2023年10月8日日曜日

【翻訳記事・Burn2】 Burn2 今年のアートテーマ:ANIMALIA

既に前の日記に書きましたが、今年の Burn2 のアートテーマは
RL のバーニングマンと同じく "ANIMALIA" というものです。
きっと辞書を引いても出て来ない言葉ですが、
「動物の世界」、「動物の王国」といったニュアンスの言葉です。
一体どういうテーマなのか、長いですが翻訳してお届けします。
原文はこちらになります。


     *   *   *

バーニングマン2023「動物王国」

「時々、私は暗闇の中の野獣になることがあります。」(ヘザー・ダーラム)

ブラックロック砂漠は、一見すると生命が存在しないように見えます。勿論、毎年夏になるとそこ​​に都市を建設する愚かな人間たちを除いては、ということですが。しかし、これは真実からは程遠いと言えます。この高い所にある砂漠に詳しい人なら誰でも、たとえ乾いた湖底であっても、空にはカラスの群れが舞い上がり、羽音を立てる昆虫が飛び交い、ホウネンエビが雨を待って地下で眠り、プラヤが低木地や湿地へと移っていく間をその他無数の種が歩き回っていることを知っています。しかし、こうしたあらゆる種類の生命も、私たちがバーニングマンに来るたびに連れてくる想像上の動物たちが織りなす無限の動物園に比べれば、見劣りするのではないでしょうか。私たちが心の中に描く神話上のけものたち——或いは想像から生まれ、あるいは理想化されたもの、或いは恐れやあこがれの対象となるもの、私たちの夢の中に現れ、しばしばプラヤで命を吹き込まれる動物の霊たちです。猪、馬、熊、雁、巨大なバイソン、ヘビにイカに、何と、宇宙クジラまで!

そして、複雑な言語、高度な道具の使用、そして自分たちが特別であるかのように生物圏の他のあらゆる生き物を支配することで知られる、類人猿の一種、私たち人間も対象となるのは勿論のことです。

今年のバーニングマンのテーマは、動物の世界——現実の動物も想像上の動物も、神話上のものも絶滅してしまったものも——とその中での私たち人間の立ち位置を讃え、想像上の動物は現実であり、現実の動物は想像上のものであると信じてしまうような、そして同時に、実際に証明されたこととは反対に、人間は動物の王国の一部ではないと信じてしまっている、私たちの不思議な精神構造を探究してみようと思うのです。

「動物が人間のように行動しても、人間が動物のように行動しても、驚くことはありません。というのは、すべての動物の中には人間が存在し、すべての人間の中には動物が存在するからです。」 (メフメット・ムラト・イルダン)

人間のように話し、行動する動物は、古代の神話やおとぎ話から現代のテレビに至るまで、私たちの集団的な神話に一貫して生息しています。それほど遠くない過去、つまり人間と動物と神との間の境界線は今日思われているほど明確ではなかった時代から、私たちは驚くべき存在の数々を受け継いでいるのです。西アフリカのアカン族に伝わる、言葉を話す賢いウサギのアダンコは、ブレア・ラビットというヒーローとして現代にも言い伝えられて生きています。ネイティブ・アメリカンの伝統でもこうした生き物が豊かに存在していて、時に人間の創造したとして描かれるトリックスターのコヨーテから、太陽を盗み、誤って人間に火という貴重な贈り物をしてしまった大鴉などがいます。世界を見渡すと、こうした人間と人間以外の属性を持つ生き物に関するこの流れの物語は、古代エジプトの動物の頭の神々から、ジャガーの姿をしたアステカ族のテスカトリポカに至るまで、たくさん見つけることができるのです。

実のところ、動物の神はというのは、初期の人類が初めて神として崇めたものであるかもしれません。私たちの祖先であるネアンデルタール人は凶暴なホラアナグマ(学名ウルスス・スペレウス)を崇拝していたという証拠があり、地中海地域の先祖も同様に、現代の牛の荒々しい祖先であるオーロックスを神格化していたかもしれないのです。注目に値するのは、世界のいくつかの宗教では牛と熊が今でも神聖視されており、神話には人間がこのような恐るべき生き物と交雑し、多くの場合不幸な結果を招く物語が、クレタ島のラビュリントス(迷宮)に棲むミノタウロスから H・G・ウェルズの SF『モロー博士の島』までたくさんあるということです。

