2024年5月4日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その10・メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』

前回に続いてメシアンである。
小澤征爾さんがメシアンからその作品の演奏を任されていたことは
前にも書いた通りだが、その最後の大仕事とも言えるのが、
メシアン唯一のオペラで、上演に4時間を要する大作
『アッシジの聖フランチェスコ』の初演だったと考えている。
これはパリ・オペラ座の委嘱で制作されたもので、
その初演は1983年11月28日にオペラ座で、
小澤さんがパリ・オペラ座管を指揮して行われた。
その時の録音がリリースされていて、これはとても貴重なものだ。

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僕にとってこの CD が貴重なのは、この曲については、
前にも書いた武満徹さんとの対談集『音楽』の中で語られていて、
この本が出てすぐ読んだ僕にとっては、
1941年作曲の『世の終わりのための四重奏曲』とも
1949年作曲の『トゥランガリーラ交響曲』とも異なり、
リアルタイムの、現在進行形のメシアンの新作だったからだ。
その、1979年頃に行われた対談のなかにこんな会話がある。

「武満 メシアン先生は目下大作にとりかかっているんだろう?
小澤 二年後にそのオペラを指揮しなきゃいけない。それがなんと楽譜で三千ページあるんだ。この間、ピアノ・スコアを見てきたけれど。今、オーケストレーションしてるらしい。
武満 あの人のは、もう少し短くなるといいけれどね……。『キリストの変容』もちょっと長過ぎるね。あの人は、あそこまでやらないと、どうしても満足できないんだよ。おれなんかは、一生かかっても三千ページは書けっこない(笑)。
小澤 この間もメシアン先生から念を押されて、やることになっている。一九八二年に。
武満 七管編成でしょ。
小澤 七管編成で、オンドマルトノというのが三台。
武満 そんな大編成で、歌って、聞こえるのかな。 
小澤 それが聞こえるんだって。ちゃんと計算できているみたいよ。すごいねェ。」

おお、おお、『トゥランガリーラ』でも使われた大好きな楽器
オンドマルトノが3台も使われるとは!
そして、七管編成なんて聞いたこともないんだけれども。
普通のオケの曲だと三管とか四管ですよ。
この何管というのは、木管楽器のフルートやクラリネットなどの
パートの本数を基準にして呼ばれるけれども、
木管の本数が決まるとそれに応じて金管の本数、弦の台数も決まり、
オケ全体でどのくらいの演奏家が必要になるかが決まるのだが、
実際、編成表を見るとフルートだけで、

・ピッコロ×3
・フルート×3
・アルトフルート×1

となっていて実際7本必要なのだ!
(普通はピッコロやアルトフルートは何人かいるフルートの1人が
 持ち替えで対応するものだが。。。)

そうやって8年をかけて出来上がったのは全3幕8場から成る
上演時間4時間にも及ぶオペラで、それだけに聴き終わった時の
感動はとても言い尽くせぬものがある。

そうそう上演されることのない巨大でレアなオペラなので
ここで簡単にどんな曲か説明をしておくと、
アッシジの聖人フランチェスコ
(日本では伝統的にフランシスコと呼び慣わされている)の生涯を
8つの情景で描くもので、
オペラや楽劇に付き物の序曲や前奏曲といったものはなく、
またアリアらしいものもない。
ただ、ヴァーグナーの楽劇のように登場人物それぞれに
ライトモチーフのような主題があり、
中でもフランチェスコや天使には複数の主題が割り当てられている。

更に、メシアンと言えば鳥の研究と
その鳴き声を音楽で表現することで有名だが、
この作品でも、それぞれの登場人物に特徴的な鳥が割り当てられ、
舞台を見ていなくてもその鳥のさえずりで例えば天使が現れたことが
わかるようになっているという仕掛けである。
これは、聖フランチェスコが鳥に説教をしたという伝説から
当然そのシーンがこのオペラには組み込まれているわけだけれども、
アッシジのあるウンブリア地方によくいる鳥から始まり、
世界中から34種の鳥が選ばれ、その囀りが音で表現される。
34の鳥の中には日本のホオアカ、フクロウ、ウグイス、
そしてホトトギスも選ばれ、登場する。

それぞれの情景の内容は次の通り。

第1景『十字架』
木琴を始めとする鍵盤打楽器によるヒバリの囀りで幕を開ける。
続いて修道士レオーネが『伝道の書』の「道にはおののきがある」
を下敷きに「私は恐ろしい」と歌う。
そこにズグロムシクイ(カピネラ)の囀りに導かれ
フランチェスコが登場、「完全なる歓び」について語る

第2景『賛歌』
フランチェスコと修道士たちが「太陽の讃歌」を歌い、お勤めをする。
最後にフランチェスコは重い皮膚病を患っているものを怖れており
その怖れを克服することを主に誓う。

第3景『重い皮膚病患者への接吻』
フランチェスコは重い皮膚病患者に会い、接吻する。
すると病は癒され、その喜びから踊り出す。
患者はそれまで人生に対して卑屈だったのがよりポジティブに
生きようとする。

第4景『旅する天使』
フランチェスコたちのいる修道院を旅姿の天使が訪れる。
キバラセンニョムシクイ(ジェリゴネ)の囀りが天使の登場を暗示。
天使は修道院にいる修道士たちに「予定説」に関する問いをする。
修道士エリアは問いに答えず天使を追い出し、
再び訪れた天使に修道士ベルナルドは答える。
天使が去ったあと、修道士たちは旅人が実は天使だったことを知る。
(因みに天使は5色の羽根を持っている。
 これはサンマルコ美術館にあるフラ・アンジェリコの
 『受胎告知』の絵にインスピレーションを得ているらしい。
 この絵のリンクはこちら。)

第5景『音楽を奏でる天使』
再び天使が修道院を訪れ、今度はフランチェスコの前に現れる。
天使はヴィオールを奏でるが、このヴィオールは
オンドマルトノの音で表現される。
天使の音楽を聞いているうちにフランチェスコは倒れる。
天使が去ったあと、倒れているフランチェスコを
修道士たちが抱え起こす。

第6景『鳥たちへの説教』
フランチェスコが鳥たちに説教をする。
説教は途中様々な鳥たちの鳴き声で中断される。
そして最後に様々な鳥たちの囀りが一斉に起こる
全曲の中でも最も素晴らしい聴き所となる。

第7景『聖痕』
夜中の山でフランチェスコが祈りを捧げている。
イエス=キリストの受けた苦しみを自分にも分けてほしいと願う。
合唱がイエスの声を表現し、その後5回のクラスターで
イエスの受けた5つの傷がフランチェスコにも表れたことを暗示。

