2024年4月7日日曜日

【レビュー記事】 小澤征爾さんを聴く〜その3・武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』

小澤征爾さんは自分のヒーローだったと言いながら、
実のところ小澤さんのレコードや CD をそう大して買ったり
持ったりしているわけではない。
誰でも経験があることだろうとは思うけれども、
高校生や大学生の頃はレコードや CD はそれなりに値が張るもので
どれから先に手に入れるかというのは悩ましいものだったのだ。

そこで高校生の頃から読んで参考にしていたのが
吉田秀和さんの『LP 300選』である。
これはとんでもない本で、選ばれた300曲のうちの第1曲は
レコードにも CD にもなり得ない「宇宙の音楽」なのだ。w
しかし、そこから始めてあるだけあって、
グレゴリオ聖歌に始まる、所謂バッハ以前の音楽を聴く楽しみを、
いやそもそもその存在を教えてくれたのはこの本なのだ。

同時に、どういう音楽が優れたものなのか、
僕の音楽的な感覚を鍛えてくれたのもこの本で、
世間では「名曲」として盛んに耳にする曲たちを
吉田さんは採らないだけでなく、その切って捨てる感じの表現に
高校生の頃は参るやら笑ってしまうやらであった。
そのいくつかをご参考までにここに書き抜いておこう。

まず、ヴィヴァルディと『四季』について。

「日本では――日本ばかりでないかもしれない――もちろん、春夏秋冬の四曲からなる合奏協奏曲『四季』が、ひどく有名だ。日本盤のLPも数種あって、それぞれ、そう悪くないのは、周知の通りである。しかも、この『四季』は、また、作品八のヴァイオリンとオーケストラのための『和声法とインヴェンションの試み』中の一部でしかない。しかし、私はこの曲を好まない。何を好んで特に幼稚な標題楽的手法のために、音楽の本当の醍醐味(だいごみ)が稀薄になり、進行が乱されて いるような曲の流行の片棒をかつぐ必要があろう? 」

幼稚な標題音楽的手法。www
続いて僕の大好きなドヴォルザークの『交響曲第九番』。

「交響曲、ことに九番の『新世界より』は、通俗名曲の十八番の一つになっている。けれど、私は、ことに、この交響曲などとりたくない。なんといっても、安っぽい効果をねらいすぎている。」

安っぽい効果を狙い過ぎた通俗名曲。www
続いては、ロシアの「無敵の五人組」について、
ムソルグスキーの音楽性を讃えたあとで、
リムスキー=コルサコフについて触れる。

「器楽も『スペイン奇想曲』とか『シェエラザード』とか、どれもみな、色彩にとみ、愉快な曲だが、それ以上どういうこともない。こういうものは、ドヴォルジャークの『新世界』やなんかと同じように、西洋音楽をはじめてきく人には、よい入門だと思う。ちょうど、一昔前の『ウィリアム・テル』や『森のかじゃ』みたいに。しかし、ここにいつまでも足ぶみしているのは、どうかといえば、少し、きつすぎるかもしれないが、私はなにしろたいして買ってない。《五人組》はボロディンとムソルグスキーがいれば、私には十分なのだ。そのリムスキー=コルサコフがムソルグスキーのスコアに手を入れたりする。」

先のドヴォルザークの『第九』と合わせてあくまで入門用として、
しかも『ウィリアムテル序曲』や『森のかじや』と
同じレベルに置かれているのには参る。w
ムソルグスキー好きの私はこの最後の一文に、
つまりリムスキー=コルサコフがムソルグスキーのスコアを
変えてしまったことに憤りを覚えて、
ますます彼の曲を聴く気が失せて、ムソルグスキーのオリジナルが
どこかの学者の手で再現されていないか調べたりした位だ。
僕が『シェエラザード』を真面目に聴くようになったのは、
管弦楽法を勉強し始めたここ2、3年のことだ。

最後にサン=サーンス。w

「私は、この人の器楽は、もうやりきれない気がする。一体、これは本当の芸術家の仕事なのだろうか。彼の旋律――有名な『交響曲第三番』『ヴァイオリン協奏曲第三番』 『ピアノ協奏曲』第二、四、五番などの主題をきいてみたまえ。なんという安っぽさ、俗っぽさだろう! そのうえ、あとに出てくる発展は、もう常套(じょうとう)手段ばかり。ただ、気持よく響く音が器用にならべられてあるというだけの音楽は、ほかの芸術なら、本当の音楽とは別に、大衆的な何かというふうに、わけておかれ、画だったら、お菓子屋か百貨店の包み紙かチョコレートの箱、または少年少女雑誌の巻頭に印刷され、やがてそれがはがされて、女子学生の寄宿舎の壁にはられる――つまり、応用ないし娯楽美術に分類されるのだろう。」

ヒドイ。www

しかし、本当にこの本は僕の音楽感覚を鍛えるのに役立ったし、
今でも、あれ? この曲について吉田さんはどう書いていただろう?
と時折見返すことがある。
さて、更に新潮文庫版のこの本には「レコード表」が付いていて、
吉田さんがよいと感じる、謂わば推薦盤のリストがあって、
レコードや CD を買う際に大変参考にさせてもらった。
これもご参考までに書き抜いておくと、
その中で小澤征爾さんの演奏が選ばれているのは次の6曲だ。
(曲名の先頭の番号は300曲中の番号)

