2024年4月14日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その4・ベルリオーズ『幻想交響曲』

僕が吉田秀和さんの『LP 300選』の曲を
そこに掲載されたレコード表を元に
レコードを買って聴いていたことは前回書いたけれども、
今回その表を見直して今更のように驚いたのが、
ベルリオーズの『幻想交響曲』については、
ミュンシュ指揮ボストン響が最初に、
そして次に小澤征爾指揮ボストン響が2番目に、
その2枚だけ選ばれていることだ。

『幻想交響曲』と言えば、同じミュンシュが1968年に
パリ管と録れたものが一般的な評価が高い。
吉田さんが挙げている1962年にボストン響と録れたものも
結構人気はあって、全体にバランスが取れているのがパリ管、
サウンド面で迫力があるのがボストン響のバージョンだというのが
これまた一般的な評価である。
ここで吉田さんはそのボストン響のバージョンを選びつつ、
次選として選んだのが同じボストン響の小澤さんの盤というのが
今となっては実に興味深い。
これってある意味師弟対決ではないですか!w

かく言う僕が高校生だか大学生の時に初めて買ったのは、
吉田さんの選に基づいてミュンシュ/ボストン響のもの。
確かに迫力のある演奏だったのは覚えているが、
その LP にはラヴェルの『ボレロ』も収録されていて、
『ボレロ』は吉田さんの300曲には入っていなかったこともあり、
自分としては得した気分になっていたものだ。
この曲は、当時クロード・ルルーシュ監督の映画
『愛と哀しみのボレロ』が公開されて初めてその存在を知り、
カッコイイ曲だ! と思い、レコードが欲しかったのだ。
そう、ミュンシュのこの『ボレロ』も迫力があったように思う。

その後 CD ではパリ管のものを買ったりしていたが、
今回小澤さんの演奏と聴き比べるために
今一度ミュンシュのボストン響版も手に入れた次第。
残念なことに、今手に入る CD は『幻想』しか入ってなくて、
LP には入っていた『ボレロ』も1962年のボストン響で
聴いてみたいと思っている。
というのも、僕が持っている小澤征爾/ボストン響の CD には
何と『ボレロ』が一緒に収録されているからだ。
『ボレロ』でも師弟対決をしてみたいではないか!

さてそこで、新たに買い直したミュンシュ/ボストン響の
『幻想交響曲』、久しぶりに聴いてみて
改めてその迫力に圧倒された。
第4楽章「断頭台への行進」と第5楽章「サバトの夜の夢」が
派手な管弦楽でこの曲のクライマックスであるが、
まぁ、素人耳にもすぐわかる急激なアッチェレランド、
殆どソロのように目立って響く、迫力あるティンパニ、
この曲も持っている「狂気」を見事に表現してて素晴らしい。
そう、この曲にはチーンとした楽譜通りの演奏など相応しくない。
何と言っても "Symphonie fantastique" なのだから。

因みにこの英語で言う "fantastic" とか "fantasy" という言葉だが、
日本語で「ファンタスティック」とか「幻想的」と言うと、
美しくて幸せな夢物語のようなイメージがあるけれども、
この "fan-" という語根は元々ギリシャ語で「現れ」を意味し、
妖怪や幽霊を表す "phantom" と同じ意味合いの言葉なのだ。
現実には存在しない筈のものが見えることから、
「想像の産物」を意味するようになり、
これが芸術の分野では、フーガなどの形式がかっちりしたものとの
対比として、音楽家が自由に、その時々のインスピレーションで
即興的に演奏する音楽も "fantasy" と呼ばれるようになる。
J・S・バッハの曲に「半音階的幻想曲とフーガ」とか
「ファンタジーとフーガ(大フーガ)」とかあるのは、
何れも前半で即興的な演奏を繰り広げられるのが、
後半のフーガの部分と対比を成す構成となっている。
例の、「月光」の名前で親しまれるベートーヴェンの
「ピアノソナタ第14番嬰ハ短調」も、
元のタイトルは "Sonata quasi una Fantasia" で、
これは「幻想曲風ソナタ」というものだ。
そう言えばあの月光をイメージさせるという第1楽章の
同じ音型がずっと続く感じは、バッハのファンタジーや
前奏曲を想起させるとは思いませんか?

