2024年9月23日月曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・結び

 前回お見せした生成文法の図を生成 AI との関連で
勤務先の IT 部門のメンバーに示したのは昨年の6月頃のようだ。
結論として、英語のレベルを上げたかったら、
たくさん生の英語に、雑誌やテレビや映画を見て生の英語に
触れることなんだよ、と伝えたのだが、
「それではいつになることやら」とか
「コンピュータには勝てない」とか絶望的な反応があった。w
そうだろうと思って用意していたのが、
以前ナショナルジオグラフィックで見かけた記事から作った次の表。

240923a

その記事は2007年のものなので、現在の PC の容量は
約10倍になっていると考えてよいと思うけれども、
そして、AI になるともっと容量は大きいと思うけれども、
人間の脳のシナプス数が桁違いに大きいことに注目されたい。
AI を過大評価すべきではないし、
人間の能力というものをもっと信じるべきなのである。
我々大人が「いつのことになるやら」と思ってしまうことを
子供はあっという間に習得してしまうのだから。

     *   *   *

ところで、前回示した生成文法の図は、
左側が日本語、右側が英語と、何れも言語を並べたのだが、
時枝誠記さんが言うように言語が音楽や絵画などの芸術と同じ
一つの表現であるに過ぎないとすれば、この図を拡大して
左側に言語、右側に音楽を持って来てもよいわけである。
実際、バーンスタインの『答えのない質問』の講義の6回目で
それに似た絵が出て来る。
更にバーンスタインは表現されたものとしての詩と音楽を
統合する絵まで出して来る。
そうなのである。
ウォルター・ペイターは「あらゆる芸術は音楽の状態に憧れる」
と書いたけれども、もっと言うと、
あらゆる芸術は統合され、相互に補完し合う状態に憧れるのだ。
それこそヴァーグナーが「楽劇」という形式で行おうとしたことだし、
日本の「歌舞伎」が実現していることなのだ。

     *   *   *

こうしてバーンスタインは、言語学や哲学の立場から
音楽というものを捉え直しているように思われるのだが、
僕がやろうとしていることはその反対に、
音楽の側から哲学を捉え直してみようということなのである。
大変長い前置きになったけれども、
こうして昨年生成 AI の登場をきっかけに学び直した生成文法、
小澤征爾さんの逝去をきっかけに触れたアイヴスの音楽と
バーンスタインの一連の講義、
そして今年の SL21B をきっかけに読んだ
ワインバーグの『宇宙創成はじめの3分間』、
こうしたものが今年の Burn 2 のテーマを見て1つになったのだ。
そう、今年の Burn 2 のテーマは、『不思議の国のアリス』から
"Curioser and Curioser" となっていて、曰く、
「答えのないパズルを讃え、不合理と馬鹿馬鹿しさを大切にし、
知らない人や未知のものをお茶に招こう」というものなのだ。
この「答えのないパズル」が「答えのない質問」を想起させたことは
ここまで読んでくれた方ならすぐにわかるだろう。

今年、Burn 2 の終わるその日に、4枚目のアルバムを出す予定だが、
これまで SL で演奏してきた曲をリリースするのは
これが最後になると思う。
そのあとは、哲学的なテーマを音楽で表現してみたいと考えている。
今年の Burn 2 はその新しい活動のはじまりとなるだろう。
Hiroshi Kumaki の音楽の第2章のはじまりである。

2024年9月17日火曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その4

 う〜ん、どこから話そう。
生成文法のことである。

「文法」と言えば皆さんがイメージするのは
高校の時に学んだ「英文法」や、中学校の時の「国文法」であろう。
これらの文法の体系は元はと言えば言語学から来ているが、
その言語学は古代ギリシャのホメロスの叙事詩などを
解読するために生まれたものだと言っていい。
ホメロスの叙事詩を解読するために書かれている文のルールが
一つ一つ検討され、そこで所謂「品詞」のような
単語のカテゴリー分けや活用表などが作られたのだ。
これが後にローマ帝国の時代にラテン語にも応用され、
更にヨーロッパ語の文法体系の規範となっていくのである。