第8景『死と新生』
フランチェスコは「太陽の讃歌」を歌いながら
あらゆるものへの別れを告げる。
フランチェスコが死ぬとヒバリが賑やかに歌い、
最後は感動的な合唱で幕を閉じる。

言葉で書くと難しいようだけれども、
実際に音楽を聴くと、『トゥランガリーラ』でもお馴染みの
メシアン独特のフレーズが登場したり、
鳥たちのざわめきやら、重大なことが起きる時のクラスター音など
音楽的には非常にわかりやすいものになっている。
いや、そのわかりやすさを実現しているのは
やはり何と言ってもメシアンの演奏に精通した小澤さんの棒だろう。

もう随分昔のことなので正確なことは覚えていないのだけれど、
この1983年のパリでの初演の時だったのか、
1986年の日本での部分初演の時のことだったのか、
そのリハーサルの模様が NHK のニュースで報道されたことがある。
その中で、メシアンが小澤さんに注文を付けるのだ、
今のところはそうじゃない、こういう風に演奏してほしい、と。
すると、何と小澤さんは作曲者本人に反論するのだ。
多分、いや、あなたのその意図を実現するには
こういう風に演奏した方がよいのだ、
実際の音にするのは自分の仕事だから自分に任せてほしい、
といったようなことだったように記憶している。

この場面を見て、凄い! と思ったものだ。
小澤さんが楽譜を読み込んで作曲者の意図を理解し、
それを具体的な音にする話は村上春樹さんとの対談に
何度も出て来るけれども、
ある意味作曲者本人ですら想像できていない音が
小澤さんには具体的に聞こえているということではないだろうか。
小澤さんは齋藤秀雄先生から教わったのは、
単に指揮法ではなかった、一番大事なのは、と
「私の履歴書」の中で語っている。

「先生が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ。」

小澤さんが指揮をする時のあの熱い感じは実はここから来ているのだ。
そして、作曲者のメシアン本人にあそこまできっぱりと
物申せるというのは確とした信念があるからだ。
『アッシジの聖フランチェスコ』の録音に聞くのは、
メシアンの音楽への理解と共感、
そして自分自身の信念と情熱の結晶と言えないだろうか。
だからこそ4時間に及ぶ音楽が説得力を持ち、
大きな感動をもたらすことができるのである。

     *   *   *

例によって既に十分長い文章になってしまったけれども、
自分の手許にある小澤さんの CD に纏わる話と
その感想について語るのは一旦これで終わりにする。
終わるに当たって、まだまだ聴いていない、
そして聴いて見たい小澤さんの CD もあることなので、
それについて触れておきたいと思う。
その前にまず、これから小澤さんの演奏を聴いてみたいと
思われる方の為に、日本版「ニューズウィーク」誌の
2024年3月5日号の小澤さんの特集記事にあった
「ニューヨークタイムズ」記者の名盤8選なるものを転載しておく。

・メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』1983年パリ・オペラ座管
 (初演時のライブ録音)
・ベルリオーズ『幻想交響曲』2014年サイトウ・キネン
 (サイトウ・キネン・フェスティバル松本のライブ録音)
・フォーレ『管弦楽作品集』1986年ボストン響
・マーラー『交響曲第1番』1987年ボストン響
・デュテイユー『時間の影』1998年ボストン響
・ストラヴィンスキー『春の祭典』1968年シカゴ響
・チャイコフスキー『白鳥の湖』1978年ボストン響
・リスト『ピアノ協奏曲第1番・第2番/死の舞踏』
 1987年クリスチャン・ツィメルマン (pf), ボストン響

今回書いた『アッシジの聖フランチェスコ』を除いては
僕が持っているものとは全く被っていないね。w
というわけで、僕が気になっているディスクは次のものになる。
上のリストにも影響を受けているけれど、録音の古い順に、

・ストラヴィンスキー『春の祭典』1968年シカゴ響
・チャイコフスキー『ロメオとジュリエット』1973年サンフランシスコ響
・ベートーヴェン『交響曲第9番』1974年ニュー・フィルハーモニア管
・デ・ファリャ『三角帽子』1976年ボストン響
・デュテイユー『時間の影』1998年ボストン響
・ブラームス『交響曲第1番』2010年サイトウ・キネン
 (カーネギーホールでのライブ。村上春樹さんの激賞で。w)
・ラヴェル『子供と魔法』2013年サイトウ・キネン
 (サイトウ・キネン・フェスティバル松本でのライブ)

小澤さんが亡くなってから小澤さんの CD は、
中古でも手に入りにくくなっているけれども
そのうちどこかで見つけたら聴いてみようと思っている次第。

2024年5月3日金曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その9・メシアン『トゥランガリーラ交響曲』

僕がクラシック音楽の曲は吉田秀和さんの『LP 300選』に基づいて
聴いていったことはこれまでにも何度か書いたが、
実際にレコードや CD を買ったのはその本の前の方と後の方から、
つまりバッハ以前の古楽とドビュッシー以降の現代音楽からだ。
何と言ってもそこに出て来る作曲家の名前の殆どを知らないし、
名前は知っていても実際に作品を聴いたことがないものばかり。
特にベートーヴェン以降の、所謂「ロマン派」と呼ばれる曲の数々は
別にレコードなど買わなくても日常生活に溢れているので
もっと新しい響きを求めていたのだ。
そう、現代音楽が新しい響きであるのは勿論だが、
バロックより前の中世の音楽もまた新しい響きであったのだ。

社会人になったばかりの頃、僕は新宿西口の会社で働いていて、
帰りによく当時 NS ビルにあったレコード店に立ち寄っていた。
そこはこうした現代音楽や古楽のレコードが充実していたのだ。
その時買ったものの中に小澤征爾さんがトロント響を指揮した
メシアン『トゥランガリーラ交響曲』と
武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』をカップリングした
2枚組の LP があった。

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この LP を見つけた時は、とてもお買い得な曲の組み合わせと
演奏者であるように思えて——勿論これは吉田さんの本の
レコード表にも載っているレコードなのだが——、
もう興奮のあまり衝動買いしたのを今でもはっきりと覚えている。

2枚組ということは、メシアンの曲が LP で3面、
残りの1面に武満さんの曲が入っているわけだが、
つまりメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』の方は
全10楽章から成り、1時間を越える長大な曲なのだが、
マーラーの曲は長くて苦手と言っている僕も
この曲は大変面白く聴けたのだった。

それは一つには、歌を含まない純粋な器楽曲であることと、
また、トロンボーンとチューバによる重々しい「彫像の主題」、
弦楽器とオンドマルトノによる官能的な「愛の主題」、
そしてピアノを含む打楽器群によるガムランのリズムなどが
繰り返し或いは変形され、或いは組み合わせられて登場するのが
古典的な交響曲の伝統の上に成り立っているからだと思う。

