2025年9月11日木曜日

古代エジプトとニコラ・テスラと E = mc²

今年のバーニング・マンのアートテーマは
「Tomorrow Today」で、ユートピアでもなく
ディストピアでもなく、その中間の持続可能な未来を
自分たちの力で実現させよう、というもの。
僕自身は、それは可能なことだと考えています。
一つには、19世紀の産業革命以来、科学は進歩して来たのだけれど
その当時もそして今も、「その」科学は人間の生活を
ある程度便利にしたかもしれないけれども、
地球上の生命にとっても地球そのものにとっても、
そして人類自身にとっても、よくない影響を与える科学でした。
それは本来の科学ではないのではないか?
本来の科学はもっと人間の生活も地球環境も
豊かにするものだったのではないか、と思うのです。

先日「ラムセス大王展」に行って来たことを書きましたが、
僕が古代エジプトに惹かれるのは、
あの、現代の技術を以てしても難しいと言われるピラミッド、
あのピラミッドの建設には、現代と異なる別の科学が
使われたのではないか? という想像です。
例の、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』を読むと
今から1万500年ほど前に地球規模の大洪水、
ノアの洪水と思しき大洪水が起こり、
それまでに存在していた高度な文明が全て破壊され
それらの文明の科学技術をあまり知らない生き残りが
再出発してできたのが今の私たちに至る文明だと言うのです。
それは、あり得る話だと僕は考えていますし、
そうだとすると、その失われた文明こそ、
本来の科学だったのではないか、
そして、かつて存在したものならば、
もう一度それを取り戻すことができるのではないか、と。

古代エジプトは何千年という遠い昔の話ですが、
もっと近いところでは、20世紀の初めに電気を巡って
トーマス・エジソンとニコラ・テスラが競ったことがあります。
エジソンの方がテスラよりも有名で、
テスラと言っても自動車しか思い出さない方が多いでしょうが、
この方も様々な発明をした科学者で、
電気を伝えるのに、エジソンは電線を使いましたが、
テスラは大地や空気を媒体として電気を伝える方法を
実験していました。
電線はその敷設に空間も費用も掛かりますし
それが設置された場所にしか送れないという制約がありますが、
大地や空気を通して送るとなると、送電コストは安くなり、
また、どこにいても電気が使えるというメリットがあります。

実際、テスラは大地を媒介とする方法については
実験を成功させていて、これは現代の科学者も
テスラと同じ実験をして成功させています。
一方の空気を媒介とする方については、電気を送るための
タワーをテスラは建設しようとしていましたが、
テスラに可能性を感じて出資していた J・P・モーガンは
これが実現すれば電気によるお金儲けができなくなることを案じて
資金を引き揚げ、タワーを壊してしまったと聞きます。
よりお金がかかり、それ故にお金儲けができる
エジソンの技術が支援を受け、現代の私たちの生活に
つながっているというわけです。
ここでも、もしテスラの実験が成功して
それが実現していたら、僕らの生活はもっと違うものになっていた
可能性があるということです。

もう一度古代文明の話に戻ると、
ピラミッドのあの形、四角錐のあの形はベンベン石と呼ばれていて
世界各地のピラミッドだけでなく、やはり世界各地に残る
オベリスクのトップを飾るものでもあります。
古代文明の研究者の中には、これらのピラミッドやオベリスクは
互いにエネルギーを送受信する基地だったと考える人もいて
それはテスラがやろうとしていたことと被ります。
案外、テスラはその古代文明の秘密を知ってしまったのではないか。
そしてそれ故に、その偉大な文明の復活を怖れた人々から
消されてしまったのではないか?
そんなミステリーじみた陰謀論じみたことも
考えたくなってしまいます。

ピラミッドの建設には莫大なエネルギーを要したでしょうが、
エネルギーと言えば思い出すのがアインシュタインの公式

   E = mc²

です。
これは、エネルギーと質量とは等価であるということを
示した式で、この式が語っていることは奥が深いと感じています。
つまり、この式が示すのは、エネルギーから物質が産み出せるとも
物質からエネルギーが抽出できる、とも解釈できるからです。
原爆や原発はこの式から導かれる核分裂を使って実現されています。
核分裂とは反対の核融合を使えば莫大なエネルギーが
産み出されるはずですが、現段階ではまだまだ
実用レベルにはなっていないというのが実情です。
実は同じ核爆弾でも水爆はこの核融合のしくみを使っていますが、
そのためのエネルギーを得るのに核分裂を利用するという
中途半端な行き方になっています。

私たちにとって核融合の最も身近な例は太陽です。
あそこで起こっていることが核融合なのです。
何十億年にもわたって遠い星にまでエネルギーを発し続ける
太陽こそ夢の永久機関のように思われますが、
果たして私たちはいつそれを技術として
利用できるようになるのでしょうか?
それとも、やはり古代エジプトや大洪水以前の文明は
核融合の技術を既に持ち合わせていて
その技術を使ってあの巨大なピラミッドに代表される
建築物を築いたのでしょうか?

アインシュタインの E = mc²
どのように使うかで全く異なる技術をもたらすものと考えます。
そのように、もう一つの道がある、少なくとも可能性がある
ということがわかれば、このまま進めば暗い未来も
もう一つの道を歩めば明るい道が開けるのです。

そんなことを夢想しながら、今年の Burn2 では
どんな音楽を披露しようかと、日々ニヤニヤしている
ヒロシなのであります。

2025年9月9日火曜日

ヒロシの中の人が英語の参考書を出版しました!