人間と別の動物が何らかの形で絡み合っているという概念は、アステカのトナル信仰の伝統にも反映されています。これは即ち、一人一人の人間には相対する別の動物がいて、その人の人生はその動物と強く結び付くもので、少なくとも部分的には生年月日によって決定されるという考え方です。この信仰は占星術で明らかに見られるもので、獅子や猿の星の下に生まれたことが何らかの形でその人の生来の性格を形成すると考えられているのです。これはまた、変身や獣人の伝統とも密接に結びついていて、ヨーロッパの狼男、メソアメリカの鳥獣に変身するナワール、韓国の九尾の狐、そして映画に登場する猫人間やコウモリ人間の数々が思い出されます。

これと同様に魔法のように思えるのが、私たちが動物の世界全体を、野生か家畜か、ペットか害虫かなど、少ない数のバケツに分けて整理する精神構造です。言うまでもなく、ペットは私たちにとって最も身近で最も愛しい存在です。私たちの多くにとって、ペットは殆どの場合、人間の知り合いよりも多くの愛と喜びを私たちの生活にもたらしてくれるのです。その一方で、野生動物は、家に出没する害虫と同じく、恐怖と憎悪の対象となるか、或いは反対に、クジラやその他自然の自由と尊厳を讃えるポスターに描かれる動物のように、遠く離れたところで理想化された讃美の対象となります。この種の無批判な愛は多くの場合、自然ドキュメンタリーを見ることで出来上がった抽象的なもので、保護活動を促進するため一般には有益っと言えますが、これも行き過ぎると、ヴェルナー・ヘルツォークの映画「グリズリーマン」で記録された、熊への愛に惑わされてしまった男の悲しい事例のように、時に危険な事態を招いてしまいます。

「ビッグフットやネス湖の怪物がいるかもしれない世界は、明らかにそうでない世界よりも優れています。」 (クリス・ヴァン・オールズバーグ)

現存する生物種は 150 万種が確認されていますが、これは全体のほんの一部にすぎず、その数は 700 万種に上ると推定する人もいます。既知の種の 3 分の 2 が昆虫であると仮定すると、より大型の生命体が新たに発見される可能性はまだ十分に残されていると言えるのです。そのうちの一つはアメリカで伝えられるサスカッチや、或いはそのヒマラヤにいるいとこであるイエティ(雪男)になるだろうと確信している人は多いのです。最近の世論調査では、アメリカ人の 14% がビッグフットは実際にいると信じていると回答しました。これはETを信じる人の半分に過ぎず、気候変動はデマだと信じる人の3分の1に過ぎませんが、それでも未確認動物学を考慮しないでは、どうやって動物に関する表現やミームについて語ることができるというのでしょうか?

ビッグフット、イエティ、ネス湖の怪物は、現実世界に存在するかどうかは別にしても、確かに足で (或いはヒレで)力強く立ち続けているのです——私たち人間全体の想像力の中に。こうした動物たちが捕まっていないのは彼らが捕まりたくないからだ、そして、少なくとも動物界の片隅に、まだ私たちに知られずに秘密のまま閉ざされている世界があるのだという考えには、言いようのないロマンを感じるではありませんか。

この地球上で私たち自身が営む小さな片隅で、バーナーたちはこの場所でしか見られない珍しい動物の神話を生み出してきました。プラヤチキンについて考えてみましょう。これは、鳥へと進化するはずだったものが進化しきれずに終わった膝の高さくらいの恐竜であると一部の人は考えています。また、しゃべるウサギが群れで走っている話(一度に十億匹を目撃したという人もいる)や、高原に住むウサギのいとこで、主にその存在が剥製で記録されているジャッカロープの話もあります。初期のバーナーたちは、日の出とともに新鮮なコーヒーを持って現れるジャバ牛の伝説を伝えています。(但し、皮肉なことにそのコーヒーにはミルクが入っていなのだとか!)そして、夜になるとゴミパンダが寝ているキャンプを襲撃するとも言われています。アライグマではなく本物のパンダが、ですよ? いや、少なくとも本物のパンダの着ぐるみを着た人かもしれませんけどね。

 「外にいた生き物たちは豚から人間へ、人間から豚へ、そしてまた豚から人間へと目を向けました。しかし、すでにどちらがどちらかを言うことは最早できなくなっていたのです。」 (ジョージ・オーウェル『動物農場』より)

