2024年4月21日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その5・レスピーギの管弦楽曲

前回は小澤さんがボストン響を指揮した
ベルリオーズの『幻想交響曲』について書いたけれども、
小澤さんはこの曲に限らずベルリオーズの作品では定評がある。
小澤さんの師匠でもあるミュンシュも当然、
ベルリオーズの作品の演奏では定評がある。
しかし残念ながら僕はこれらの作品にも演奏にも触れていない。
『ファウストの劫罰』とか『キリストの幼時』とか、
タイトルからして内容的にも管弦楽も凄そうな響きがあるし、
きっとそこには『幻想交響曲』に通ずる狂気にも似た
彼独特の管弦楽の響きがあるのだろうが、
他にも聴きたい曲、聴かなければならない曲はたくさんあるので
これらの曲は後回しにしている。
吉田秀和さんの300曲を聴くだけでもそれなりの時間とお金が
かかるのだから。。。

それにしても、ベルリオーズに限らず、小澤さんは
フランスもの、ドビュッシーやラベルなども定評がある。
小澤さんがボストン響から引き出す色彩的な表現が
こうした作曲家の作品と相性がいいからだろう。
そう言えば、吉田さんのリストに小澤さんの指揮ボストン響演奏の
デ・ファリャ『三角帽子』が挙がっているのが興味深い。
デ・ファリャと言えばもうアンセルメ指揮スイス・ロマンドの
定番があるので僕もそちらを聴いて満足していたが、
この度小澤さんが亡くなったのを機に吉田さんのリストを見直して
「しまった!」と思ったものである。
早速中古屋さんを回ったりしたがなかなか出ていない。
そのうち手に入ったら聴いてみたいものだ。

そして、この色彩的表現豊かな作品の流れにあるのが
レスピーギの作品で、小澤さんはこのレスピーギでも評価が高い。
ただ、僕がレスピーギを聴くようになったのは、ここ数年のこと。
それも吉田さんの『LP 300選』の記述が影響している。
レスピーギについて吉田さんは、

「例の『ローマの松』『ローマの泉』『ローマの祭日』三部作の作曲家 は、いわばイタリアのリムスキーみたいなものである。私は、今さらききたいとは、全然思わない。レスピーギでは、むしろ、この頃日本でもよくやられる『古代舞曲とアリア』などのほうが、清潔で、私は好きだ。これは近来演奏会でもさかんにとりあげられ、名盤も多いから、ここに入れておこうか。三〇〇選のほかの曲に比べてややおちるけれど、いわばイタリア・バロックの近代版として。」

その通り。レスピーギはリムスキー=コルサコフに
管弦楽法を師事しているので、その道では大家と言えるのだろう。
そのリムスキー=コルサコフとレスピーギについて
リヒャルト・シュトラウスのところで吉田さんはこう書いている。

「彼の交響詩から、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』という管弦楽のためのロンドは、ぬくわけにいかない。これは、ヨーロッパ三百年にわたって、星の数ほどかかれた近代管弦楽用の曲の中でも屈指の名作である。これにくらべれば、リムスキー=コルサコフだとかレスピーギだとか、その他もろもろの名家たちの同じジャンルの曲といえども、数等下だといっても過言ではなかろう。」

『ティル』は、例の『ツァラトゥストラかく語りき』とかに比べ
より小規模でより「かわいい」感じの曲であるけれども、
リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』も
レスピーギの「ローマ三部作」も、これには適わないということか。

そんなこんなで僕はレスピーギも後回しにしていたのだけれど、
『ローマの松』は管弦楽法の学習にいいということを聴いて
楽譜を買ったのは勿論、小澤さんの CD が、
「ローマ三部作」と『リュートのための古代舞曲とアリア』の
2枚をセットにして、しかも比較的安価で出ていたので
買って聴いてみた次第。

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これは門馬直美さんの『管弦楽・協奏曲名曲名盤100』で
お勧めされていたのを見ての購入。
曰く、「ローマ三部作」については、

「三部作を収めたレコードで、傑作とされていたのはトスカニーニ盤。よく歌っているし、歯切れがよく迫力がある。ただしこれはモノーラル。ステレオでは小沢のが新鮮な魅力をたたえ、量感も十分にある。」