さて、2日続けて音楽の、それもクラシックに関する話題が
続きましたが、本日はまたガラッと変わった話題を。。。

この数か月取り組んでいることがあると申し上げましたが、
それは何と、英語の参考書を執筆していたのでした!@@
で、漸くその本が出版されたのです。

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タイトルは『誰も教えてくれなかった! 知っておきたい
大人の英語の常識と IT 開発現場の英語表現』という長いもの。w
この日記の最後に目次を掲載しておきますが、
まぁ、学校では教わらないけれど、英米の人なら子供でも知ってる
そんな英語の常識や、社外秘であるために一般の参考書には
なかなか載っていない開発文書のテンプレートなど
ビジネスやシステム開発で英語を使う人には
得がたい情報満載の内容になっています。

この本を書こうと思うきっかけになったのは、
僕が銀行の、それも海外拠点のシステム開発に携わる部署にいて
これまで同僚が書く英文のメールやら開発の資料やらを
添削して来たことにあります。
いろんな方の書く英文を見て感じたのは、
皆さん書く英語の常識を知らないということ。
そして、それ以前に英語に訳す元の日本語の意味を
正確に捉えられてなくて、全く違う意味の英語になっていたり、
そんな場面を何度も見て来たからです。
これは、英語をレベルアップする前に、
日本語のレベルアップをしなければ。。。
そこまで遡ってしまったので、この本は英語の参考書でありながら
いきなり日本語の文法の説明から始まるという
これまでにない変わった構成になっています。

そんなこの世に2つとない、300ページもある英語の最終強化書、
定価は 2,800 円、きっとその何十倍もの価値があります。w
社内研修のために作った本で、
一般の書店では販売していませんので、
おもしろそう、と思われる方はヒロシ宛てに直接ご連絡下さい。
ご注文お待ちしています!m(_ _)m

<目次>

はじめに~「英語ができる」とは?

1. 日本語の文法、英語の文法を見直す

 1.1 「訳す」ということ
  1.1.1 「訳す」ということに対する誤解
  1.1.2 なぜ生成 AI は訳の品質が高いのか?
  1.1.3 英語上達の近道
  1.1.4 英和辞典・和英辞典を捨てよう
  1.1.5 「カタカナ英語」にご用心
 1.2 国文法に対する理解を見直す
  1.2.1 屈折語と膠着語の違い
  1.2.2 「言語過程観」
  1.2.3 「は」は主語を示すとは限らない
  1.2.4 「~した」は過去形か?
  1.2.5 「相」という概念
  1.2.6 「命令形」という言葉と「法」の概念
  1.2.7 「コンビニ敬語」に見る言霊の伝統
  1.2.8 日本人が苦手な「品詞」について
 1.3 英文法に対する理解を見直す
  1.3.1 「英語に未来はない」ということ
  1.3.2 「法動詞」について
  1.3.3 英語の「現在形」は現在を表さない
  1.3.4 “Please” を付ければ丁寧とは限らない
  1.3.5 可算名詞・不可算名詞と定冠詞 “the”
  1.3.6 自動詞・他動詞と日本語の助詞「に」の関係 
  1.3.7 書き換えできない -ing と to-不定詞 
  1.3.8 実用的な書き換え問題~所有格の秘密

2. 英単語を覚えるための秘密のルール

 2.1 英語の綴り字と発音のルール
  2.1.1 母音の綴りと発音のルール
  2.1.2 R付き母音字の発音のルール
  2.1.3 注意すべき子音の発音
  2.1.4 アルファベットの読み方
 2.2 語源がわかれば広がる単語力
  2.2.1 英単語に表れる代表的な接頭辞 
  2.2.2 英単語に表れる代表的な接尾辞
  2.2.3 英単語に表れる代表的な語根 
 2.3 応用英語音声学のすすめ
  2.3.1 「音」と「音素」
  2.3.2 単語レベルの音の聞こえ方(母音編)
  2.3.3 単語レベルの音の聞こえ方(子音編)
  2.3.4 連続した音の聞こえ方
  2.3.5 カタカナ表記による聴き取りクイズ

3. 「書く英語」の常識

 3.1 「書く英語」の基本ルール
  3.1.1 大前提~日本語の文字を使わない
  3.1.2 大文字の使い方
  3.1.3 句読点のルール
  3.1.4 数字と単位のルール 
 3.2 基本的なライティング・スタイル
  3.2.1 見出しの付け方
  3.2.2 受動態は極力避ける
  3.2.3 参照の記載方法
  3.2.4 箇条書きの書き方
  3.2.5 英文メールに見る文章構成 
  3.2.6 段落分け(パラグラフライティング) 
  3.2.7 同じ単語は繰り返さない 

4. システム開発現場の英語

 4.1 システム開発の基本的な表現
  4.1.1 プロジェクトの立ち上げまで 
  4.1.2 プロジェクトの進捗に関する表現
  4.1.3 テストと障害に関する表現
 4.2 会議で使われる基本的な表現 
  4.2.1 オンライン会議で使われる表現
  4.2.2 議事録の英語
 4.3 その他成果物に使えるスタイル集
  4.3.1 手順書・ユーザーマニュアルの英語 
  4.3.2 仕様書の英語表現①~機能仕様書の英語 
  4.3.3 仕様書の英語表現②~技術設計書の英語
  4.3.4 障害報告の英語
  4.3.5 テストケースの英語