『人間はどこまでチンパンジーか?』の中で、ジャレド・ダイアモンドは、人間のDNAはチンパンジーやボノボのDNAとほぼ99%同一であるため、ものの分かる宇宙人科学者なら、人間はチンパンジーの仲間であるとすぐに結論付けるだろうと主張しています。そして、芸術創作や道具の使用から言語の使用や戦争することに至るまで、人間例外主義を支える神話を体系的に解体し始めるのです。どの種により親近感を覚えるか、好きなだけ議論してみて下さい。(私に言わせれば、それは女性に積極的で、自由恋愛を愛するボノボなのですがね。)その議論の結果がどうあれ、その証拠は私たちの遺伝子の中にあるのです。私たちは類人猿であり、他の類人猿の子孫であり、更にそれ以前に、過去数億年の間に地球上を歩いたり、泳いだり、這い回ったりした、無視することが困難な記録に残っている数多くの生命体から受け継いだものです。興味深いことに、人間の DNA の 60% はドングリ虫と呼ばれる水生動物の DNA と同一で、50 パーセントはイエバエの DNA と同じです。私たちあらゆる生き物は皆、星々を形造るチリやゴミから作られていて、カール・セーガンならこう言ったかもしれません。驚くほど広大な生命が織りなす網の一部なのだと。

人間が動物の世界について抱いている不思議な考えの中でも、おそらく最も不思議なものは、人間は実は動物世界の一部ではなく、私たちは何らかの方法で動物性を超えて進化し、今では他の動物から離れ、他の動物よりも優れた地位を占めているのだという考えです。人間の例外主義という神話には深い根があり、何千年にもわたる宗教の教義や、哲学による言い訳や、科学が起こす騒動によって支えられて来ました。例えば、哲学者のルネ・デカルトが、動物は単なる自動機械、心を持たない肉ロボットにすぎないと結論付けたことは有名です。実際には、デカルトも人間も本質的に同じであるかもしれないと結論付けたわけですが、その事実に関わらず、動物は人間とは異なる存在だという考えがが西洋思想の奥深くに根付いているわけです。

では、何故私たちの多くは、人間が動物園の他の動物たちとは別の存在で、彼らよりも優れているのだと信じ込むような世界に住んでいるのでしょうか? これは特に、人類が私たち皆を支えている複雑な生態系を無造作に破壊して楽しんでいる現代の状況ではじっくりと考える価値があることです。人新世の最終的な運命は、一か八かのSF劇「シンギュラリティ」のようなものよりも、私たちの種全体が(ますます明るくなる)太陽の光の中に顔を向けて、自分たちよりも大きな世界に住んでいて、その大きなシステムを支配する者ではなく、その一部なのだという事実を受け入れることに依存しているのかもしれません。

「私たちが企業という架空の存在や人間の子供という保護された存在に地位を与えるのと同じように、私たち人間が完全に依存している生命体にも地位を与えることはできないのでしょうか? 海洋植物プランクトンは私たちの大気を作り、木々が形成する林冠は私たちが排出する二酸化炭素を吸収します。菌根は土壌を一つに編み上げていきます。これらの存在には、敬意と関係のプロトコルが必要で、その関係によってこそ、私たちは生命を可能にする「人間以上」の存在を説明できるのです。」 (キャロライン・A・ジョーンズ)

バーニングマンの「『いま』を全力で生きる」の理念は、「人間の力を超えた自然世界」を受け入れることについて語っており、私たちの人道主義的価値観は私たちの文化の全体像を語りはしないし、また語ることもできないということを示唆しています。全体として、バーニングマンの十か条の理念は、すべての生命に対する思いやり、協力、尊重の姿勢を語っていると捉えることができます。ですから、もしユニコーンのミュータントビークルとゴミパンダが友達になれるとしたら、トーテムとしている動物や、食べ物の好みや、ペットへのアレルギーなど関係なく、私たち皆が手(前足)を取り合って共同体を築くことができるのだという希望を抱かせるおとにはならないでしょうか?

来るべき 2023年、ブラックロック・シティでもバーニングマンが行われる他の会場でも、あなた自身の想像上の動物を連れて出かけましょう。血の通った生身の動物は御免蒙りますが、あなたに自信と勇気を与える精神的な創造物で、あなたが創作しようとするものがどのゆな芸術であれ、その中で自分自身を表現できるものを、です。勿論、そこでは進化した人間(この言葉の最良の意味で)として振る舞って下さい。大きなものでも小さなものでも私たちの仲間が創ったものにに対する愛と敬意を持って——そう、あの厄介なプラヤチキンに対してもね。

     *   *   *

さて、 SL の Burn2 にはどんな生き物たちが現れるでしょうか?
そしてどんな想像的で創造的な展示やイベントがあるでしょうか?
そんなことを期待しながら是非お友だちと遊びに来て下さいね!

■Hiroshi Kumaki Burn2 2023 ライブ「This Beautiful Planet of Life」
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・日時:2023年10月14日(土)22:00〜23:00
・会場:Burn2 センターキャンプ
・舞台/演出:Kerupa Flow
・YouTube 中継:Sin Nagy (Hole Shot TV)

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