それに、そう、今書いたオンドマルトノの響きが何よりおもしろい。
「愛の主題」以外でも、いろんなところでピューピュー鳴るのだ。w
そして、実際、10もある楽章はそれぞれが特徴あり、個性的で
全く飽きさせないのだ。
第6楽章の「愛の眠りの園」はメシアンお得意の鳥の表現で、
ピアノが静かに夜鳴鶯のチチチという鳴き声を奏で続けるのもいい。

前に触れた『交響曲名曲名盤100』の中で諸井誠さんは
この曲について「豊麗な音洪水」と表現しているが言い得て妙で、
アートで言えば、次から次へと絶えず様々な色や光が
めくるめく空間の中に身を置いて幻惑されるような
そういう体験を音でする感じなのだ。
メシアンは音に色を感じる人なのでそれは当然のことなのだろうが、
色彩的で官能的表現を得意とする小澤さんの棒は
その魅力を十二分に引き出し、現出しており、
だからこそこの大曲を飽きさせずに最後まで聞き通させるのだ。

そういう小澤さんの演奏は、作曲者のメシアンご本人に
とても気に入られたようだ。
このトロント響との録音は1967年だが、それに先立つ1962年、
小澤さんは NHK 交響楽団を率いてこの曲の日本初演を行っている。
恐らくこの時のことだと想像するが、村上春樹さんとの対談の中で
小澤さんは次のように述べている。

「メシアンさんは僕のことを本当に気に入ってくれて、というか惚れ込まれちゃって、自分の音楽が全部君がやってくれとまで言われました。」

そして1978年から1979年にかけて行われた武満徹さんとの対談を
まとめた『音楽』の中で小澤さんは、

「N 響で僕がメシアンの『トゥーランガリラ交響曲』を初演指揮した。それ以来、おかげで、おれは苦労している(笑)。」

と言っているところを見ると、恐らくメシアンは自作の演奏を
折に触れて小澤さんに依頼するのだろうが、
それでは小澤さんに全て委ねるかというとそうではなく、
きっと作曲者本人としてここはこうしてほしい、
そこはそれじゃダメだ、といろいろ注文を付けたのだろう。
実際、『アッシジの聖フランチェスコ』の初演リハーサルの風景を
以前見たことがあるけれども、その時メシアンが小澤さんの演奏に
注文を付けていた。これについて詳しくはまたあとで。

ともかく、そうしてメシアンが信頼していた小澤さんの演奏である。
僕が LP を買った頃はこの小澤さんのものしかレコードはなかったが、
その後、プレヴィンやサロネン、ラトルなど
世界の指揮者が続々と録音してリリースするようになったので、
今となっては「古い演奏」なのかもしれないけれども、
僕には小澤さんのこの1枚聴けば十分なのである。

P.S.
LP 時代にメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』と
武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』とか
カップリングされたのは、ただ単にレコードというものの制約、
『トゥランガリーラ』が3面必要で1面余るので
4面に20分程度の曲を埋める必要があって武満さんの曲の録音を
使ったのではないかと邪推していたが、
今考えると、『トゥランガリーラ』は協奏曲的ではないものの、
オーケストラに独奏ピアノ、独奏オンドマルトノを伴う交響曲
ということになっている。
方や、『ノヴェンバー・ステップス』は、
オーケストラに独奏琵琶と独奏尺八を伴う管弦楽曲であるので、
実は同じタイプの曲だと言える。
『ノヴェンバー・ステップス』の初演が1967年11月のことだから、
寧ろこの曲を RCA に録音するに当たって、
それではメシアンの曲も一緒に、ということになったのかもですね。

2024年4月29日月曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その8・ストラヴィンスキー『火の鳥』

前回シェーンベルクの『グレの歌』について、
小澤征爾さん指揮のものとブーレーズ指揮のものとで
聴き比べのようなことをやったのでそのつづきのような感じで
今回は小澤さんが1972年にパリ管を率いて EMI に録音した
ストラヴィンスキーの『火の鳥』を取り上げる。

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実は僕はこのディスクのことは全く知らなかったのだ。
大体、ストラヴィンスキーはブーレーズかアンセルメで聴いていて、
たまに初演者ピエール・モントゥーの録音を聴いたりするくらいで
それで十分なのだ。
特にブーレーズの『春の祭典』は、あの複雑なリズムの曲を
理解するのにどれだけ役立ったことか。
アンセルメの『ペトルーシュカ』は、弦楽器がこんなにも
色彩豊かな音を出すのだと驚かされたものだ。

それが今年小澤さんが亡くなったあと、
中古屋さんでこのディスクを見かけて、調べてみたら、
何と、『火の鳥』の全曲演奏の録音としては最も初期のもので
——1959年にドラティがロンドン響と、
1961年に作曲者自身がコロンビア響と録音しているのが
最初期の録音らしい——、小澤さんがこれを録れた当時は
この曲の全曲演奏というのは珍しいものだったらしい。

まぁ、本来バレエという舞台があっての音楽で、
例えばチャイコフスキーの三大バレエなどはどれも2時間あるので
踊りのない、演奏会やレコード向けには組曲や抜粋盤で十分、
という見方はあるのだろうが、
ストラヴィンスキーの三大バレエは何れもそう長時間ではないので
今考えると全曲盤がなかったのが不思議なくらいだ。
小澤さん自身、この EMI 録音の3年前の1969年、
まだ着任前のボストン響を率いて組曲を RCA に録音している。
前に触れた門馬直美さんの『管弦楽・協奏曲名曲名盤100』では
全曲盤はブーレーズのものについて触れつつ、
何故か小澤さんのは組曲の方についてしか触れられていない。

今回いろいろ調べて見たら、この『火の鳥』の全曲演奏、
実は日本での初演を行ったのも小澤さんだったようで、
1971年に日本フィルを指揮して行われたらしい。
とすると、小澤さんはいつかはこの曲の全曲演奏を、と考えていて
その流れの中で1972年の EMI 盤の録音につながっていったように
想像されるのである。

さて、そんなこんなで今回手に入れた
その 1972年の EMI 盤の感想だが、やっぱり、何と言っても
ダイナミックで迫力のある演奏、の一言に尽きる。
ブーレーズも、門場さんが「迫力満点」と評されている通り
僕等がストラヴィンスキーの音楽に求めるものがそこにあるのだが、
小澤さんのはもっとデュナーミクの変化が豊かで、
加えてパリ管の響きがそれに明るい色彩感を与えていて素晴らしい。
1973年のレコード・アカデミー賞を受賞したのも当然という感じの
名演と言える。