2025年9月8日月曜日

ホロヴィッツのこと

昨日はピアニストのラーザリ・ベルマンのことを書いたけれども
その流れで今日はウラジミール・ホロヴィッツについて
書いてみようと思う。
これは、2年くらい前だったかあるピアニストの方から
「ホロヴィッツは好きですか?」と聞かれて
返事に困ったことがあるからだ。
その時僕はホロヴィッツの演奏のとんでもなく凄いことを
きっと熱く語っていて、それを黙って聞いていた彼女が
その質問をしたのだと思う。
返事に困ったのは、好きとか嫌いとか、
そういうレベルの話ではないからなのだ。

僕が初めてホロヴィッツと意識して聴いた演奏は
例の、1951年の『展覧会の絵』のライヴ録音で、
これはもう、出だしの「プロムナード」からぶっ飛んでしまった。
何と言う迫力!
それまでアシュケナージの寧ろ美しい演奏で聴いて
どこか物足りなさを感じていた僕は
たちまちこの演奏に魅せられてしまったのだ。
一瞬たりとも聴き手を飽きさせない、
グイグイと引っ張っていく演奏。
最後のバーバ・ヤーガからキエフの大門に至る盛り上げ方は
ハンパでなく、エンディングは元の楽譜にはない
ホロヴィッツが即興的にだろうか、沢山の音が追加されているのだ。
これには呆れてしまった。
これは原曲通りではない、しかし無視できない演奏、
ムソルグスキーらしさを最も実現した演奏と言えまいか!

その後、『展覧会の絵』については、
1958年にスヴィャトスラフ・リヒテルがソフィアで行った
コンサートの演奏が素晴らしいと聞いて、これも買って聴いた。
確かにこれも凄い演奏だ。
というのも、こちらは楽譜通りに弾かれているにも拘わらず
ホロヴィッツとはまた違った迫力のある、感動的な演奏なのだ。
僕は、最初に聴いたアシュケナージの演奏は
楽譜通りだからつまらないのだと思っていたが、
リヒテルのこれを聴いて考えを改めた。
楽譜通りでも、演奏家によってその表情は大きく異なる、と。
かくて僕の中で理知的な演奏のリヒテルと
情熱的な演奏のホロヴィッツとは、どちらも同じ19世紀的な
ヴィルトゥオジテの演奏ながら、全く違った行き方として
常に気になる存在となったのである。

そのリヒテルの名盤の一つに、
シューベルトの「ピアノソナタ第21盤変ロ長調 D960」がある。
これは、シューベルトの遺作でもある長い長いソナタで、
「グレート」と呼ばれる彼の第9番交響曲同様、
僕にはとても耐えられない、何をやっているのか
分からないうちに眠ってしまうような曲なのである。
その長い第21番のピアノソナタの名盤と言えば
リヒテルがメロディアに遺した演奏が挙げられることが多く、
僕もその演奏で聴いて知っている曲だったのだ。

が、この曲をホロヴィッツがアメリカデビュー25周年のライヴで
弾いているのを聴いてまた魂消てしまった。
リヒテルに比べると遥かにテンポが速いのだ。
全く違う曲に聞こえると言ってもいい。
この内省的な曲はリヒテルのように弾くのが本来なのだろうが、
テンポを速く取るホロヴィッツは、あっと言う間に4楽章を弾いて
聴く人を飽きさせない。
これもまた楽譜通りかどうかを別にして、
無視できない名演と言っていいだろう。

そしてチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」である。
これも、カラヤン/ヴィーン交響楽団と共演した
1962年録音のグラモフォン盤の評価が高く、
やはり自分もこの演奏で聴いていたのだが、
最初に書いたホロヴィッツの『展覧会の絵』を
CD で買い直した時に、そのカップリングがこの曲だったのだが、
ホロヴィッツが奏でるピアノの響きにも
トスカニーニ指揮の NBC 交響楽団が奏でるオケの音色にも
参ってしまった。
何と言う濃厚な、19世紀的な音。
現代的な演奏が次々に出て来ている中で、
これはいかにも大時代的な、甘ったるい音なのだが、
その甘ったるさこそが僕らの魂の深いところをくすぐるのである。
僕は長い事チャイコフスキーは苦手だったのだが、
もしかして、ホロヴィッツのこの絢爛豪華な演奏こそ
チャイコフスキーのこの曲を有名にしたのではないか、
そんなことを思わせる演奏なのである。
そう、これもまた無視できない演奏なのだ。

ところでホロヴィッツと言えば、例の吉田秀和さんが
『世界のピアニスト』の中でこのように書いておられる。

「しかし、さすがのホロヴィッツも、行きすぎて、いわば対象をのりこえて名人芸の空まわりに終わる演奏をしたことも事実だ。たとえば、彼が自分で編曲し演奏した米国国歌『星条旗の下に』のレコード。あれはショッキングだった。私は唖然としてしまった。十九世紀の悪達者な名人たちならいざ知らず、万事につけて合理的になている二十世紀の巨匠で、名人芸が、これほどグロテスクな域に達した演奏は、類があっても、ごく少ないのではないか。貴重なものの無償な浪費こそ楽しいという人もあるだろうが、これは名人の悪趣味の典型みたいなものだった。」

