を表現したような音楽、
その闇の恐ろしさのようなものが迫って来るのである。

恐ろしいと言えば、高橋悠治さんがピアノ・ソロを執る
『アステリズム』も素晴らしい。
これは初演メンバーによるものだが、後半8:40くらいから
約2分近くかけてのクレシェンドの迫力、恐ろしさと言ったらない。
ビートルズの "A Day in the Life" でも
ノイジーなオーケストラのクレシェンドがあるが
あれはせいぜい30秒程度のものだ。
武満さんの曲の、小澤さんによるこの2分間の盛り上げ方は凄い。

同じく初演者、琵琶の鶴田錦史さん、尺八の横山勝也さん、
そして小澤さんの指揮による『ノヴェンバー・ステップス』は
オケが初演と異なることを差し引いてもやはり説得力がある。
が、僕はこのディスクに『地平線のドーリア』が入っていることに
最初は気づかなかった。

『地平線のドーリア』の初演者はビクター盤の若杉さんで、
これを最初聴いた時僕はとても驚いたのだけれども、
弦楽器だけで演奏されているにも拘わらず管楽器の響きがするのだ。
それも笙だったり篳篥だったり、そう、雅楽の響きがするのだ。
更には弦のピチカートから羯鼓の音まで聞こえて来たりする。
弦楽器だけでこんなことが出来るのか、と驚いものである。

が、残念ながら小澤さんの演奏からはその響きは聞こえてこない。
或いはこれは小澤さんの指揮というよりも、
オーケストラがその響きを理解できなかったせいかもしれない。
篳篥や笙の響きを西洋人は "awful"、
即ち「恐ろしい」と感じるということをどこかで読んだことがある。
トロントのオーケストラよりは日本のオーケストラ団員の方が
雅楽の響きに慣れていたからではないかと勝手に想像するのである。

しかし、それはあくまでも若杉さんの演奏を知っている
作曲家としての僕の捉え方、こうあってほしいという
願望にすぎないのかもしれない。
雅楽的な響きという点を忘れて、純粋にこの演奏に耳を傾けるなら、
小澤さんの演奏はやはり熱く、また別な説得力を持って
心に響いて来るのである。

2024年3月31日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その2・サイトウ・キネンのブラームス『交響曲第1番』

正直ブラームスは苦手である。
大体出会いがよくなかった。
中学の時の卒業式かなにかの式典の時に
例のベートーヴェンの『第九』の「歓喜に寄す」に似た
あのメロディーが BGM として流れていたのだ。
それを聞いた僕は、「何このベートーヴェンのパチもんみたいな
なよなよしたメロディーは?
こんなの流すのだったら『第九』を流せばいいのに」っと思ったのだ。
それがブラームスの『交響曲第1番』の最終楽章だと知ったのは
それからずっと後のことのようだったように思う。

後に、吉田秀和さんの『LP 300 選』に従って、
交響曲の『第4番』と『第2番』を聴いたのだが
あまりピンと来なかったように思う。
『第4番』に至っては、多分これを聴く前にその第3楽章を
イエスのリック・ウェイクマンが『こわれもの』の中で演っている
そちらの方が印象に残っているほどだ。w
第一、ヴァーグナーより20歳も年下なのに、
つまり、世界的に影響を与えた楽劇『トリスタンとイゾルデ』を
聴いているはずなのに、寧ろベートーヴェンよりも古典的な
古い感じのする響きでではないか。
因みに、ブラームスが40年掛かって仕上げたという
『交響曲第1番』が完成、初演されたのは1976年で、
この年は、ヴァーグナーの『ニーベルンクの指輪』四部作の
最後の作品『神々の黄昏』が初演された年である。
彼より9歳年上のブルックナーがヴァーグナーの響きを取り入れて
ベートーヴェンの交響曲を更に拡大したのと対照的だ。

そう、僕は管弦楽法を勉強した時に、
例のリムスキー=コルサコフの教科書も読んだが、
その「まえがき」で彼はこう書いている。
(以下、英語版からのヒロシによる自由訳)