続く『リュートのための古代舞曲とアリア』については、

「三つの組曲を収めたレコードでは、小沢かマリナーのものということになろう。どちらかというと、レスピーギに熱意をもっている小沢のほうが表現に積極性がある。」

と、このレスピーギの代表的な作品、何れも小澤さん推しだ。

そこでまず吉田さん推しの『古代舞曲とアリア』から
聴いてみたのだが、小澤さんの演奏はともかく、
やはり作品としてはイマイチだと感じた。
僕はこの曲、リュート協奏曲だと勘違いしていたのだが、
そうではなく、16〜17世紀のリュート作品を管弦楽にした、
という作品なのだ。
「古代」という日本語の訳語もイタリア語では、
「古い」という程度の意味しか持たない。
つまり、イタリア的にはバロックの初期か
それ以前の音楽なので「古い」と言っているわけだ。

しかし、そうであればじゃあヴィヴァルディやコレッリなどの
バロック音楽的な響きかというとそうではなく、
特に第1組曲や第2組曲については、そこに近代の管弦楽法を
適用しようとしているので何となく中途半端な印象を受ける。
寧ろ弦だけの第3組曲の方が、往時の合奏協奏曲を思い出させ
しっくり来るように思う。
吉田さんが「清潔で、好きだ」と表現したのはこの辺りかと感じ、
「イタリア・バロックの近代版」と評されたのも納得できる。
そういう意味では古楽を現代に蘇らせたものを
マリナーやイ・ムジチといった古楽が得意な演奏家より、
シンフォニーの響きを得意とする小澤さんの方が
実は適任なのかもしれない。
実際、この第3組曲での弦の響きはさわやかである。

さて、『ローマの松』。
吉田さんはこの曲を買っていないようだけれども、
第3楽章の「ジャニーコロの松」の管弦楽は美しく、素晴らしい。
静かに歌うクラリネットを、殆ど聞こえなくなるくらい
そうっと裏から支える弦とその絡み方の繊細なこと!
これに僕の好きな楽器であるピアノやチェレスタやハープが絡み、
心の底から癒される、美しい空間、美しいひととき。
こうした響きは勿論ドビュッシーの影響が感じられるわけだが、
そのドビュッシーを越えた美しさがここにはある。
この楽器と楽器との間で交わされる美しく繊細な会話は
はっきり言って小澤さんの方がトスカニーニより数段上と言える。

ところでこの第3楽章のスコアの最後のページに
"Grf." と書かれた不思議な楽器が登場する。
これは、"Grammofono", つまりレコードのことで、
グラモフォンから出ているレコード No. R.6105
「ナイチンゲールのさえずり」をかけるように、という指示なのだ。
そう、鳥のさえずりを楽器で表現するのでなく、
録音された本物の鳥の鳴き声を使うというもので、
これはサンプリング・ミュージックの走りと言える。
『ローマの松』は1924年の作品で、レスピーギはこのあと、
1927年に『鳥』という作品を発表しているけれども、
これは例の、ラモーのクラヴサン曲「めんどり」など
やはり古い時代の作品を管弦楽に仕立てたもので
あまり面白いものではなく、レコードを使う方がよほど斬新だ。
同じ鳥の声を音楽に取り入れるのなら、寧ろメシアンが面白い。
メシアンについてはまた後で別に書く予定なのでその時に。

「ジャニーコロの松」の他には、第2楽章「カタコンベの松」の
253章節目、"Ancora più mosso" と書かれた16分音符で刻まれる
グレゴリオ聖歌の合唱が荘厳に響き渡るようなところや、
第4楽章「アッピア街道の松」の、ティンパニと低弦が
ダンダン、ダンダンと4つで刻みながらだんだん盛り上がって来る、
この辺りの管弦楽の使い方は映画音楽でもよく耳にする感じで
そういう意味で大変勉強になる。
後者については、アッピア街道を軍隊が行進するのが
だんだんと近づいて来る、その感じを表しているらしいが、
近づいて来る過程でいろんな楽器が絡んで来る。
ラヴェルの『ボレロ』に似た趣向と言えるが、
やはりその楽器間のやりとりがはっきり聞こえて来るのは
小澤さんの演奏の方が素晴らしい。
トスカニーニの方はやはり録音技術の問題もあるのだろう。
迫力はあるけれども、低音の細かい絡みは団子になって聞こえない。

そう。こういう聴き方をするのは僕自身が作曲家だからかと思う。
作曲家がスコアのその場所にその楽器を入れたということは
たとえそれが pp であっても、他の楽器と同じ音程であっても、
その楽器がないと得られない響きがあるからだ。
僕はそういう個々の楽器の動きがはっきりと聴き取れる演奏を
「(楽譜が)見える演奏」と呼んでいる。
少なくともこれらのレスピーギ作品における小澤さんの演奏は、
管弦楽の大家であるこの人のスコアがよく見える
とても勉強になる演奏だと言えるのである。

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