僕がこの文章を読んだのは学生の頃だったと思うが、
吉田さんがここまで酷評する演奏はどんなものなんだろうと
ずっと不思議に思っていた。
しかし、『展覧会の絵』のような大曲の CD は買っても
『星条旗』のようなものをその興味のためだけに買うことは
到底できることではないので、ずっとそのままになっていた。
と、最近、昔 LP で持っていたホロヴィッツが弾いた
メンデルスゾーンの「無言歌」を聴きたくなって
RCA から出ている小品集を買ったらそこに入っていたのだ、
「星条旗よ永遠なれ」が。

どれどれ、と思って聴き始めたら、暫くして
僕は可笑しくなって笑い出してしまった。
この曲は勿論スーザが書いた吹奏楽の曲なのだが、
ホロヴィッツは10本の指でその吹奏楽の各パートをの音を
弾き分けるのだ。
ピアノからピッコロの音が、トロンボーンが聞こえて来るのだ。
そう、これは一人吹奏楽と言っていい演奏。
『展覧会の絵』で、これでもかこれでもかと
原曲にはない音を追加した人らしく、
一人で吹奏楽の各パートを弾き分けるのだ。
これはもう、音楽的な演奏というより曲芸の範疇に入る。
吉田さんがグロテスクとか悪趣味と言ったのは
きっとこのことだったのだろうと今更のように思うのである。

しかし、ピアノを使ってこんなことができる、
ピアノを使ってこんな音が出せる、
ピアノという楽器の表現力をとことん突き詰めた演奏というのが
これまで述べて来たどの曲にも言えると思う。
だから無視できないのだ、同じピアノを弾く人間にとっては。
それは、決して模範的な演奏ではないかもしれないけれども
音楽というのが表現の芸術である以上、
ここまで追究された表現を、同じ表現者としては無視できない。
それは、好きとか嫌いとかを超えた何かなのだ。

かくして、この1年ばかりホロヴィッツの CD は
たくさん買って聴いた。
好きとか嫌いとかでなく――癖になるのだな、これは。w

2025年9月7日日曜日

ラーザリ・ベルマンの「熱情」ソナタ

ここ数か月、取り組んでいることのために
あまり SL にログインしたり、この日記を書くこともなかったですが、
その間も音楽はいろいろと聴いていました。
昨年小澤征爾さんが亡くなって、小澤さんの CD を
改めて聴き直すようになってから気づいたのですが、
既に廃盤になっていて新品では手に入らなくて
ずっと探してはいても諦めていたようなものも
中古屋さんに行くと案外手に入ったりするものです。
それでここ1年ほどは時間があれば中古屋さんを覗いて
何か掘り出し物がないか、物色したりしています。

そんな音源の一つがロシアのピアニスト
ラーザリ・ベルマンが弾いたベートーヴェンの
「ピアノソナタ第23番ヘ短調作品57『熱情』」です。
これは、僕が生まれて初めてそれと意識して聴いた
「熱情ソナタ」で、それだけにいろいろなピアニストによる
名演と呼ばれるディスクが多数ある中で、
自分としては最も「熱情」らしい「熱情」だと
感じて来たものなのでした。
確か、同じベートーヴェンのピアノソナタ第18番との
カップリングで出ていた LP を持っていましたが、
それは親の家にあって、もう何十年も聴いたことがなく、
CD では一度も見かけたことのない演奏なのでした。
それが、やはり中古屋さんで、
Lazar Berman - The Complete CBS Recordings として
6枚組のセットで、しかも驚くような安い値段で
出ているのを見つけて迷わず購入して聴いたのでした。

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「熱情ソナタ」を聴くと言ったら、やはりベートーヴェン弾きの
バックハウスとかケンプとか、全集を録音している
グルダとかブレンデルとかで聴くのが間違いないでしょう。
そこへ行くとベルマンは特にベートーヴェン弾きというわけでなく、
実際、この CBS に録れた全集版でもベートーヴェンの曲は
先に挙げた「熱情」と第18番のソナタのスタジオ録音と
1979年、カーネギーホールのライブで弾いた
第8番の「悲愴ソナタ」くらいしかありません。
ベルマンは元々 1963 年にソ連のメロディア・レーベルから出た
リストの『超絶技巧練習曲』で西側に知られるようになった
ピアニストで、19世紀的ヴィルツゥオジテを自負してるだけあって
リストやラフマニノフといったテクニック的に難しい
曲を得意とするピアニストというのが
世間一般の評価ではないでしょうか。

そう、だから僕もベルマンの「熱情ソナタ」のことは
気になりつつも、リストやラフマニノフはあまり得意でない僕は
結果的にベルマンの CD は買わずに来たのですが、
ある時作曲家で評論家の諸井誠さんが
その著『ピアノ名曲名盤100』の中で次のように書いていたのです。

「ベルマンの《超絶技巧練習曲》もショッキングだった。頭がぐらぐらしてくる音なのである。しかし、こうしたショックは、反面で拒絶反応も起しかねない。この盤をあんまり何度も聴くと、私は完全なリスト嫌いになりそうだ。このレコードは吉田秀和さんの新聞時評を読んで関心を持ち、聴いてみたのだが……。」

この文章で久しぶりにベルマンに出逢って、
ほう、あのベルマンが。。。と思いながら、
「頭がぐらぐらしてくる音」とはどんな音か興味を持って
CD を手に入れて聴いたのであった。
確かに、この演奏は凄い。頭がぐらぐらするというか
目が回るというか、とんでもない演奏なのです。
なるほど、これで彼に対するイメージが固まってしまったとしても
それは仕方のないところかもしれません。