やがて、研究が進むにつれ、サンスクリットなどのインドの言葉と
ヨーロッパ諸語は起源が同じであることが明らかにされる。
インド=ヨーロッパ語族と呼ばれるようになるそれである。
起源が同じであるとわかると話は早い。
古代ゲルマン語のこの単語はプロヴァンス語のこれに当たる、
というようなことがわかると、あと、それぞれの言語のルールが
わかると、ほぼ機械的に置き換えによる翻訳が可能なのである。

そして、日本でもまた、文字というものは中国から入って来た
漢字を使うようになり、中国語と日本語は語順が違うので
返り点を打ったり、中国語にはない「てにをは」を補うことで
中国語を日本語として読むことが可能になったのである。
これもまた、機械的な置き換えによる翻訳と言えるだろう。

これらヨーロッパでも日本でも、何れの場合でも、
表現されている「文」の置き換えができれば、
その内容を理解できるという考えの下に
言語学乃至は国語学は現在に至っていると言っていい。

しかし、日本語には有名な「僕はうなぎだ」という文例がある。
これは勿論、友だちと定食屋に行ってメニューを決める時の発言で、
「僕はうなぎにする、うなぎに決めた」という意味で、
別に特殊でもなんでもない普通の表現である。
が、これを従来の文から文への置換を行うと
英語では "I am an eel." というアヤシイ内容になってしまう。

時枝誠記(ときえだもとき)さんという国語学者がいて、
この方は学位論文で「言語過程説」というのを打ち立てた。
即ち、発話というのは音楽や絵画や小説や詩と同じように
その人の表現の一形態に過ぎないのであって、
音楽や絵画や文学がその背景にその作曲家や画家や作家の
表現したいものというのがあるのと同様、
言語による発話にもその背景に表現したい何かがあるのだ、
従って発話(文)そのものの意味というのは絶対ではない、
といったことを訴えたのだ。
その学位論文が出たのが1925年。

そして、1955年にノーム・チョムスキーという人が
「生成文法」の元になる考え方を示す。
何故、子供は文法を勉強せずに正しい言葉づかいを覚えるのか?
それは、どのような言語であれ、その言語に触れる経験を重ねる中、
ほぼ自動的にその言語のルール、文法を整理構築する能力を
人間は生まれながらにして持っているのだ、という考えであり、
チョムスキーはこの能力を「普遍文法」と名付けた。

この普遍文法について僕なりに理解しているところを
下の図に整理してみた。

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最近、AI 翻訳になって何故翻訳の精度が上がったか。
つまり、以前の機械翻訳に「この本は読んだ」と入れると
"This book read." という訳が返って来ていたが、
今はちゃんと"I read this book." と訳してくれる。
これは、AI がそれぞれの言語の膨大なデータベースに基づいて
より精密なルールでこの文の意味はきっとこうだと
普遍文法的な処理をしているからだろうと僕は見ている。
(言い方を変えると、AI の真似をして
 たくさんその言葉を経験すれば語学の上達は早いのだ。^^)

この生成文法が前提にしているのも、時枝さんと同じく、
話者の頭の中にあるイメージ、内容である。
これを日本語のルールを通せば「僕はうなぎだ」になるし、
英語のルールを通せば "I'll take an eel bowl." となるのだが、
頭の中のイメージを抜きにして「僕はうなぎだ」を
文のレベルで訳してしまうと "I am an eel." になってしまうのだ。
(こう考えると、例えば日本語を英語に訳す時、
 いきなりその文を英語で置き換えようとするのでなく、
 話者の頭の中のイメージに一回変換するとよいのだ。)

時枝さんは言語は音楽や絵画、文学と同じ表現としたのだが、
バーンスタインはこの逆に音楽も言語と同じ表現形式としたのだ。
「答えのない質問」の講義が言語学の用語である
音韻論、統語論、意味論で始まるのはある意味必然なのである。