そして、この小澤さんのディスクが火付け役になったのか、
僕がいつも聴いているブーレーズが CBS に録音するのが1975年、
そのあとコリン・デイヴィスが1978年に、
ドホナーニが1979年にと、世界の指揮者が我も我もと
次々に録音、リリースするのである。
そう、小澤さんも1983年に手兵ボストン響と同じ EMI に、
ブーレーズも1992年にシカゴ響とグラモフォンに再録音している。
そう言えば、僕が大いに影響を受けた冨田勲さんが
『火の鳥』をリリースしたのは1975年でブーレーズより早い。
こちらは組曲ではあるけれども、もしかして小澤さんのディスクに
触発されたのでは? と勝手な想像をしてみたりする。w

小澤さんはストラヴィンスキーとも交流のあった人なので
ストラヴィンスキーの曲の録音にも熱心だったようなのだが、
自分の場合はそこのチェックが全く抜けていた。
実際小澤さんのストラヴィンスキーの世評はよいようで、
1968年にシカゴ響と RCA に録れた『春の祭典』は
日本版「ニューズウィーク」誌でも取り上げられていたし、
村上春樹さんとの対談の中でも出て来るので、
是非そのうち聴いてみたいと思っている。
何と言っても『春の祭典』は、
僕に管弦楽の素晴らしさを教えてくれた教科書のような音楽だし、
それを小澤さんが指揮しているというのだから。

いやぁ、その「ニューズウィーク」誌の特集記事やら
村上さんとの対談を読んでいると、まだ聴いてないもの
聴いてみたいものがどんどん出来るので困ったものだ。w
そうではあるのだけれど、それをやっているとキリがないので、
この「小澤征爾さんを聴く」のシリーズもあと2回、
何れもメシアンの録音について触れて終わることにする。
次回は『トゥランガリーラ交響曲』について書くつもり。

2024年4月28日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その7・シェーンベルク『グレの歌』

小澤征爾さんのことを自分のヒーローだったと書きながら
そんなにたくさん CD を買って持っているわけではないことを
前にも書いた。
基本的には吉田秀和さんの『LP 300選』のレコード表に基づいて
CD を買って聴いていたので、当然小澤さんの演奏の前に
聴いておかなければいけない演奏がたくさんあるからだ。
その中で、シェーンベルクの『グレの歌』については、
「参考盤」とした上で、小澤さんのものが筆頭に、
続いてブーレーズのものの2つが挙がっている。
だからこの曲についてはまず小澤さんの演奏で聴こうと
そう思っていたのだった。

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にも拘わらず縁とは不思議なもので、
シェーンベルクの音楽についてはかつてブーレーズの演奏を
LP で持っていて、その後 CD で買い直す時に全集版で買ったので
期せずして『グレの歌』はブーレーズの演奏を先に聴くことになった。
これは1974年に BBC 響を指揮して録音されたもので、
確か「レコード芸術」の「歴史的名盤」に推薦されていたものだ。
まぁ、曲を聴くだけならそれでもよいのだが、
結局その後欲しかった小澤さんの CD も買うことになる。

何れにしても、『グレの歌』はシェーンベルクの、
まだ十二音技法を取り入れる前の、演奏に2時間もかかる歌曲で、
つまり歌詞があるので、交響曲や管弦楽曲のように
聞き流すわけにはいかないので、シェーンベルクの曲の中でも
聴くのは後回しにしていたのだ。

『グレの歌』についてはクラシックファンでも
マニアックな方でないとあまりご存じではないと思うので
簡単に説明をしておくと、「グレ」というのは最近流行の
「半グレ」とは何の関係もなくて(当たり前か w)
デンマークのコペンハーゲンから北に40キロのところにある、
森に囲まれ、湖に面した場所の名前で、ここにはお城があって、
14世紀の後半、ヴァルデマー4世という王様が治めていたのだが、
その王様に纏わる伝説をデンマークの作家が小説にしていて、
小説に登場する詩をドイツ語に訳したものに
シェーンベルクが作曲、管弦楽の伴奏を付けたのがこの曲だ。

歌に管弦楽の伴奏を付けただけと簡単に考えてはいけない。
その管弦楽は150人から成る大規模なもので、
これに5人の独唱者、3群の男声四部合唱、
更に混声八部合唱が加わるので400人規模の大編成で、
この曲が完成した1911年当時、史上最大の歌曲だったのだ。
そう、大人数を要するコンサートと言うと
マーラーの『交響曲第8番』、通称「千人の交響曲」があるが、
ほぼ同時期に作曲されたこの曲が800人位要するのを考えると
そのとてつもなさが感じられようというものだ。

全体は3部から成っていて、第1部は前奏曲に導かれて
ヴァルデマーが恋人トーヴェと互いへの愛を歌う歌が、
テナーとソプラノで交互に歌われ、ヴァルデマーの5番目の歌の後
管弦楽による間奏が入る。
実はここでトーヴェが嫉妬したヴァルデマーの王妃に
毒殺されたことが暗示されるのだ。
この間奏に続いてメゾ・ソプラノの「山鳩」が
トーヴェが死んだことを悲しむ歌を歌って第1部は終わる。

第2部は、トーヴェの命を奪ったことで神を恨み呪う
ヴァルデマーの歌が歌われ、これは5分くらいで終わる。

第3部は、第2部で神を呪ったことの罰として、
ヴァルデマーと彼に従うゾンビとなった騎士たちが
夜な夜なグレ湖を駆ける百鬼夜行を命ずる。
ヴァルデマー王の歌、男声合唱による百鬼夜行の歌の間に
これに怯える農夫や百鬼夜行に付き合わされる道化による
滑稽な歌が挟まる。
やがて夜が明け、ゾンビたちは墓に戻り
明るく昇って来る太陽を讃える大合唱で感動的に終わる。
小澤さんの CD のジャケットはムンクの「日の出」が使われていて
実にこの感動的なエンディングにぴったりだ。

さて、その小澤さんの演奏。
ブーレーズから5年後の1979年のこの録音は、
全体的にダイナミックで、ヴァーグナーの楽劇を聴いているよう。
実際、この曲は所作を伴わないオペラとも考えられるが、
カラヤンに勧められてオペラにも取り組んで来た
小澤さんならではの劇的な表現と言ったらいいだろうか。
まず、前奏曲はとても美しい。
こういう色彩的な表現は小澤さんの得意とするところ。
続く第1部の歌は全体にヴァルデマーのトーヴェに対する
逸る気持ちを表現しているような切迫感に溢れている。
そして情熱的に盛り上がったオケによる間奏は
やがて淋しげな響きに移り、山鳩の悲愴な歌へと繋がっていく。
第3部のおどろおどろしい感じの百鬼夜行、
滑稽な農夫や道化もそれらしくてよいが、
何と言っても最後の合唱が感動的。
このエンディングにはゾクっとさせられたものだ。