そのベルマンが何故ベートーヴェンの「熱情ソナタ」を選んだか?
実は、同じようにベートーヴェン弾きではないにも拘わらず
このソナタを何度か録音している人にホロヴィッツがいます。
そして、そのホロヴィッツが 1959 年に録れた RCA 盤に対して
かの吉田秀和さんは『LP 300選』の「レコード表」の中で、
「胸のすくような名演」と評しておられます。
ホロヴィッツもまたヴィルトゥオジテの人で、
ベートーヴェンのこの曲はそのヴィルトゥオジテを発揮するに
持って来いの曲だったのでしょう。
実際、デュナーミクと言い、アゴーギクと言い、
ホロヴィッツ特有の癖のある演奏でありながら、
最初の出だしからフィナーレまで一気に聴かせる
説得力に満ちた演奏なのです。
これを聴いてしまうと、案外全集盤で定評のある
バックハウスが色褪せて感じられます。

ホロヴィッツについては書きたいことがいろいろありますので
また稿を改めることにしますが、
ベルマンもホロヴィッツと同じ流れのピアニストだと感じます。
彼にとっても「熱情ソナタ」はそのヴィルトゥオジテを
遺憾なく発揮できる曲だったのでしょう。
実際、久しぶりに聴いて思いましたが、
あの「頭がぐらぐらしてくる」リストの『超絶技巧』と同じ何か、
一つ一つの音に込める「熱さ」のようなものが感じられるのです。
そしてそれこそが正に、「熱情」という曲にピッタリのもので、
この通称がベートーヴェン自身が付けたものにないにせよ、
「熱情」というテーマを意識してこの曲を聴く時
このベルマンの演奏ほどピッタリなものはないのではないか、
そのように思える演奏なのです。

その熱い感じがキラキラと輝くような綺麗な音色と
正確なリズムに支えられているのですから奇跡的と言えます。
(ホロヴィッツは時に雑に感じられることもありますからね。w)
生まれて一番最初に聴いた演奏だから先入観があるのだろうと
ケンプやバックハウスやグルダの演奏を聴き直しましたが、
この曲は誰が弾いても面白く聴けるように作曲されていながら、
やはりこの熱さだけはベルマン特有のものだと思いました。
あ、ホロヴィッツもですが、それについてはまたの機会に。。。

尚、ベルマンの名前は今の日本では「ラザール」と
フランス語風に表記されることが多いのですが、
僕が1970年代の終わりに初めてその名前を聞いた時は
「ラーザリ」とロシア語風の発音で呼ばれていました。
なので僕の中ではずっと「ラーザリ」なので
今回もそのロシア語表記で書かせて戴きました。

「ラムセス大王展」に行って来ました

10日ほど前、8月27日(水)はわざわざ会社を休んで
豊洲でやっている「ラムセス大王展~ファラオたちの黄金」
という展覧会に行って来ました。

ラムセスの名前を持つ王様は何人もいますが、
「大王」と言えば勿論、エジプト新王国第19王朝
三代目のファラオであるラムセス2世のこと。
この展覧会はそのラムセス2世にフォーカスしたものですが、
僕は今年の初め、楔形文字やヒエログリフの勉強をしていて
改めて古代エジプト文明に関するナショナルジオグラフィックの
番組などを見てしばしその魅力に取り憑かれていたのでした。
いや、勿論古代エジプトのことは今更知ったわけでなく、
僕の人生の中で何度も繰り返しブームが訪れるわけです。w
そんな折にこの展示会が日本にやって来ましたからね、
これは行かねば、と思った次第なのです。
で、最初は友だちと一緒に行こうと思っていたのですが、
なかなか都合がつかず、9月7日までの会期の終わりが近づいたので
漸く会社休んでまで行っていた、というわけなのです。

ラムセス2世と聞いて、ピンと来る人はピンと来る。
知らない人は全く知らないかもしれない。
知らない人に「ラムセス2世ってどんな人?」と聞かれたら、
何と答えたらいいでしょうか?
紀元前14世紀頃のファラオで、カルナック神殿や
アブ・シンベル神殿を造った人で、ヒッタイトと戦って
世界史上最初の平和条約を遺した人で、
90歳くらいまで生きて、100人以上子供がいた人で、
もしかしたら『出エジプト記』でモーセと対峙した
あの王様ですよ。。。とでも?
こう書いてみると、やっぱり知っている人には、おお!
という感じでしょうけれど、知らない人には
ただの文字の羅列にしか過ぎないかもしれない。

そんなわけで、一体この展覧会に興味を持つ人が
どれくらいいるのだろう? 昨年末から今年の初めにかけて
国立西洋美術館でやっていた「モネ 睡蓮のとき」に比べれば
知る人ぞ知るという感じのマニアックな展覧会ではないか?
確かに土日は予約でいっぱいのようだけれど、
水曜日の午後だったら空いているんじゃないか?
その程度の認識で会場に向かったのですが。。。

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会場に到着してビックリ!
時間指定推奨の展覧会なのに、入場の列が何重にも折り重なって、
こんなに並んだのは昨年のモネの時以来でした。
写真にある通り午後の日差しが強く、
私も含めてみんな傘を差して並んでました。

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今回の展覧会は実に立体的な構成で面白かったのだけれど、
まず、会場に入ると、階段を降りて暗い部屋に辿り着きます。
恰も王の墓にでも入って行くような演出で、
もうこの瞬間からザワッとした空気になります。
で、その暗い部屋の突き当たりには扉があってここで待たされます。
扉の向こうはホールになっていて、約4分半の映像を見せられます。
当時のエジプトがどのような状況だったか、
そしてラムセス2世はどのような王だったのか、
謂わば映像によるイントロダクションで、
ここで展示会に対する気持ちを盛り上げてくれるわけです。

