SL22B ライブから早1週間が過ぎました。
翌日にご来場頂いた皆さんへのお礼と
ライブで使った詩の紹介をこの日記でさせて戴きましたが、
その時、一つ書くのを忘れていました。
歌ではなく、僕が朗読した韓愈の「獲麟解」のことです。
今日はそれについて書いておきます。
これは唐代の文人韓愈によるものですが、
僕がこの文章に出会ったのはアルゼンチンの作家
ホルヘ・ルイス・ボルヘスのエッセイの中だった、
というのは前回お話しした通りです。
その「カフカの先駆者たち」という文章、折角ですので、
スペイン語から訳したものをここにお目にかけておきましょう。
ボルヘス「カフカの先駆者たち」より
かつてカフカの先駆者を調べようと計画したことがある。はじめ私は、彼のことを修辞的な賛美の世界に現れた不死鳥のように、他には類のない、1回きりの特異な存在だと考えていた。しかし、何度も彼を訪ねているうちに、やがて私は様々な時代の様々な文学のテキストに、彼の声や習慣を認めることができると思うに至ったのである。そこで、ここにそのいくつかを時系列で記録しておこうと思う。……(中略)……
2番目のテキストは、たまたま出会った本で見つけたものだが、カフカとの類似性はその形式ではなく、その語り口にある。これは 9 世紀の散文作家・韓愈による寓話で、マルグリエの素晴らしい著書『中国文学論集』(1948 年)に掲載されているものだ。自分が印を付けた、神秘的で静謐な一節はこうだ。
「麒麟は超自然的な存在であり、吉兆をもたらすことは広く認められている。これは、頌歌、年代記、偉人の伝記、そして権威が疑う余地のないその他の文献によって明言されていることだ。村の子供や女性ですら麒麟が吉兆であることは知っている。しかし、この動物は家畜として扱われておらず、見つけるのも容易ではなく、分類も容易ではない。つまり、馬や雄牛、狼や鹿とは違うのだ。そのような状況では、自分の目の前に麒麟がいても、それが何なのか確信を以て知る事はできぬであろう。鬣(たてがみ)のある動物は馬、角のある動物は雄牛であるということはわかるのだが、麒麟がどのような姿をしているのか、我々は知らないのだ。」
ライブでは、このかっこの付いた引用部分を
原語のスペイン語で読み上げたわけです。
いかがでしょう?
確かに、カフカの文章が持つ不条理な響きが
ここには感じられるではありませんか。
そして、曲の後半は、韓愈の原典に当たって、
中国語でもよかったのですが、日本人に馴染みの深い
漢文の訓み下し文として全文を読み上げました。
では、その訓み下し文の全文をどうぞ。
韓愈「獲麟解」
麟の靈たること、昭昭たり。詩に詠じ、春秋に書し、傳記、百家の書に雑出す。婦人小子と雖も、皆、其の祥たることを知るなり。然れども麟の物たる、家に畜はれず、恆(つね)には天下に有らず。其の形たるや類せず、馬牛、犬豕(けんし)、豺狼(さいろう)、麋鹿の若く然るに非ず。然らば則ち、麟有りと雖も、其の麟たるを知るべからざるなり。角ある者は、吾、其の牛たるを知るなり。鬣(たてがみ)有る者は、吾、其の馬たるを知るなり。犬豕、豺狼、麋(び)鹿(ろく)は、吾、其の犬豕、豺狼、麋鹿たるを知るなり。麟たるや知るべからざるなり。知るべからざれば則ち其の之を不祥と謂ふや亦た宜なり。然りと雖も、麟の出ずるや、必ず聖人位に在る有り。麟、聖人の為に出づるなり。聖人は、必ず麟を知る。麟は之れ果たして不祥たらざるなり。又、曰く、麟の麟たる所以は、德を以てし、形を以てせず。若し麟の出づること聖人を待たざれば、則ち之を不祥と謂ふや亦た宜なりと。
いきなり難しい感じになってしまいますね!w
とまぁ、今回のライブはとっても文学的な内容になったなぁ、と
思い返しているところであります。