2024年9月14日土曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その3

 前回書いた通り、アイヴスの「答えのない質問」は哲学的である。
ところで、この「答えのない質問」という日本語訳であるが、
他に「答えられない質問」という訳もある。
英語のタイトルは "The Unanswered Question" であるが、
この英語の含みは「まだ答えられていない質問」であり、
しかもそこに定冠詞 "the" が付いているので正確には
「まだ答えられていないあの質問」、そう、
何度も繰り返されたあの質問という意味なのである。
それが人間の存在に関わる質問、
哲学では問うてはいけないとされるあの質問のことなのだ。

しかし、バーンスタインは、これを音楽に関する質問と考える。
このアイヴスの「答えのない質問」が発表されたのは1908年だが、
同じ年、海を渡ったオーストリアのウィーンで
シェーンベルクが十二音技法のきっかけとなる無調の
「弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調作品10」を発表する。
そして翌1909年の「3つのピアノ曲作品11」で
完全に十二音技法の世界を確立していくのである。

そう。僕等は無調というといつもシェーンベルクの
十二音技法を思い出すのだ。
ヴァーグナーが調整が壊れるギリギリまで半音階を突き詰めた
楽劇『トリスタンとイゾルデ』の音楽、
それを耳にしたドビュッシーは「ヴァーグナーの先」を目指して
調性感に乏しい、ふわふわと浮遊するような音楽を書いたのだった。
しかし、そのドビュッシーですら、そしてストラヴィンスキーですら
まだ調性の枠の中で音楽を書いているのである。
壊れかかった調性音楽、その先はどこに向かうのか?
シェーンベルクの答えは十二音技法だったが、
アイヴスは三和音を奏で続ける、ロマン派的な美しい弦と
調性感のないトランペットや木管楽器群で
「音楽はこれからどこへ向かうのか」を問うたと
バーンスタインは見るのである。

そしてその答えを探す旅がバーンスタインがハーバードで行った
全6回のノートン講義「答えのない質問」なのである。


この講義の内容は次の通りだ。

Lecture I. Musical Phonology「音楽に於ける音韻論」
Lecture II. Musical Syntax「音楽に於ける統語論」
Lecture III. Musical Semantics「音楽に於ける意味論」
Lecture IV. The Delights and Dangers of Ambiguity「曖昧さの持つ楽しさと危険性」
Lecture V. The Twentieth Century Crisis「20世紀の危機」
Lecture VI. The Poetry of Earth「大地の詩(うた)」

最初の3回のタイトルをご覧頂ければわかるように、
音韻論、統語論、意味論というのは言語学の用語だ。
そう、バーンスタインは音楽を語るのに言語学の用語を用いて
言語学との対比、類推で語るのだ。
これがおもしろい。
何と言っても、第2回の統語論ではチョムスキーの生成文法が
飛び出して来たのには参った。
というのも、僕はちょうど昨年から盛り上がって来た
生成 AI に関連して、チョムスキーの生成文法を学び直しているからだ。
何故生成 AI が出て来てから機械翻訳の質が格段に上がったか、
それは結局のところ、生成 AI は生成文法の考え方に
基づいているからだと僕は考えるのだが、
この話をしだすとまた長くなるので今日はこの辺で。

2024年9月9日月曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その2

 バーンスタインの「答えのない質問」の講演を思い出したのも、
やはり小澤征爾さんと関係がある。

小澤さんの CD について書いている時に、
僕は吉田秀和さんの『LP 300選』を元に聴いていることに触れ、
その本の中で吉田さんが薦めている小澤さんのディスクを
書き並べたのだが、その時1つ書き漏らしたものがあることに
あとで気づいたのです。
それは、吉田さんが「追記」として、
アメリカの音楽家で挙げておかなければならなかったと書いている
チャールズ・アイヴスのディスクなのです。
これに気づいてこの本で挙げられている
ティルソン・トーマスが『イングランドの3つの物語』を
小澤さんが『交響曲第4番』を指揮しているディスクを買って
それを聴きながら、何か忘れている感じがずっとあったのです。
アイヴス、、、アイヴス、、、何かもっと有名な、
気になる曲があったような。。。