「古典派の作曲家、そして近代の作曲家でも、想像力とパワーを駆使してオーケストレーションを行う能力に欠けている作曲家は一人や二人ではありません。音の色に関する秘密は長いことこうした作曲家たちの創造力を越えたところにあったのです。それでは、こうした作曲家たちは管弦楽法を知らなかったということになるのでしょうか? いいえ、彼らの中の多くは、単に色彩的な表現をする作曲家たちよりは寧ろより多くの管弦楽法の知識を身に付けていました。或いは、ブラームスは管弦楽法を知らなかったのでしょうか? そんなことは勿論ありませんが、にも拘わらず、彼の作品のどこにも、鮮やかな色調や絵画的イマジネーションを呼び起こすような表現を見つけることはできません。実際、ブラームスの音楽的思考は音の色の面には向けられなかったのです。彼の心は色彩的表現を必要としなかったのです。」

そんなブラームスなのであるが、
少し前に「レコード芸術」か何かの記事に出ていたのだが、
最近は「交響曲」の読者による人気投票を行うと、
ダントツ1位となるのは、かつてはベートーヴェンの『第5番』
だったのが、今はブラームスの『第1番』なのだそうだ。
悲壮感漂う重たい出だしに始まりつつ、最後は光と希望を感じさせ
力強く終わるのが人気の秘密らしいが、
ベートーヴェンの『第5番』だってそうではないか。
ただ、僕にしてもこの曲で最も印象的なのは
その第1楽章のティンパニの4ツ打ちに支えられた出だしと
第4楽章のエンディングのところはカッコイイと思うのだ。
そんなこともあって、ここまで散々書いて来たが、
実はこの出だしを真似て2011年に「Return to the Earth」
という曲を発表している。w


さて、前置きが長くなったけれども、
小澤征爾さん率いるサイトウ・キネン・オーケストラが
1987年の最初のヨーロッパ遠征の時に演奏したのが
このブラームスの『第1番』なのであって、
その時の遠征の模様はコンサートの舞台裏を含めて
NHK で放送されたので記憶されている人も多いことと思う。
僕もこの番組で演奏風景を見てスゲーと思ったものである。
何とも分厚く、熱い響きを奏でる弦楽器群が凄い。
幸い、この番組を YouTube にアップしてくれている人がいるので
ご存じない方はご覧になられるとよいと思う。


なので、サイトウ・キネンの CD となると
やはりブラームスの『第1番」は聴いておきたい。

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1990年の録音と言うから、最初のヨーロッパ遠征から3年後で
暑くて熱いストリングスは健在だが、テレビで観たものよりは
ずっと落ち着いた感じの響きではないかと思う。
まぁ、小澤さんが振ってる絵があるのとないので
こちらの聴き方が影響しているのかもしれないけれども。w

ブラームスの『第1番』の人気に火を付けたのは、
ミュンシュがパリ管を率いて1968年に録れたEMI 盤ではないか、
と僕は思っている。
何を隠そう、僕が『第1番』の CD を買ったのはこれが最初で、
その色彩的表現に驚いたものだ。
これがブラームス? と。
第4楽章なんかどんどんアッチェランドして
否応もなく盛り上がって感動するのだ。

ミュンシュの弟子でもある小澤さんの演奏は
もっとどっしりしていて別の行き方だけれども
そもそもウィーンのブラームス演奏がどういうものか
僕にはわからない。
ただ、上で紹介した NHK の番組ではウィーンとベルリンの
観客の感想に「解釈の違い」について触れている人たちがいるのが
興味深いと言える。

「解釈」とは何か?
これは、バーンスタインが Young People's Concerts の5回目
「What is Classical Music?」で触れているのが参考になる。
即ち、所謂「クラシック」とジャズやロック、ポップスの違いは
クラシックは楽譜通りに演奏することが期待されるということだ。
しかし楽譜通りと言っても、楽譜に全てが書いてあるわけではない。
僕等はベートーヴェンが指揮した『第九』がどんな響きだったか、
バッハが自ら演奏したオルガン曲がどんな響きだったか
録音が残っていない以上正確には知り得ないのである。
従って、楽譜には書いてない細かいテンポやデュナーミク、
各楽器のアーティキュレーション、楽器間の音量バランス、
こうしたものは全て演奏家に委ねられているのだ。
そう、楽譜という紙に書かれている情報を
具体的な音として現実のものにすること、それが「解釈」なのだ。