さて、ここでブーレーズ盤との比較をちょっとしっておこう。
というのもブーレーズはシェーンベルクの曲を一通り録音していて
というか、僕はシェーンベルクの曲はブーレーズで聴くことが
多いからだ。

ブーレーズの『グレの歌』は、ニューヨーク・フィルと録れた
『浄夜』などに比べるとずっとしなやかだ。
少なくとも第1部に関しては、である。
小澤さんの演奏の感想でヴァーグナーの楽劇のよう、と書いたが、
そう言えばこの録音のあと、1976年からブーレーズは
バイロイトに出演していて、ヴァーグナーの『指輪』などを
振っていたことを思い出した。
僕がまだ子供の頃だったが、ブーレーズがヴァーグナー?
と不思議に思いながら、当時は FM でバイロイトの録音を
流してくれていたのでそれを聴いていたのを思い出したのだ。

しかし、ここにはイヴォンヌ・ミントンとか
スティーヴ・ライヒとか、ブーレーズのシェーンベルク録音の
常連が参加していることで、シェーンベルクの音の変遷がわかって
実に興味深い。
第1部最後の「山鳩」はイヴォンヌ・ミントンが歌うが、
ここで既に僕には彼女が歌った『月に憑かれたピエロ』を
思い起こさせる。
第3部の新しい管弦楽の使い方もそう。
そして何より驚いたのは、最後の合唱前の「語り手」を
スティーヴ・ライヒが担当するが、
小澤盤ではこの「語り手」はレチタティーヴォのようなものと
軽くそう捉えていたが、
スティーヴ・ライヒは冒頭からはっきりと
シュプリッヒゲザンクで歌うので、
後のシェーンベルクの音楽の特徴をはっきりと示していて
この音楽の終わりがシェーンベルクの新しい音楽の始まりを
予告するものとなり、それが日の出と重なっていくという
実にシェーンベルクの音の変遷、歴史をそのまま辿るような
演奏になっているのである。

実際、この曲は1900年から1911年まで10年に渡って書かれていて、
その間には交響詩『ペレアスとメリザンド』があり、
『5つの管弦楽曲』があり、『架空庭園の書』があり、
そしてこのあと『月に憑かれたピエロ』が来るのである。
ブーレーズの演奏はそのことを、小澤さんよりは淡々とした表現で
示してくれているように思う。

2024年4月27日土曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その6・マーラー『交響曲第1番』

今日は小澤さんがボストン響を指揮した
マーラーの『交響曲第1番』について書いてみようと思う。
これは自分にとっては何とも衝撃的な演奏だったのだ。

マーラーの交響曲も小澤さんが得意とするレパートリーの一つだ。
日経新聞に連載された「私の履歴書」では、
ミュンシュに指揮を教えてもらうために
タングルウッドの音楽祭に参加した時に、
宿舎で同室のホセ・セレブリエールがマーラーのスコアを勉強してて
そこで初めてマーラーのスコアを見たと書いている。
村上春樹さんとの対談集『小澤征爾さんと、音楽について話をする』
の中でそのことについて、小澤さんは次のように語っている。

「それはもう、すごいショックだったですよ。そういう音楽が存在したことすら、自分がそれまで知らなかったということが、まずショックだった。ぼくらがタングルウッドでチャイコフスキーとかドビュッシーとか、そういう音楽をやってるあいだに、こんなに必死になってマーラーを勉強しているやつがいたんだと思うと、真っ青になって、あわててスコアを取り寄せないわけにはいかなかった。だからそのあと、僕も一番、二番、五番あたりを死に物ぐるいで読み込みましたよ」

このタングルウッドの音楽祭に参加したのが1960年7月のこと。
そして小澤さんは1961年の4月にバーンスタインに招かれて
ニューヨークフィルの副指揮者に着任する。
ちょうどバーンスタインがマーラーにのめり込んでいた時期で、
きっとバーンスタインは機会を捉えては小澤さんに
マーラーの魅力を熱く語ったのだろうと僕は想像する。

1960年というのはマーラーの生誕100年に当たる年で
バーンスタインは2月7日に CBS で放送された
Young People's Concert で "Who is Gustav Mahler" 
(グスタフ・マーラーの魅力)のタイトルでマーラーを取り上げ、
生誕100年を祝って、ニューヨーク・フィルでは毎週のように
マーラーの音楽を演奏していることを告げ、若い皆さんにも
この誕生パーティーに参加してほしいからと、
『交響曲第4番』と『大地の歌』の一部を演奏するのだ。
番組の録画が YouTube に上がってこれを見ると
バーンスタインがマーラーの音楽を紹介する様は
とても嬉しそう、幸せそうに見える。

バーンスタインは CBS へのマーラーの交響曲全集録音で有名だが、
正にその第一弾が『交響曲第4番』で、クレジットを見ると
1960年2月1日とあるから、正に CBS の番組放送の直前だ。
ソプラノも番組と同じリーリ・グリストが担当している。
そして第二弾が『交響曲第3番』で、これは1961年4月3日の録音、
ということは、正に小澤さんの副指揮者就任直後で、
実際その録音の現場にいてバーンスタインがマーラーを指揮するのを
目の当たりにしていたに違いない。

後に、1965年に小澤さんがトロントに行く時に
バーンスタインはニューヨークにいるべきだ、と大反対したらしい。
先の「私の履歴書」によると、

「僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。」

とあるから、もしかしてマーラーを全曲演る条件で
バーンスタインがそれなら、と OK したのではないかと思うと
フッと笑えてくる。
その位、小澤さんとバーンスタインとマーラーとは
結びついているのではないかと。w

余談だが、先の村上春樹さんとの対談集では、
小澤さんと同時期に副指揮者を務めていた2人の話が出て来るが、
その2人の副指揮者と共に小澤さんが
Young People's Concert に登場するのが 1962年4月14日の放送。
この時の映像で若き日の小澤さんの指揮振りを見ることができる。
全体にほっそりとした印象を受けるけれども、
その指揮振りはとても力強く、後の小澤さんの情熱的な指揮振りを
予感させるものになっている。

例によって前置きが長くなった。
その小澤さんがボストン響を振って1977年に録れた
マーラーの『交響曲第1番』である。

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このディスクを僕は最初知らなかった。
というか、以前長々と書いた通り、僕はマーラーの音楽は苦手で
ずっと敬遠していたのだが、アニメの『銀河英雄伝説』で
マーラーの交響曲が使われているのを聞いて、
なるほどマーラーの交響曲というのは実は楽劇ないし劇伴であった
との独自かつ勝手な解釈、納得の下に
マーラーの交響曲を聴き始めたのだった。
その時、『交響曲第1番』に関してはもう定盤中の定盤、
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア響の演奏で聴いていた。