そして思い出したのがアイヴス1908年の作品
「答えのない質問」だったのです。
実は、この曲は僕にはずっと謎の曲でした。
というのは、この曲に初めて出会ったのはオーケストラでなく、
冨田勲さんのアルバム『宇宙幻想』にシンセアレンジで
入っているのを聴いたのが初めてだったのです。

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このアルバムには「ツァラトゥストラかく語りき」やら
「アランフエス協奏曲」やら、はたまた「パシフィック231」やら
僕好みの曲がいろいろ入っているのですが、
その中でこのアイヴスの曲だけが聞いたことがなかった。
正直、印象は薄いんだけれど、何とも不思議な響きの曲、
そんな風に思っていたのです。
この曲を突然思い出し、そしてバーンスタインの講演のタイトルを
思い出して、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの CD と
この曲の楽譜を手に入れたわけなんですが、
その楽譜にアイヴス自身はこんな解説を書いているではないですか。

「常に弱音器を付けて演奏される弦の響きは
 『何も知らず、何も見ず、何も聞こえない』ドルイドを表現」
「トランペットは存在についての長年の質問を繰り返す」

何と哲学的なモチーフなのでしょう!
「何も知らず、何も見ず、何も聞こえない」って
ガリアのドルイド僧よりは、日本の三猿を思い出させますよね。
前にも書いた通り、バーンスタインがこのアイヴスの曲のタイトルで
講演を行ったことは知っていたので、
そうであれば、どんな講演を行ったのか、
無性に知りたくなったわけなのです。
同時に、この曲に僕自身で取り組んでみたくなったのです。

     *   *   *

はい、というわけで、アイヴスの「答えのない質問」は、
今度の Burn2 で演奏する予定にしています。
今日のところはこの辺で。^^;

2024年9月8日日曜日

近況報告〜音楽哲学の試み・その1

 ヒロシです。大変ご無沙汰しています。
6月の終わりに SL21B に参加して以来、
7月の初めにこの日記を少し書いただけで、
8月は全く音沙汰ない状態が続いていましたね。
SL にも殆どインしていませんでしたので、
この間僕が何をしていたかについて、
ちょっと長くなるかもしれないけれど、書いてみることにします。

     *   *   *

高校生や大学生の頃、「音楽哲学」なるものについて
友人たちと語り合っていました。
「音楽の哲学」、即ち、「音楽の原理」のことではありません。
音楽という行為そのものが哲学的な問題、
「私たちはどこから来たのか」「自分は何故今ここにいるのか」
「私たちはこの先どこへ向かうのか」、そして究極の質問である
「存在とは何か」を考え、追求することにつながるというものです。
「哲学」と「音楽」という、最も趣味的で
最もお金にならないようなものの組み合わせが僕の中では
解き明かさなければならないものとして心の中にあったのでした。
社会人になってお金にならないものはつまらないもののように言う
周りの影響もあって、こうしたことは長い間忘れていました。
それを思い出させてくれたのが何と、
今年の SL21B だったというわけです。

今年の SL21B のテーマは "Elements" でしたので
自分のライブでは西洋の四大元素ではなく、中国の五行をテーマに
「五行組曲」というシンセサイザーの即興演奏による組曲を
皆さんには披露したわけですが、「元素」を扱うに当たって
やはりその元素が生まれたそもそもの初めである
「宇宙のはじまり」を表現しなければと思い、
冒頭に "Big Bang: First Three Minutes" という曲を置いたのです。
そう、宇宙が3分間でできたのなら、それは音楽にするには
ちょうどよい長さではないか、と。

私たちの住む宇宙が3分間でできたというのは
スティーヴン・ワインバーグが 1977 年に出版した
『宇宙創成はじめの三分間』で一般の人たちに広まりました。
僕もこの本のことは知っていて、昔立ち読みしたことはありますが、
ちゃんとは読んでなかった。
読むべき本のリストには入れていたものの、そのままになってて、
SL21B を機に、今はちくま文庫から出ているので、
仕事の行き帰りに電車の中でちょこちょこ読み始めたら
これがとても面白い!