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そして映像が終わるといよいよ次の間への扉が開いて
展示会場に入って行くわけですが、その扉の正面で
真っ先に迎えてくれるのがメンフィスで見つかった
12メートルもあるラムセス2世の像の頭部で、
この像はエジプトの歴史博物館でも入場すると
真っ先に観客を迎えてくれるそうで、
今回の展覧会でも最初に私たちを迎えてくれたのでした。

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展示会場では王にまつわる品は勿論、オベリスクの頭部やら
戦いで使った弓などの武具や戦車を飾った金箔やら
王家の墓から出土した様々な遺品が展示されていました。
何と写真撮影自由なので、みんなバシバシ撮ってましたね。
僕は、お! と思ったものに限りましたが上の写真はその一つ。
胸飾りは何かすぐわかるでしょうが、
その下中央にあるのがブレスレットで、
その両脇にあるのはイヤリングなんですが、
特に右のイヤリング、片方だけですが、ブレスレットと比較しても
その大きさがわかると思います。
エジプトの王女はこんな大きなイヤリングを耳に付けてたんだと
目を見張りました。
それから、動物のミイラにも驚きましたね。
猫やらワニやら何れも神聖な動物がミイラにされたようで、
あの、日本ではフンコロガシと呼ばれている小さな虫
スカラベまでがミイラにされているのには参りました。

さて、こうした展示物の間に、要所要所で映像が流れていました。
アブ・シンベル神殿やネフェルタリ王妃の墓の様子などが
恰も自分たちがその場に入って行くようなアングルで流れていて
とっても臨場感があるのです。
中でも、ヒッタイトとのカデシュの戦いは
その様子をプロジェクションマッピングで体験する
部屋が用意されているくらいで、とても迫力がありました。
先ほどの動物のミイラのところでは、その解説映像も流れていたり
その場身を置いて居るだけで当時のエジプト世界が体感できる
そんな展示会になっていましたね。

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そしていよいよご対面です。
写真はラムセス2世のミイラが収められていた棺です。
とても美しいですね!
そして、この棺が置いてある部屋では、
ラムセス2世のミイラから30代と80代の時の顔を
復元する映像が流れていました。
次の2枚はミイラの顔と、復元された30代頃の顔です。
なるほど~。逞しい感じのする顔ですね。

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さて、展示会場を出ると物販のコーナーと VR のコーナーが。
VR ブースでは、ヘッドセットを付けて椅子に座るのですが、
この椅子が回転したり上向きになったりするのです。
ホログラムで現れるラムセス王妃ネフェルタリの案内で
アブ・シンベル神殿やネフェルタリの墓の中に
連れて行ってくれるのです。
まぁ、人間の視覚というのは不思議なもので、
目に飛び込んで来る映像で実際に前に移動したり
後ろに下がったりするような体感があってこれはスゴいです。
入場券とは別料金ですが、折角行くのなら
この VR も体験することをお勧めします。

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こんな感じで展覧会を十分楽しんだあとはお決まりのコースで
図録を買って帰ろうとしますが、何と 7,500円の超豪華本!@@
さすがにちょっと迷いましたが、結局購入しました。
400ページもあるズシリと重い本で、単なる図録を超えて
古代エジプトの詳しい解説書になっていると言えます。
この図録には QR コードが付いていて、買った人だけが
専用のサイトで写真や映像を楽しめるようになってます。
想定外の出費でしたが、これがあるのでまぁいいか、と。w

そんなこんなのラムセス大王展、
9月1日には来場者が25万人を超えたとのことで、
9月7日までだった会期がいきなり4か月延長され、
来年の1月4日(日)までやることになったそうです。
僕と同様、主催者側もそんなに人が来てくれるとは
思ってなかったんじゃないかな。

何かね、冒頭に書いた通り、今時古代エジプトなんて
マニアックだよなぁ、と思っていたら
これだけの日本人が古代エジプトに関心を持っているということが
とてもこの国に希望があるように思うんですよ。
そうそう、水曜日の午後にどんな人たちが来てるかってね、
夫婦連れや年輩の女性の友だち連れは勿論ですが、
親子連れ、若い男の子たちのグループ、若い女の子たちのグループ、
学生風の人たち、ありとあらあらゆる人たちが来てて、
特に若い人たちが多いのが希望かな、と思ったのです。
古代エジプトって、ピラミッドに見られるように
現代の技術では不可能な建築を遺しているけれど、
現代の科学が行き詰まって、このままでは人類は
この惑星(ほし)を滅ぼしてしまうかもしれないって
ゼロカーボンとか SDGS とか言われている昨今、
もしかしたら今まで歩んで来たのとは異なる科学や技術が
古代エジプトにはあるのではないか?
そうだとすれば、この展覧会を観た若い人たちの中から
科学でも技術でも芸術でも、新しい時代の何かを
創る人たちが現れてくれるかもしれない、とね。

いやいや、若い人たちばかりに期待しないで
僕自身、明日のために何かをしないといけないのですけれどね。
古代から未来へ。
そんなことも考えさせられた「ラムセス大王展」でした。
会期が延長になったので、是非皆さんにもお勧めします。

2025年9月2日火曜日

【イベント】 今年の Burn2 は 10/17(金)~10/26(日)開催決定!

