あることが気になって、今『老子』を読み直しています。
これを最初に読んだのはもう○十年も前の学生時代のこと。
当時は「ニューサイエンス」なるものが流行っていて、
科学と東洋思想の親和性、みたい議論がよく聞かれました。
自分もそんな時代の潮流の中で『老子』を手にした、というわけ。
今読んでいるのは勿論当時とは違う理由ですが、
この短く奥の深い文章がどのように読まれているかと思って
Web で検索したところ、「老子の名言」なるサイトが見つかり、
中を覗いてみたところ、次のような「名言」が載っていました。
優しい言葉をかければ、信頼が生まれる。
相手の身になって考えれば、結びつきが生まれる。
相手の身になって与えれば、愛が芽生える。
え? え? 『老子』の中にそんな意味の文章ありましたっけ?
更に見ていくと、次のようなものもありました。
誰かを深く愛せば、強さが生まれる。
誰かに深く愛されれば、勇気が生まれる。
う~ん、これも何かヘン。
大体、現代的な意味での「愛」について触れた箇所は
『老子』の中にはないでしょう。
確かに、「愛」という文字が使われている箇所はあるけれど、
それは現代の日本で使われているのは全然違う意味で。。。
これらの文章を「老子の名言」として載せたサイトは
実にたくさん見つかったのですが、そのどれ一つとして
この文章がどこから来たかを書いていないのです。
「名言」は英語では "quotation" と言っていますが、
この語が「引用」と訳されることもあることからわかるように、
名言集ではその名言がどこから来たものか、
引用元を明らかにするのが約束になっています。
その名言を気に入った人が原典に当たれるように、ですね。
しかし、引用元が記載していないということは
これら多数の名言サイトは、どうも他の誰かが
ネットに載せているのをちゃっかりコピーして作られたのかと
疑わざるを得ないのが正直なところです。
気に入った表現があったのなら、
自分でちゃんと調べればよいのに、と思ってしまいます。
まず自分が注目したのが、これらの文章が
詩のように行を分かって書いてあるという点です。
普通、日本で『老子』にある文章を訳す時は
こうした分かち書きにせずにダラダラと散文の形で訳しますね。
最近は「超訳」なるものも出て来ていて、
わかりやすい言葉で書き直した本も何冊か出ているので、
そのいくつかにも目を通しましたが、
その何れにもこれら2つの文章に似た表現すらありませんでした。
となれば、、、
疑わしきは、元ネタは英語の詩だろう、ということで
調べるとすぐに見つかりました。
まず1つ目は、
Kind words create confidence.
Kind thoughts create profundity.
Kind giving creates love.
そして2つ目は、
Being deeply loved by someone gives you strength,
loving someone deeply gives you courage.
なるほど、これらを日本語に訳したら
冒頭に挙げたような文章になりますね。
そこで、これらの英文について調べていったところ、
どうも2つ目のものは1970年代にスピリチュアル系のエッセイに
登場した表現らしいのですが、
それがいつの間にかこの文章に続けて "- Laot Tzu" と
恰も『老子』が出典のようにして広まっていったらしいです。
(残念ながら現時点ではまだそのエッセイ集が何か
突き止められていません。それはまた何れかの機会に。。。)
次に戻って1つ目ですが、これは 1980年代前半に
自己啓発や教育用の名言集に現れたもので、
ポスターやカード教材に多数印刷されて流布したらしいです。
こちらについては、皆さんも簡単に確認できる
Wikiquote というサイトにはっきりと
「誤って老子が出典とされている」と書いてあります。
ところで、何故こんなことになったのでしょう?
恐らくは、英米の人で『老子』に接して感銘を受けた人が、
老子はこんなことを言っている、と、
『老子』の中の特定の文言というわけではなく、
自分が読んだ印象を表現したのではないか、
それが「老子がこう言った」という風に広まったのではないか、
自分はそのように想像しています。
特定の文言、という意味では、1番目のものに最も近いのは、
『老子』第六十七章の次の文章でしょうか。
我に三宝有り、持して之(これ)を保つ。一に曰(い)わく慈、二に日わく倹(けん)、三に日わく敢(あえ)て天下の先(さき)と為(な)らずと。慈なるが故に能(よ)く勇なり、倹なるが故に能く広し。敢て天下の先と為らず、故に能く器(き)の長(ちょう)を成す。
「自分には宝としているものが3つあって、これをいつも大切にしている。まず第一に慈愛、第二に倹約、第三に天下の人々の先に立たないことだ。慈愛があるからこそ勇気が出て来るし、倹約するからこそ広く施しを行うことができ、先に立たないからこそ、あらゆる官の長となることができるのである。」
大体こんな意味でしょうか。
この3つの中から「慈愛があるから勇気が出る」とう部分だけが
一人歩きしてしまっている感がありますが、
これら3つは何れも為政者として心掛けるべきこと、であって
自己啓発や人生訓として言われたものではないですね。。。
また、「愛」という意味では、次の第四十九章も
これらの英文に関係があるのではないかと考えています。
善なる者は吾之(われこれ)を善とし、不善なる者も吾亦(また)之を善とす。善を得(う)。信(しん)なる者は吾之を信とし、不信なる者も吾亦之を信とす。信を得。
「善であるものを私はよしとするが、善でないものも私はよしとする。このようにして善を得ることができるのである。信義のあるものを私は信じるが、信義のないものも私は信じる。このようにして信義を得ることができるのである。」
英語の "Being loved..." とは順序が逆ですね。
尚、今回見たたくさんの老子の名言サイトの中に
次のようなものもありました。
白雁は白くなるために水浴びする必要はない。
あなたも自分自身でいること以外に何もする必要はない。
これは、『老子』の中に出て来る言葉ではないですが、
『荘子』の外篇「天運篇 第十四」の中に出て来る、
孔子が老子に会った時、老子が孔子に言った言葉の中にあります。
吾子、亦た風(ふう)に放(よ)りて動き、揔(したが)いて立て。……(中略)……夫れ、鵠(つる)は日ごとに浴せざるも白く、烏は日ごとに黔(くろ)めざるも黒し。
「お前さん自身も、風の吹くままにとらわれなく動き、自然にあるがままに立っていればよい。鶴は毎日水浴びしなくても白いし、烏は毎日墨を塗らなくても黒いのだから。」
それをお前さんは、無理に仁義だ礼だと人に押しつけて、却って天下をややこしいことにしているのではないかね?
というわけですね。
自分自身がもっと楽に生きればいいのに、と。
『荘子』の中で老子は老聃(ろうたん)という名前で登場します。
が、この天運篇はじめ、どうも『荘子』の老聃は喋り過ぎる。
『老子』の中で、言葉は少ない方がよい、と言っているのと
同じ人物とは思えないですね。w
荘子は、老聃という人物を借りて、自分の思想を語ったのだろうと
自分はそのように想像しています。
長くなりましたが、冒頭に挙げた2つの言葉は
老子自身のものではありませんが、
これを老子が言った、とされるほどに米英では
老子の思想に興味を抱いている人が多いということですね。
実際、ビートルズの "The Inner Light" という曲は
『老子』の第四十七章を殆どそのまま歌詞にしているくらいです。
ならば、より『老子』が身近な我々日本人、
これを機会に改めて『老子』を読んでみるとよいかもです。
今読めば新しい発見があるかもです。






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