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大学生の頃から思っているのですが、
アメリカの優れた科学者というのは皆文章がうまい。
ワインバーグのこの本も、難しい話が展開されているにも拘わらず、
各章の最後はクリフハンガーめいて気になる終わり方をするので、
え、え、それでどうなるの? と次の章も続けて読んでしまい、
あっと言う間に読み終えてしまう、という仕掛けになっています。
今更ですが、この本は目から鱗というか、そうだったのかぁ! と、
日本でニュートリノの実験が行われていたり、
その第一人者の小柴昌俊さんや素粒子物理学の南部陽一郎さんが
ノーベル賞を受賞したのが何故なのか、漸くわかってきた次第です。
このお二人にはそれぞれ
『ニュートリノ天体物理学入門 知られざる宇宙の姿を透視する』、
『クォーク 第2版―素粒子物理はどこまで進んできたか』という
何れも講談社のブルーバックスから出ている名著があって、
これも読みかけになっていたのを、ワインバーグの本を読んでから
一気に読み通すことができたのです。
更にはこれらの本で学んだことを確かめようと、
お台場にある科学みらい館に足を運んで一人興奮する始末。w

240908b

無限に広がる大宇宙のはじまりを解き明かすには
目には見えない量子レベルで起こっていることを知る必要がある、
これはとても興味深いことです。
しかも、現代の物理学では、
宇宙が始まった最初の100分の1秒前以前のことはわからない。
とすればその前は何があったのか、何もなかったのか、
或いはまた別の宇宙があったのか?
哲学でも問うてはならないとされる「存在とは何か?」の問いは
ここで物理学という、一見哲学から最も遠い学問のテーマとも
重なっていくのです。
そんなことを考えながら僕はあのビッグバンの曲に
取り組んでいたのでした。

     *   *   *

話は変わって、今年の2月に小澤征爾さんが亡くなりましたが、
その時に書いた日記で、小澤さんが指揮と語りを担当した
「ピーターと狼」や「青少年のための管弦楽入門」を録れた
CD について紹介しました。
その際僕は「あの気さくな語り口で、とても親しみがあっていい」
と書きましたが、そう書きながら僕が思い出していたのが
同じ指揮者のレナード・バーンスタインだったのです。
バーンスタインは1958年から1972年にかけて
Young People's Concerts という子供たちが
クラシック音楽の演奏会に親しめるような企画を行っていて
それが CBS のテレビで放送され、それが DVD にもなってますが、
そこでのバーンスタインの語り口がまた素晴らしいのです。
ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」は英語の原題を
The Young Person's Guide to the Orchestra というのですが、
小澤さんのあの語り口と、この曲の原題とが
バーンスタインの Young People's Concerts への連想に
つながったのだと思います。

CBS で放送されたバーンスタインの Young People's Concerts は
全部で53回あって、DVD を揃えるのはとても大変です。
一部は観たことがあるのですが、一度全部観てみたいと思って
調べてみたら、何とちゃんと YouTube に上がっているのですね。


それでちょこちょこ暇を見つけては、というよりは、
半分は仕事感覚で全53回観ましたよ。
第1回の「音楽って何?」から始まり、
第33回の「オーケストラの響き」とか、
僕等が半分当たり前に思っているようなことを
簡単な言葉で改めて整理してくれているのはとても勉強になります。
更に動画だけでなく、各回のスクリプトも公開されていますので、
興味のある方はどうぞ。


で、こういう長いシリーズを観終わると、
終わったことが淋しく、残念なものに思えて
続きはないかと期待したり、探したくなるもの。
それで思い出したのが同じバーンスタインが 1973 年に
ハーバード大学で行った6回の講義「答えのない質問」。
分厚い本になっているのは知っていて、大学の図書館で
パラパラめくってはいたけれども、やはりちゃんと読んでなくて、
あれもビデオになってないかと思って探したら
はい、やはりありましたよ。
そしてこれが超絶面白くて、今書いている「音楽哲学」を
呼び覚ますことになるのですが。。。

     *   *   *

長くなりましたので今日はこの辺で。
こうして本や動画を立て続けに読んだり観たりして
どっぷりその世界にハマって SL はおろそかになっていた
というわけなのです。^^;