ご無沙汰してます。ヒロシです。
前に、今はやっていることがあって SL にインすることも
こうして日記を書くことも難しいようなことを書きました。
今、抱えていた案件が2つ片付きましたので
漸くホッとして何かをやろうという心にゆとりができたところです。

と思ってカレンダーを見ると、何ともう9月ではないですか!@@
9月と言えば僕の中では10月の Burn2 の準備を
始めないといけないタイミングなので
焦って Burn2 のサイトを確認しましたよ。
期待通り、既に今年の Burn2 の予定は決まっていて
PDT で 10月17日(金)~10月26日(日)とのこと。


まだミュージシャンや DJ の募集は始まっていませんが、
既に皆さんがアート作品を展示したり
やイベントを催したりできるキャンプ会場の販売は始まってます。
ご関心のある方は是非上のリンクをクリックして
"Plot Sale Info" のアイコンから案内をご覧下さい。

さて、今年のアートテーマは、ちょうど日本時間で
今朝までやっていた RL のバーニングマンと同じ
"Tomorrow Today"――「明日へ向かう今日」といった
ニュアンスでしょうか、
夢のような未来も、最近の SF にありがちなディストピアも
ただ向こうからやって来るのではない。
今日をどう生きるかで、自分たちの夢に描く未来を
実現することができるのだ、という
とてもポジティブかつ現実的なメッセージです。
以下ご紹介しますが、例によってヒロシによる自由訳ですので
原文を確認されたい方は次のバーニングマンの
公式サイトをご覧下さい。


     *   *   *

明日へ向かう今日


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Courtesy Mike Hampton, The Burning Man Official Site


ーー私はもう自分で変えることのできないものは受け容れていません。私は自分が受け容れられないものを変え続けているのです。
アンジェラ・デイヴィス

2025年のバーニングマンは、未来というものの新しいあり方を想像し、私たちがみんなで集まって行動してそれを実現する、そんな経験へと皆さんを誘うものです。科学の進歩だけでなく、文化交流と芸術の卓越性を称えた前世紀の万国博覧会の熱狂的な精神を受け継ぎ、2025年版のブラックロック・シティは、芸術とイノベーションというバーニング・マンの地球規模の文化を披露する場となるでしょう。それは、私たちがこれから迎える未来への夢を描き、発明し、試作し、最高のアイデアを共有する場となるのです。

未来というものを自分自身に語る物語と考えると、二つの筋書きが多くの人々の想像を占めているように思えます。一つは、テクノロジーに支えられたユートピアというモダニズムのハッピーな寓話、もう一つは、ディストピアとして描かれる崩壊というポストモダンの神話です。前者は、ここのところ急速に信じ難くなって来ています。というのも、それが持続不可能な基盤の上に築かれていることを今や私たちみんなが知ってしまったからです。また、後者についても私たちはその可能性を考えたくはありありません。それはそこでは誰も生き残れない悲劇だからです。

しかし、どんなに不確実であっても、未来は私たちにとって依然として現実のものとして感じられます。それが私たち皆が、遅かれ早かれ生きることになる時間であり、空間であるからです。それはあなたにとってどのような未来でしょうか? 私たちにとっては? 私たち皆にとっては? もし未来の自分に話しかけることができるとしてら、あなたは何と言いますか? そして、その未来の自分からどんな話を聞きたいですか? 今のあなたは未来にあなたにとって、どのような先祖になるのでしょうか?

バーニングマンは今日、単なるイベント以上のものとなっており、またその地球規模の文化は強く健全です。しかし、私たちの存在が世界や日常生活に広がっていくにつれ、私たちは自分たちが世界から隔絶して生きていると考えるような贅沢は最早許されないのです。世界の問題は私たちの問題であり、また私たちの問題は世界の問題でもあるのです。壊れたものすべてを直すことはできないかもしれませんが、より良いものを築くことはできるかもしれません。今こそ未来を取り戻そうではありませんか!

――未来は存在しない。存在するのは今と、過去に起こったことの記憶だけだ。しかし、人間は未来という概念を発明したがゆえに、今日の行動によって未来に影響を与えることができると気づいた唯一の動物なのだ。
デヴィッド・スズキ

ほとんどの生物は、終わりのない現在、あるいはより正確には、処理の遅れによって過去のほんの一瞬の時間を生きていると言っていいでしょう。しかし、更新世のどこかで、より賢い一部の類人猿が時間というものを概念化し、実際には存在しないものを心の中で形造る能力を発達させたのです。未来とはそうしたものの一つで、それは有用でしたが、それほど有用とも言えませんでした。なぜなら、物事というものは殆どの人々にとって、非常に長い期間にわたってほとんど変化しなかったからです。そして数百年前、変化のペースは突然、ゼロから目もくらむほどに加速したのです。電灯! 室内配管! エスプレッソマシン! やがて、ゆっくりとした進歩は、今日私たちが知っている全力疾走へと変わり、未来という概念が再び注目を集めるようになった。

後に万国博覧会と呼ばれるようになる最初のものは、1851年のイギリス万国博覧会でした。この博覧会では、初期のファックス機など、最先端技術が披露されました。20世紀までに、この先端技術を駆使した未来像は西洋文化の神話の一部となり、「黄金時代」SFの空想的な散文に補完され、映画、テレビ番組、テーマパークを通して大衆文化に具現化されました。そしてもちろん、広告もその一つでした。万国博覧会は、遅かれ早かれ誰もが欲しがるであろう新進気鋭の製品のお披露目パーティーでした。振り返ってみると、モダニズムの未来神話は、何よりもまずマーケティングの物語のようでした。それは、セクシーなロボットや空飛ぶ車が登場する魅力的な物語でしたが、しかしなお、終わりのない成長と無限の資源という、持続不可能な基盤の上に築かれていたのです。