話が逸れた。
そんなわけで、僕としてはこの『幻想交響曲』に関しては、
最後の「サバトの夜の夢」でどれだけ狂うかが楽しみなのだ。

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指揮者ではなく、ボストン響の側から見るとこの曲は、
1954年にミュンシュと、1962年に再びミュンシュと、
そして1973年に小澤征爾さんと、というように
ほぼ10年の間隔で録音していることになる。
つまり長年ミュンシュの下にいたオケとしては、
この曲は勝手をよく知っている曲と言えるのではないだろうか。
だから、吉田さんの選んだ1962年のミュンシュ盤と
1973年の小澤盤との聞き比べは大変興味深いと言える。

小澤さんの CD を聴いて、まず第1楽章「夢、情熱」が始まり、
最初に感じたのは弦の美しさだ。
これが小澤さんの棒の成せる業なのか、とても繊細な響きで
見事にコントロールされているように感じられる。
それがはっきりするのは何と言っても第3楽章「舞踏会」で、
この楽章ではつまりワルツが展開されるのだが、
ここでミュンシュ盤では弦はより太く迫力ある演奏だが、
小澤さんの盤では優雅に典雅にしなやかな演奏になっている。
これを聴くとなるほど後に小澤さんがウィーンに呼ばれたのも
宜なるかな、と思う次第である。

さて、問題の第4、第5楽章。
これはもう、狂い方としたらやはりミュンシュの方が上なのだが、
小澤さんも流石にミュンシュのような、
露骨なテンポの上げ方はしないけれども、
逆に安定しているように見えてじわじわと盛り立てて来る
その感じはある意味理想的とも言える。
事実、今回 CD の演奏時間を見比べて驚いたのだが、
第4楽章も第5楽章も、小澤さんの方が短い、つまり速いのだ。
これは魔法としか言いようがない。
変な言い方かもしれないが、同じミュンシュでも
パリ管のバージョンの方がこの三者の中では演奏時間が最も長い。
そして最も安定した演奏を聴かせてくれると言える。
小澤さんの演奏は2つのミュンシュの演奏の間にある
安定した演奏と狂ったような迫力ある演奏の
中間を行きながら、しかも演奏時間が最も短いという
実に不思議な魔法を見せてくれているのである。

先に、小澤さんの指揮になる弦の響きが
ミュンシュの時のものとは異なることについて書いたが、
反対に第5楽章で、あのソロを奏でるようなティンパニの響きは、
小澤さんの指揮の下でも健在だ。
それから、同じ第5楽章で鳴り響く鐘の音も、
ミュンシュ時代と同じ音色で素晴らしい。
実は僕は、ミュンシュ/パリ管のバージョンでは、
鐘の響きがどこか詰まったような感じがしてあまり好きでないのだ。
ボストン響では、ミュンシュの時も、小澤さんの時も
明るく澄み渡った響きなのが僕の好みに合っている。
つまり、小澤さんは、ボストン響にミュンシュが遺したものを
うまく生かしつつも、彼なりの新しい響きを引き出すことに
成功しているように僕には思える。

ただ、個人的な趣味の問題として1つ残念なのは、あれかな、
第5楽章の最後の方で、弦楽器に「コル・レーニョ」の指定が
されているところがある。
これは弦を弾く時に、弓の、馬の毛が張られている部分ではなく、
それを支える木の方、つまり竿の方を弦に当てて弾くもので、
当然のことながら、あの弦の豊かな艶のある響きではなくて
カサカサした、音量もあまりないノイズのような響きになるもので、
魔物やら妖怪やらが跋扈するこの第5楽章でベルリオーズは、
ガイコツがカラカラと音を立てながら踊る様子を
この奏法で表そうとしたらしい。
このガイコツがワチャワチャ踊ってる感が溢れるのは
やはりミュンシュの1962年のボストン響のバージョンだ。
小澤さんの指揮のバージョンではこのカサカサした音が
3枚の CD の中では一番大人しいと言える。

まぁ、小澤さんの場合は、ベルリオーズがおどろおどろしい感じを
出すために要所要所に仕掛けたギミック1つ1つに拘るより、
音楽全体の効果を考えて演出したんだろうな、と今は思えますね。
だから安定感ありながらも迫力のある演奏で、
演奏時間も短くなっているわけで。
このように考えて来ると、何故吉田さんが、
敢えてミュンシュと小澤さんのこの2枚を選んだのか、
今となってては納得が行くように思える。

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