上に紹介した NHK の番組の中で、小澤さんと秋山さんが
コンマスの安芸晶子さんと弦の弓使いの確認をするシーンがある。
安芸さんがバイオリンを弾くと、小澤さんも秋山さんも
それを真似つつ、そうそう、そうだった、と相槌を打つのだ。
してみると、このディスクにも聞かれる
サイトウ・キネンのあの分厚い弦の響きというのは
小澤さんがそういう音作りをしているというよりも、
齋藤秀雄さんが示した弓使いの再現から来ているのではなかろうか。
そう、このオーケストラはあくまでも「サイトウ・キネン」
なのである。
齋藤秀雄さんは指揮法の先生として有名だけれども、
ご本人はチェロ奏者であったから
弦楽器の弓使いについては明確なヴィジョンがあったに違いない。

だからそう、それはウィーンの伝統とは異なるかもしれないが、
やはり素晴らしいブラームスなのだ。
2010年3月の「グラモフォン」の記事、
世界のオーケストラベスト20で、このオーケストラが
19位にランキングしているのはその演奏の素晴らしさが
世界的にも認められていることの証左に他ならない、

1987年に初めてこのオケのことを知った時に、
何故そのヨーロッパデビューがブラームスなのか
不思議に思ったことがある。
もしかすると『第1番』は小澤さんを含めた
サイトウ・キネンのメンバーにとって思い出のある曲なのか、とも
小澤さんが弟子入りしたいと感じたミュンシュの演奏を
初めて観た時に演奏していたのがブラームスだったからか、とも
僕は想像するのだが、何れにしても小澤さんにとっては
特別な曲だったのかもしれない。

[2024.04.14 追記]
「何故ヨーロッパデビューがブラームスなのか」について、
その後読んだ村上春樹さんとの対談集
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』の中で
そのことが触れられていたので、ご参考までここに引用しておく。

「それはね、斎藤先生の味が出るのはやはりブラームスだって、僕らは思ったんです。……(中略)……みんなにも聞いて、それで決めたと思うんだけど……。斎藤先生の 考える『しゃべる弦楽器』には、ベートーヴェンよりもブラームスの方が向いているんじゃないかと。 エスプレシーヴォの強い、つまり表情豊かな弦楽器には、 ブラームスが向いているだろうということです。で、とにかくまずブラームスを全部やろうよということで始めたのが、ヨーロッパの旅行だったんです。」

2024年3月30日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その1・サイトウ・キネンのベートヴェン『第九』

RL でいろいろなことがあってこの日記も随分間が空いてしまった。
最後に書いたのがパイプオルガンのプラグインに関する記事で、
その前は小澤征爾さんの追悼記事だった。
前にも書いたが小澤征爾さんはずっと僕の中ではヒーローだったので
やはり旅立たれたことはとても残念でならない。
そこで何枚か手許にある小澤さんが指揮したディスクを聴きながら
つらつら心の中に浮かんで来ることなどを書いて行ってみようと思う。

まず最初に、僕が小澤さんのことを知るきっかけになったのが
ベートーヴェンの『第九』だったし、
皆さんもご存じのように僕は毎年『第九』に関わっているので
この辺りから書いて行ってみよう。

小澤さんはこのベートーヴェンの『第九』を
確か3回録音しているはずだ。即ち、

・1974年録音、ニュー・フィルハーモニア管(Philips)
・2002年録音、サイトウ・キネン・オーケストラ(Philips)
・2017年録音、水戸室内管(Decca)

1974年のニュー・フィルハーモニア盤が、
僕が初めて小澤さんの指揮を観た時に時期的には近いので
いつか聴いてみたいと思ってはいるけれども、
今回は手許にあるサイトウ・キネン盤について書いてみる。
これは、何と50万枚以上売れたという、
クラシックの CD としては驚異的なベストセラーになったものだ。

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結論から言ってしまうと、なかなか標準的な第九演奏と言える。
演奏時間は CD 全体で 69分、楽章と楽章の間を除いた
本体の演奏時間は 67分21秒なのでやや速いかもしれない。
2002年、元旦のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに登場、
同年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任したその小澤さんが
同じ年のサイトウ・キネンフェスティバル松本で振った時の
ライブ録音ということで、サイトウ・キネンらしい
分厚いストリングスが醸し出す熱く緊張感に溢れた演奏だ。
前に書いた第1楽章再現部の手前、雪崩れ込むような感じの部分、
子供の頃の僕に印象深く刻まれたあの感じは
今この演奏にも生きているようだ。