――ユートピアへの道の途中で、未来はガス欠になったようだ。
ラリー・ハーヴェイ

「ディストピア」という言葉は何世紀も前から存在し、元々はトマス・モアの夢想的なユートピアに対する皮肉として対比的に造られた言葉です。が、文化的な観点から見ると、ジョージ・オーウェルがその著『1984年』を出版するまでは、それほど大きな話題にはなりませんでした。この作品は、永続的な戦争と監視社会を描いた暗い物語です。こうして、惑星の破滅、社会崩壊、そしてAIによる殺人ロボットといっ​​た、ポストモダンの未来神話が誕生したのです。

永遠の進歩を謳うモダニズムの物語と、不可逆的な破滅を謳うポストモダンの物語、この二つの神話構造の文化的重みを理解することが重要です。先を予見するということは、時と共に次第に深化し、より正確なものになっていくものの、常に欠けたところがある不完全なものです。私たちが心に生み出すあらゆるモデルがそうであるように、先見性とは定義上不完全なものです。そして、怠惰な人間計算機である私たちは、大衆文化から吸収したミームをそこに入力してしまうのです。ちょうど、人生の意味とは猫の動画のことである、と結論づけた有名な AI のように、ディストピア的な考え方に十分曝されて来た私たちは、ゾンビは実在するとどこかで信じ始めているのかもしれません。

完璧だが実現不可能なユートピアと、誰も望まない恐ろしいディストピアという両極端の間に、未来への第三の道、すなわちプロトピアが存在する。作家であり未来学者である(そして長年のバーニングマン参加者でもある)ケビン・ケリーは、着実な進歩に基づく未来、つまり今日よりも良くはなるが完璧ではなく、そして挫折も伴う未来を描写するのにこの言葉を生み出したのです。それは貪欲や絶望に基づくものではなく、ゆっくりと、一歩ずつ、すべての人にとって世界をより良くしていくための努力に基づくものです。言い換えれば、バーニングマンの世界で私たちが奨励し、重視している反復的なアプローチによく似ていると言えます。

――振り返ってみなければ、1%の違いは分からない。でも1%ずつ100年間続ければ。それは大きな違いだ。
ケヴィン・ケリー

バーニングマンはユートピア社会ではないし、そもそもそう意図されたものでもありません。しかし、バーニングマンは影響力のある文化運動であり、社会実験であり、新しい解決策のプロトタイプを作るための他にはない機会となっています。持続可能性ロードマップ10年間の折り返し地点を迎えた今、私たち自身、環境、そして「燃やす」ために必要な資源との間に、より調和のとれた関係を築くにはどうすればよいかを考えるにはちょうどよい時期です。私たちは、プロトピアニズムの精神に基づき、今後数十年にわたり深刻化する気候危機に直面しながらも、人類が生き残り、繁栄するための方法を模索しています。私たちの強みは、私たちの精神、すなわち共同体の力、ポジティブな痕跡を残すことへのコミットメント、そして何よりも「心を開く行動を通して世界を現実のものにする」という参加の原則にあります。

今年のブラックロックシティイベントは、万国博覧会の希望に満ちた精神に再び火を灯すことを目指します。その原動力となるのは、消費主義ではなく、互いに学び合い、より良い未来に向けて共に前進していくという共通の関心です。アーティスト、キャンプ主催者、そしてあらゆる分野の文化貢献者の皆様には、プロトピア的な未来へのビジョンをお持ちいただくようお願いいたします。私たちが直面している課題の多くは地球規模のものですから、世界中のバーニングマン・コミュニティの皆様には、ブラックロック・シティであれ、世界各地での地域活動であれ、この取り組みにご参加いただくようお願いいたします。

昨今、心が折れるような出来事は絶えません。私たちのイベント、私たちの社会、そして地球そのものが、かつてない困難に直面しています。しかし、私たちは行動力に富み、行動力のある集団です。行動を起こさないではいられない、豊かな能力が集まった集団なのです。ですから、未来を想像するとき、あなたはその中でどのような役割を果たすでしょうか? あなたはどのような人物としてそこに現れるのでしょうか? ヒーローとして、それとも犠牲者として? 私たちが想像する未来がどのようなものであれ、それは私たちの方にやって来るものではありません。それは、私たちが自ら出かけて行き、実現させていくものなのです。

     *   *   *

そう、今、 AI の問題とかがやかましく言われる今、
カーボンゼロに向けた取り込みも問題があると言われる今、
科学の進歩がユートピアよりディとピアに向かっているように
見えてしまっている今、
ケヴィンの「プロとピア」という考えは説得力があります。
小さな一歩一歩でも、よりよい世界、
誰もが豊かで幸せに生きていける未来を
僕らは作っていくことができる――思い返せば、
自分が 2007 年に SL を始めたのも、それまで難しかった
世界中の人々と、仲間と繋がっていければ
そんな社会、世界は実現できると感じてのことでした。
Burn2 ではこれまでいろんなテーマがありましたが
僕にとって今回のテーマは最も腹落ちのするものです。
まだライブの日程は決まっていませんが、
このテーマを表現するような楽曲を準備しますので
是非皆さん楽しみにしていて下さい。
よろしくお願いします。