が、ある時手に取った『交響曲名曲名盤100』で
諸井誠さんがこの曲についてワルターのディスクについて触れた後、
こう書いていたのだ。

「ところで、これを聴く時に、小沢/ボストン so の場外ホーマ的大快演をぜひ一聴してほしい。録音も抜群。 小沢特有の澄明な抒情性を見事に抱えている。正にこれは青春の響きだ。オケ全員が心から小沢を大切にして弾いているのがビンビンわかるのも嬉しい。」

何ですと?
諸井さんはワルターがこの曲を「マーラーのウェルテルといいたい」
と評したことに触れつつ、青春を表現したものと解しておられるが、
その青春の響きが感じられるのが小澤さんの演奏だと言うのだ。

これを読んで僕は早速この小澤さんのディスクを手に入れた。
確かに、うん、素晴らしい。とても美しい響きで、
瑞々しい、という言葉はこういう音を表すためのものかと思える。
ワルターのは、何と言うか、「かくあるべし」というような
ある種の重みが感じられるのだが、
小澤さんの演奏で聴くと、そこに明るく軽い「舞い」が感じられ、
その響きは後年の『大地の歌』の第3楽章「青春について」を
思わせるのだ。
そう、『大地の歌』の萌芽が既に『第1』にあることを
小澤さんの演奏は気づかせてくれる。
始まりと終わり。それは正にニーチェ的な「永劫回帰」であり、
『大地の歌』の最後の歌詞、"Ewig(永遠)" に通ずる。

あと、小澤さんのこの演奏には、最終的にマーラーが削除した
「花の章」がちゃんと演奏されていることも嬉しい。
結果、ワルターの演奏とは全く異なる印象の曲に仕上がっていて、
実際、僕は小澤さんの演奏を聴いたあとで
もう一度ワルターの演奏を聴き直したくらいだ。

小澤さんは別に奇をてらっているわけではない。
寧ろ楽譜を丁寧に読んだらこうなった、というだけのことだろう。
ワルターはマーラーの弟子であって、マーラーの音楽についても
そして指揮法についても先生から教わった音楽を
僕等に届けてくれているのだと思う。
だからこそそこには「かくあるべし」的なものがあるのだが、
それとは異なる、楽譜そのものに込められた響きを
純粋に具体的な音にすることでそれとは異なる
新たな、新鮮な響きが生まれたというのはとても素晴らしいことだ。
この小澤さんの『第1番』に接して僕は、
もっとマーラーのいろんな演奏を聴いてみたいと感じた次第なのだ。

2024年4月21日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その5・レスピーギの管弦楽曲

前回は小澤さんがボストン響を指揮した
ベルリオーズの『幻想交響曲』について書いたけれども、
小澤さんはこの曲に限らずベルリオーズの作品では定評がある。
小澤さんの師匠でもあるミュンシュも当然、
ベルリオーズの作品の演奏では定評がある。
しかし残念ながら僕はこれらの作品にも演奏にも触れていない。
『ファウストの劫罰』とか『キリストの幼時』とか、
タイトルからして内容的にも管弦楽も凄そうな響きがあるし、
きっとそこには『幻想交響曲』に通ずる狂気にも似た
彼独特の管弦楽の響きがあるのだろうが、
他にも聴きたい曲、聴かなければならない曲はたくさんあるので
これらの曲は後回しにしている。
吉田秀和さんの300曲を聴くだけでもそれなりの時間とお金が
かかるのだから。。。

それにしても、ベルリオーズに限らず、小澤さんは
フランスもの、ドビュッシーやラベルなども定評がある。
小澤さんがボストン響から引き出す色彩的な表現が
こうした作曲家の作品と相性がいいからだろう。
そう言えば、吉田さんのリストに小澤さんの指揮ボストン響演奏の
デ・ファリャ『三角帽子』が挙がっているのが興味深い。
デ・ファリャと言えばもうアンセルメ指揮スイス・ロマンドの
定番があるので僕もそちらを聴いて満足していたが、
この度小澤さんが亡くなったのを機に吉田さんのリストを見直して
「しまった!」と思ったものである。
早速中古屋さんを回ったりしたがなかなか出ていない。
そのうち手に入ったら聴いてみたいものだ。

そして、この色彩的表現豊かな作品の流れにあるのが
レスピーギの作品で、小澤さんはこのレスピーギでも評価が高い。
ただ、僕がレスピーギを聴くようになったのは、ここ数年のこと。
それも吉田さんの『LP 300選』の記述が影響している。
レスピーギについて吉田さんは、

「例の『ローマの松』『ローマの泉』『ローマの祭日』三部作の作曲家 は、いわばイタリアのリムスキーみたいなものである。私は、今さらききたいとは、全然思わない。レスピーギでは、むしろ、この頃日本でもよくやられる『古代舞曲とアリア』などのほうが、清潔で、私は好きだ。これは近来演奏会でもさかんにとりあげられ、名盤も多いから、ここに入れておこうか。三〇〇選のほかの曲に比べてややおちるけれど、いわばイタリア・バロックの近代版として。」

その通り。レスピーギはリムスキー=コルサコフに
管弦楽法を師事しているので、その道では大家と言えるのだろう。
そのリムスキー=コルサコフとレスピーギについて
リヒャルト・シュトラウスのところで吉田さんはこう書いている。

「彼の交響詩から、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』という管弦楽のためのロンドは、ぬくわけにいかない。これは、ヨーロッパ三百年にわたって、星の数ほどかかれた近代管弦楽用の曲の中でも屈指の名作である。これにくらべれば、リムスキー=コルサコフだとかレスピーギだとか、その他もろもろの名家たちの同じジャンルの曲といえども、数等下だといっても過言ではなかろう。」

『ティル』は、例の『ツァラトゥストラかく語りき』とかに比べ
より小規模でより「かわいい」感じの曲であるけれども、
リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』も
レスピーギの「ローマ三部作」も、これには適わないということか。

そんなこんなで僕はレスピーギも後回しにしていたのだけれど、
『ローマの松』は管弦楽法の学習にいいということを聴いて
楽譜を買ったのは勿論、小澤さんの CD が、
「ローマ三部作」と『リュートのための古代舞曲とアリア』の
2枚をセットにして、しかも比較的安価で出ていたので
買って聴いてみた次第。

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これは門馬直美さんの『管弦楽・協奏曲名曲名盤100』で
お勧めされていたのを見ての購入。
曰く、「ローマ三部作」については、

「三部作を収めたレコードで、傑作とされていたのはトスカニーニ盤。よく歌っているし、歯切れがよく迫力がある。ただしこれはモノーラル。ステレオでは小沢のが新鮮な魅力をたたえ、量感も十分にある。」

