FacebookやTwitterなどで一部の方はご存じでしょうけれど、
先週の火曜日と水曜日、
いだきしんさんの「高句麗伝説」コンサート参加のため
岩手県の盛岡市を訪れました。
2日目の水曜日、コンサートの時間まで余裕があったので、
岩山の展望台から盛岡市街を眺めたり、
再びそこから降りて来て、上の橋辺りで
中津川を眺めて楽しんでおりました。
写真はその中津川の小さな滝です。
秋にはここを鮭が上って来るのだそうです。
滝を流れる水の心地良い響きにうっとりとしておりましたら、
来ました。ポツリ、ポツリ、と雨が。
そしてやがてそれはザァ〜〜〜っという土砂降りに。
橋の近くに近江商人の草履脱ぎ場跡という碑があって、
そこに屋根のついたベンチがあるのを知っていたので
早速そこに駆け込みます。
と、制服を着た若い女性が二人、男性が一人、
既に先客として座っていました。
そして僕とほぼ時を同じくしてやはり制服の男性が一人
そこに駆け込んできました。
女性がいるところに駆け込んだこともあって
どうも、とやや照れながら挨拶して気づきました。
この場所のすぐ隣が観光バスの停留所で、
この人たちはバス会社の人たちなのでした。
話を聞いていると、観光バスの方々ですから、
今度はどこどこへ行くだとか、何泊になるとか、
出て来る地名も盛岡からは遠い地名が多いです。
若い女性のガイドさんが、地元の方言たっぷりに
楽しそうに話しているのを微笑ましく聞きながら、
ふっとある思い出が過ぎりました。
岩手のバスガイドさんか——。
あれは僕が高校2年生の時、修学旅行でのことです。
旅行は小倉から新幹線で名古屋まで行き、
そこからバスで志賀高原に向かいそこで一泊、
そして更に東京で観光、というものでした。
その時のバスのガイドさんというのが岩手出身の方だったのですね。
当時19歳と若い方で、ガイド自体はあまりうまくはなかったですが、
年齢が近いこともあって、僕らのグループはすぐに仲良くなりました。
やがて、教科書的なガイドはほどほどにして、
いろんな話題が出るようになりましたが、
その中で彼女は自分のことを語り出したのです。
自分が岩手の出身であることから始まって、
父親が出稼ぎのために、当時まだ開通していなかった
青函トンネルの工事の仕事に向かったこと、
そして作業中に起きたトンネルの事故で亡くなったこと。
自分は家計を助けるためにも、
早くお嫁に行くことを期待されていること。
でも、親が決めた相手でなく、東京に出た高校時代の
憧れの先輩と一緒になりたいこと。
そして働いて仕送りもするから、2年で決着をつけるとして
その先輩を追って東京に出て来たこと。
最早その先輩とはどうにもならないまま間もなく2年という
約束の期限が近付いていること等々。。。。
このバスガイドさんのことが今だに思い出されて来るというのは
多感な時期の自分によほど衝撃的だったのだと思います。
高度経済成長からバブル期へと向かう当時の日本にあって
やはり出稼ぎであったり、親が絶対であったりという世界があり、
一方で好きな人と一緒になりたいとそうした世間を振り切って
東京に出て来た彼女の実行力と。。。
ガイドとして東京で仕事をするのはこれが最後かもしれないと
そう言っていた彼女はあのあと岩手へ帰って行ったのでしょうか。
そしてその後どんな暮らしをしているのでしょうか。
ふと、今目の前にいるガイドさんたちに
雨宿りがてらにそんな話をしてみようか、
そんな人を知っていないか、聞いてみようかなどと
そんな気持ちも起きましたがやめました。
何しろもう随分前の話です。
もしかしたら、彼女たちが生まれていなかったかもしれない頃の。
岩手というとそのバスガイドさんのことを思い出すのです。
昨年の大震災は、私たちが東北のことを真剣に見直す機会であったと
そう感じています。
被災地の復興を通じて、この地域の人々が本当に豊かに暮らせる
そんなしくみを作っていかないといけないと思うのです。
雨宿りをしながらそんなことに思いを馳せていました。
岩手の地でバスガイドさんと出会したのは
ただの偶然ではないと、そう感じながら。。。。