今「標準的な演奏」と書いたが、実は標準的でないところがある。
第2楽章だ。
普段は第3楽章に置くスケルツォをベートーヴェンはこの曲では
第2楽章に置いて、反対に通常は第2楽章に置く緩徐楽章を
3番目に持って来た。
そしてこの第2楽章のスケルツォには問題があって、
388章節目から399章節目にかけて
1番かっこの繰り返し記号がある。
20世紀の『第九』演奏のスタンダードを築いたと言われる
ヴァインガルトナーはこの繰り返しをしないよう指示したとか。
なので、僕がいつも聴いて参考にしている
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管の演奏でも
ここは繰り返さずに最初から2番かっこに飛んでいる。
そのことを知ってか知らずか忘れてしまったが、
かつて横浜マーチングバンドで『第九』の全曲演奏をやった時は
僕もこの1番かっこは飛ばして演奏している。
ところが、小澤さんのこの録音では
1番かっこをちゃんと演奏して繰り返しているのだ。

繰り返す場合と繰り返さない場合は指揮者のテンポにもよるが
3〜4分くらい演奏時間に差が出て来ると思う。
調べて見ると第2楽章の演奏時間はフルトヴェングラーが11分52秒、
バーンスタイン指揮ウィーンフィルが11分11秒、
ご参考までヒロシの YMB 版が11分41秒なのに対して
小澤さんのは13分27秒だ。
つまり、繰り返してこの差ということは結構速い演奏と言える。

速いと感じるのは第3楽章もそうだ。
これは僕がベートーヴェンが書いた最も美しい音楽と思っているが、
フルトヴェングラーのあの眠くなりそうなくらいゆったりとした
テンポの演奏が好きなのである。
天上の音楽。
そう思ってこれも演奏時間を調べてみたら、
フルトヴェングラーが19分27秒、僕のは更に遅くて19分46秒。
だから14分1秒の小澤さんのは、それは速く感じるよね。w

そして第4楽章。
ここで僕がその演奏の特徴を見極めるのが、1つには
Allegro assai の94章節目、「歓喜に寄す」の大合唱が、
"vor Gott(神の前に)" とフェルマータの付いた全音符になり、
次の小節からは Alla Marcia と書かれたマーチになる所だ。
初めて『第九』を聴いた時はこの部分でゾクっとした。
このえも言われぬ恍惚とした感動を覚えるには、
"Gott" のフェルマータをどれだけ延ばすか、
そしてマーチを開始するまでにどれだけ間を取るか、なのである。
因みにフルトヴェングラーのバイロイト盤ではどちらも8秒。
僕もフルトヴェングラー目指して延ばしてみたが、
フェルマータが6秒、その後の間が4秒で、
小澤さんのサイトウ・キネン盤ではそれぞれ6秒、3秒だ。
僕がこの演奏を良い演奏と感じるのはこういう所にもあるかも。

もう1つ、僕が必ずチェックするのが、最後のエンディング、
"Prestissimo" と書かれた部分のテンポだ。
これは「極めて速く、この上なく速く」という意味なので、
とっても速く弾かなければならないのだけれど、
この前にこの標語が出て来る所には BPM = 264 の指定があるので
もう、メチャメチャ速く弾く必要があるわけだ。
で、これをやっているのがフルトヴェングラーで
バーンスタインもウィーン・フィルとの全集版で速く弾いている。
フルトヴェングラーに至っては、もうオケが付いて来れなくて
音がズレまくったりしてるけれど、
それだけに終わった時の感動が凄いのだ。
で、僕も YMB の『第九』演奏会ではそれを真似てやってます。w
一方、この小澤さんのはそこまで速くなくて、
まぁ、現実的にはこの位で、多分僕が子供の頃観た時も
この位のテンポだったんじゃないかと思う。

というわけで、いろいろ書いたけれども、
全体としては小澤さんの熱気が伝わる聴きやすい演奏だ。
どうしてもフルトヴェングラーで聴くことが多いのだけれども、
この演奏ももっと聴いてみようかな。
次回はサイトウ・キネンのブラームスについて書きます。