続く『リュートのための古代舞曲とアリア』については、

「三つの組曲を収めたレコードでは、小沢かマリナーのものということになろう。どちらかというと、レスピーギに熱意をもっている小沢のほうが表現に積極性がある。」

と、このレスピーギの代表的な作品、何れも小澤さん推しだ。

そこでまず吉田さん推しの『古代舞曲とアリア』から
聴いてみたのだが、小澤さんの演奏はともかく、
やはり作品としてはイマイチだと感じた。
僕はこの曲、リュート協奏曲だと勘違いしていたのだが、
そうではなく、16〜17世紀のリュート作品を管弦楽にした、
という作品なのだ。
「古代」という日本語の訳語もイタリア語では、
「古い」という程度の意味しか持たない。
つまり、イタリア的にはバロックの初期か
それ以前の音楽なので「古い」と言っているわけだ。

しかし、そうであればじゃあヴィヴァルディやコレッリなどの
バロック音楽的な響きかというとそうではなく、
特に第1組曲や第2組曲については、そこに近代の管弦楽法を
適用しようとしているので何となく中途半端な印象を受ける。
寧ろ弦だけの第3組曲の方が、往時の合奏協奏曲を思い出させ
しっくり来るように思う。
吉田さんが「清潔で、好きだ」と表現したのはこの辺りかと感じ、
「イタリア・バロックの近代版」と評されたのも納得できる。
そういう意味では古楽を現代に蘇らせたものを
マリナーやイ・ムジチといった古楽が得意な演奏家より、
シンフォニーの響きを得意とする小澤さんの方が
実は適任なのかもしれない。
実際、この第3組曲での弦の響きはさわやかである。

さて、『ローマの松』。
吉田さんはこの曲を買っていないようだけれども、
第3楽章の「ジャニーコロの松」の管弦楽は美しく、素晴らしい。
静かに歌うクラリネットを、殆ど聞こえなくなるくらい
そうっと裏から支える弦とその絡み方の繊細なこと!
これに僕の好きな楽器であるピアノやチェレスタやハープが絡み、
心の底から癒される、美しい空間、美しいひととき。
こうした響きは勿論ドビュッシーの影響が感じられるわけだが、
そのドビュッシーを越えた美しさがここにはある。
この楽器と楽器との間で交わされる美しく繊細な会話は
はっきり言って小澤さんの方がトスカニーニより数段上と言える。

ところでこの第3楽章のスコアの最後のページに
"Grf." と書かれた不思議な楽器が登場する。
これは、"Grammofono", つまりレコードのことで、
グラモフォンから出ているレコード No. R.6105
「ナイチンゲールのさえずり」をかけるように、という指示なのだ。
そう、鳥のさえずりを楽器で表現するのでなく、
録音された本物の鳥の鳴き声を使うというもので、
これはサンプリング・ミュージックの走りと言える。
『ローマの松』は1924年の作品で、レスピーギはこのあと、
1927年に『鳥』という作品を発表しているけれども、
これは例の、ラモーのクラヴサン曲「めんどり」など
やはり古い時代の作品を管弦楽に仕立てたもので
あまり面白いものではなく、レコードを使う方がよほど斬新だ。
同じ鳥の声を音楽に取り入れるのなら、寧ろメシアンが面白い。
メシアンについてはまた後で別に書く予定なのでその時に。

「ジャニーコロの松」の他には、第2楽章「カタコンベの松」の
253章節目、"Ancora più mosso" と書かれた16分音符で刻まれる
グレゴリオ聖歌の合唱が荘厳に響き渡るようなところや、
第4楽章「アッピア街道の松」の、ティンパニと低弦が
ダンダン、ダンダンと4つで刻みながらだんだん盛り上がって来る、
この辺りの管弦楽の使い方は映画音楽でもよく耳にする感じで
そういう意味で大変勉強になる。
後者については、アッピア街道を軍隊が行進するのが
だんだんと近づいて来る、その感じを表しているらしいが、
近づいて来る過程でいろんな楽器が絡んで来る。
ラヴェルの『ボレロ』に似た趣向と言えるが、
やはりその楽器間のやりとりがはっきり聞こえて来るのは
小澤さんの演奏の方が素晴らしい。
トスカニーニの方はやはり録音技術の問題もあるのだろう。
迫力はあるけれども、低音の細かい絡みは団子になって聞こえない。

そう。こういう聴き方をするのは僕自身が作曲家だからかと思う。
作曲家がスコアのその場所にその楽器を入れたということは
たとえそれが pp であっても、他の楽器と同じ音程であっても、
その楽器がないと得られない響きがあるからだ。
僕はそういう個々の楽器の動きがはっきりと聴き取れる演奏を
「(楽譜が)見える演奏」と呼んでいる。
少なくともこれらのレスピーギ作品における小澤さんの演奏は、
管弦楽の大家であるこの人のスコアがよく見える
とても勉強になる演奏だと言えるのである。

2024年4月14日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その4・ベルリオーズ『幻想交響曲』

僕が吉田秀和さんの『LP 300選』の曲を
そこに掲載されたレコード表を元に
レコードを買って聴いていたことは前回書いたけれども、
今回その表を見直して今更のように驚いたのが、
ベルリオーズの『幻想交響曲』については、
ミュンシュ指揮ボストン響が最初に、
そして次に小澤征爾指揮ボストン響が2番目に、
その2枚だけ選ばれていることだ。

『幻想交響曲』と言えば、同じミュンシュが1968年に
パリ管と録れたものが一般的な評価が高い。
吉田さんが挙げている1962年にボストン響と録れたものも
結構人気はあって、全体にバランスが取れているのがパリ管、
サウンド面で迫力があるのがボストン響のバージョンだというのが
これまた一般的な評価である。
ここで吉田さんはそのボストン響のバージョンを選びつつ、
次選として選んだのが同じボストン響の小澤さんの盤というのが
今となっては実に興味深い。
これってある意味師弟対決ではないですか!w

かく言う僕が高校生だか大学生の時に初めて買ったのは、
吉田さんの選に基づいてミュンシュ/ボストン響のもの。
確かに迫力のある演奏だったのは覚えているが、
その LP にはラヴェルの『ボレロ』も収録されていて、
『ボレロ』は吉田さんの300曲には入っていなかったこともあり、
自分としては得した気分になっていたものだ。
この曲は、当時クロード・ルルーシュ監督の映画
『愛と哀しみのボレロ』が公開されて初めてその存在を知り、
カッコイイ曲だ! と思い、レコードが欲しかったのだ。
そう、ミュンシュのこの『ボレロ』も迫力があったように思う。

その後 CD ではパリ管のものを買ったりしていたが、
今回小澤さんの演奏と聴き比べるために
今一度ミュンシュのボストン響版も手に入れた次第。
残念なことに、今手に入る CD は『幻想』しか入ってなくて、
LP には入っていた『ボレロ』も1962年のボストン響で
聴いてみたいと思っている。
というのも、僕が持っている小澤征爾/ボストン響の CD には
何と『ボレロ』が一緒に収録されているからだ。
『ボレロ』でも師弟対決をしてみたいではないか!