180 ベルリオーズ『幻想交響曲』
ミュンシュ指揮ボストンso. R-RX2353
小澤征爾指揮ボストン so. P-MG2409
ブレーズ指揮ロンドン so. CS-23AC593

250 参考盤 デ・ファリャ『三角帽子』
小澤征爾指揮ボストン so. ベルガンサ P-MG1079

269 オネゲル『火刑台上のジャンヌ・ダルク』
小澤征爾指揮ロンドン so., 合唱団, ゾリーナ, クリューンズほか CS-SOCO123〜4
ボド指揮チェコ po., 合唱団, ボルジョーほか C-OQ7389〜90

277 参考盤 シェーンベルク『グレの歌』
小澤征爾指揮ボストン so. Ph-25PC37〜8
ブレーズ指揮BBC so. CS-SOCO112〜3

288 メシアン『トゥランガリラ』
小澤征爾指揮トロント so., イヴォンヌ・ロリオ (p), ジャンヌ・ロリオ (オンド・マルトゥノ) R-SX2014〜5

297〜300 全て廃盤になったその代わりとして
武満徹『カトレーン』『鳥は星の庭に降りる』
小澤征爾指揮ボストン so. P-MG1272

お気づきだろうか?
ベルリオーズの『幻想交響曲』以外は、
何れも小澤さんの演奏が1番目に挙がっているのだ。
特に現代的な曲での小澤さんに対する吉田さんの評価が
高かったことがわかるというものである。

メチャメチャ長い前置きになったけれども、
吉田さんがこの最後の 297〜300 として挙げた曲のレコードが
何れも廃盤になったことに関して注記して、

「現在の作曲家を論じて武満徹をぬかすことはとても出来ない。」

と書かれている、その一文こそ、僕と武満徹さんの音楽の
出会いとなったものなのである。
この一文がきっかけとなって武満徹さんのレコードを
買うことになるのだが、その1枚が小澤さんの指揮、
トロント交響楽団の演奏になるこのディスク、
そしてもう1枚が当時ビクターが出していた
日本の現代音楽のシリーズの1枚であった。

240407a

もう随分昔のことなので正確な順番は覚えていないが、
多分、タイトル曲の『ノヴェンバー・ステップス』は、
どちらかというとメシアンの2枚組『トゥランガリーラ交響曲』の
最終面に入っていて先に聴いていたように思う。
そのあと、武満徹さんが小澤征爾さんとの対談集『音楽』で、
ストラヴィンスキーが『弦楽のためのレクイエム』を評価してくれ、
それが彼が世に出るきっかけとなったということを読んで、
『弦楽のためのレクイエム』とはどんな曲だろう? と、
確か若杉弘さん指揮、読売日本響の演奏になる
ビクター盤を買って聴いたのだと思う。
でもどこかピンと来ていなくて、
その後小澤さんのこのディスクを見つけて聴き直したように思う。

いや実際、ここでの小澤さんの演奏はやはり熱い。
『弦楽のためのレクイエム』に関して言えば、
淡々と響く若杉さんの演奏よりも、
小澤さんの演奏はとても説得力を持って僕の心に迫って来るのだ。
深い深い闇を表現したような音楽、
その闇の恐ろしさのようなものが迫って来るのである。

恐ろしいと言えば、高橋悠治さんがピアノ・ソロを執る
『アステリズム』も素晴らしい。
これは初演メンバーによるものだが、後半8:40くらいから
約2分近くかけてのクレシェンドの迫力、恐ろしさと言ったらない。
ビートルズの "A Day in the Life" でも
ノイジーなオーケストラのクレシェンドがあるが
あれはせいぜい30秒程度のものだ。
武満さんの曲の、小澤さんによるこの2分間の盛り上げ方は凄い。

同じく初演者、琵琶の鶴田錦史さん、尺八の横山勝也さん、
そして小澤さんの指揮による『ノヴェンバー・ステップス』は
オケが初演と異なることを差し引いてもやはり説得力がある。
が、僕はこのディスクに『地平線のドーリア』が入っていることに
最初は気づかなかった。

『地平線のドーリア』の初演者はビクター盤の若杉さんで、
これを最初聴いた時僕はとても驚いたのだけれども、
弦楽器だけで演奏されているにも拘わらず管楽器の響きがするのだ。
それも笙だったり篳篥だったり、そう、雅楽の響きがするのだ。
更には弦のピチカートから羯鼓の音まで聞こえて来たりする。
弦楽器だけでこんなことが出来るのか、と驚いものである。

が、残念ながら小澤さんの演奏からはその響きは聞こえてこない。
或いはこれは小澤さんの指揮というよりも、
オーケストラがその響きを理解できなかったせいかもしれない。
篳篥や笙の響きを西洋人は "awful"、
即ち「恐ろしい」と感じるということをどこかで読んだことがある。
トロントのオーケストラよりは日本のオーケストラ団員の方が
雅楽の響きに慣れていたからではないかと勝手に想像するのである。

しかし、それはあくまでも若杉さんの演奏を知っている
作曲家としての僕の捉え方、こうあってほしいという
願望にすぎないのかもしれない。
雅楽的な響きという点を忘れて、純粋にこの演奏に耳を傾けるなら、
小澤さんの演奏はやはり熱く、また別な説得力を持って
心に響いて来るのである。

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