さてそこで、新たに買い直したミュンシュ/ボストン響の
『幻想交響曲』、久しぶりに聴いてみて
改めてその迫力に圧倒された。
第4楽章「断頭台への行進」と第5楽章「サバトの夜の夢」が
派手な管弦楽でこの曲のクライマックスであるが、
まぁ、素人耳にもすぐわかる急激なアッチェレランド、
殆どソロのように目立って響く、迫力あるティンパニ、
この曲も持っている「狂気」を見事に表現してて素晴らしい。
そう、この曲にはチーンとした楽譜通りの演奏など相応しくない。
何と言っても "Symphonie fantastique" なのだから。

因みにこの英語で言う "fantastic" とか "fantasy" という言葉だが、
日本語で「ファンタスティック」とか「幻想的」と言うと、
美しくて幸せな夢物語のようなイメージがあるけれども、
この "fan-" という語根は元々ギリシャ語で「現れ」を意味し、
妖怪や幽霊を表す "phantom" と同じ意味合いの言葉なのだ。
現実には存在しない筈のものが見えることから、
「想像の産物」を意味するようになり、
これが芸術の分野では、フーガなどの形式がかっちりしたものとの
対比として、音楽家が自由に、その時々のインスピレーションで
即興的に演奏する音楽も "fantasy" と呼ばれるようになる。
J・S・バッハの曲に「半音階的幻想曲とフーガ」とか
「ファンタジーとフーガ(大フーガ)」とかあるのは、
何れも前半で即興的な演奏を繰り広げられるのが、
後半のフーガの部分と対比を成す構成となっている。
例の、「月光」の名前で親しまれるベートーヴェンの
「ピアノソナタ第14番嬰ハ短調」も、
元のタイトルは "Sonata quasi una Fantasia" で、
これは「幻想曲風ソナタ」というものだ。
そう言えばあの月光をイメージさせるという第1楽章の
同じ音型がずっと続く感じは、バッハのファンタジーや
前奏曲を想起させるとは思いませんか?

話が逸れた。
そんなわけで、僕としてはこの『幻想交響曲』に関しては、
最後の「サバトの夜の夢」でどれだけ狂うかが楽しみなのだ。

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指揮者ではなく、ボストン響の側から見るとこの曲は、
1954年にミュンシュと、1962年に再びミュンシュと、
そして1973年に小澤征爾さんと、というように
ほぼ10年の間隔で録音していることになる。
つまり長年ミュンシュの下にいたオケとしては、
この曲は勝手をよく知っている曲と言えるのではないだろうか。
だから、吉田さんの選んだ1962年のミュンシュ盤と
1973年の小澤盤との聞き比べは大変興味深いと言える。

小澤さんの CD を聴いて、まず第1楽章「夢、情熱」が始まり、
最初に感じたのは弦の美しさだ。
これが小澤さんの棒の成せる業なのか、とても繊細な響きで
見事にコントロールされているように感じられる。
それがはっきりするのは何と言っても第3楽章「舞踏会」で、
この楽章ではつまりワルツが展開されるのだが、
ここでミュンシュ盤では弦はより太く迫力ある演奏だが、
小澤さんの盤では優雅に典雅にしなやかな演奏になっている。
これを聴くとなるほど後に小澤さんがウィーンに呼ばれたのも
宜なるかな、と思う次第である。

さて、問題の第4、第5楽章。
これはもう、狂い方としたらやはりミュンシュの方が上なのだが、
小澤さんも流石にミュンシュのような、
露骨なテンポの上げ方はしないけれども、
逆に安定しているように見えてじわじわと盛り立てて来る
その感じはある意味理想的とも言える。
事実、今回 CD の演奏時間を見比べて驚いたのだが、
第4楽章も第5楽章も、小澤さんの方が短い、つまり速いのだ。
これは魔法としか言いようがない。
変な言い方かもしれないが、同じミュンシュでも
パリ管のバージョンの方がこの三者の中では演奏時間が最も長い。
そして最も安定した演奏を聴かせてくれると言える。
小澤さんの演奏は2つのミュンシュの演奏の間にある
安定した演奏と狂ったような迫力ある演奏の
中間を行きながら、しかも演奏時間が最も短いという
実に不思議な魔法を見せてくれているのである。

先に、小澤さんの指揮になる弦の響きが
ミュンシュの時のものとは異なることについて書いたが、
反対に第5楽章で、あのソロを奏でるようなティンパニの響きは、
小澤さんの指揮の下でも健在だ。
それから、同じ第5楽章で鳴り響く鐘の音も、
ミュンシュ時代と同じ音色で素晴らしい。
実は僕は、ミュンシュ/パリ管のバージョンでは、
鐘の響きがどこか詰まったような感じがしてあまり好きでないのだ。
ボストン響では、ミュンシュの時も、小澤さんの時も
明るく澄み渡った響きなのが僕の好みに合っている。
つまり、小澤さんは、ボストン響にミュンシュが遺したものを
うまく生かしつつも、彼なりの新しい響きを引き出すことに
成功しているように僕には思える。

ただ、個人的な趣味の問題として1つ残念なのは、あれかな、
第5楽章の最後の方で、弦楽器に「コル・レーニョ」の指定が
されているところがある。
これは弦を弾く時に、弓の、馬の毛が張られている部分ではなく、
それを支える木の方、つまり竿の方を弦に当てて弾くもので、
当然のことながら、あの弦の豊かな艶のある響きではなくて
カサカサした、音量もあまりないノイズのような響きになるもので、
魔物やら妖怪やらが跋扈するこの第5楽章でベルリオーズは、
ガイコツがカラカラと音を立てながら踊る様子を
この奏法で表そうとしたらしい。
このガイコツがワチャワチャ踊ってる感が溢れるのは
やはりミュンシュの1962年のボストン響のバージョンだ。
小澤さんの指揮のバージョンではこのカサカサした音が
3枚の CD の中では一番大人しいと言える。

まぁ、小澤さんの場合は、ベルリオーズがおどろおどろしい感じを
出すために要所要所に仕掛けたギミック1つ1つに拘るより、
音楽全体の効果を考えて演出したんだろうな、と今は思えますね。
だから安定感ありながらも迫力のある演奏で、
演奏時間も短くなっているわけで。
このように考えて来ると、何故吉田さんが、
敢えてミュンシュと小澤さんのこの2枚を選んだのか、
今となってては納得が行くように思える。