2009年12月25日金曜日

終末期医療について〜キラ・カフェから

もう日が経ってしまったけれども、
火曜日はキラ・カフェの集まりに行って来ました。
今回のテーマは「終末期医療を語りましょう」。
おなじみRB・レモン先生が終末期医療とはどういうものか
簡単に解説して頂いた後に、
どう診断しても余命3か月〜6か月という患者さんのケースを
皆で考え、語り合う、という内容でした。

余命3か月〜6か月と診断してしまったら、
まずはこのことを告知しなければなりませんが、
一体誰に? 本人にしていいのかいけないのか?
もういきなり議論が盛り上がります。
これに先立ち、自分はこのような状況の中で告知されたいか、
また、家族だったら本人に言うか言わないか、など
自分自身に置き換えた問いかけがあり、
これは皆、一人一人考えながら答えていました。

このような議論では、やはり実際に経験された方の話に
重みがあるのは言うまでもありません。
本人に言わなかったことで、本当にそれでよかったのか
今もわからない、という方がいらしたり、
告知したら本人が自殺したという方、
また、自分自身若くして告知されたという方、
お一人お一人の話に僕などはただうなずくばかりでした。
何がいい、悪い、というのでなく、
どれも皆それぞれの身に起きた真実ですから。。。

以下は、話を聞きながら感じていたこと。
一つには、死というものが私たちにとって
あまりに異常な存在となっているということ。
死は本当は常に側にあるのに、
皆、自分だけは死なないと思って生きている、
だから受け入れがたいものとなってしまうのではないか。

パスカルは『パンセ』の中で、
人は死ぬということは誰もが知っているのに
それは一番考えたくないことだ、
人が忙しく仕事するのも戦争するのも、
忙しくして少しでも考える暇をなくすためだ、と書いています。

言い方を変えれば、どのような最期を迎えるかを
具体的にイメージして、その最期に向かって生きること、
それこそが生きるということなのではないでしょうか。
どのような死に方をするか(どこで? 誰が周りにいるか?)
を考えるならば、どのような人生を送ればよいかが決まってきます。
恐らく、どんな宗教もそうやって始まったのでしょう。
そもそも、「人生の目的」なんて言いますけれども、
英語で言うと「The end of life」なのです。
最期がイメージできている人ほど生き生きと生きていると
言えるのです。

これと関係してきますけれども、
告知に関して家族には言わないでほしいという人や
家族には言って自分には言わないでほしいという人もいました。
そう。
結局は死ぬということは自分一人で死ぬわけではないのです。
となれば、自分の死について、家族内でどれだけ語り合えているか、
そういうことが話し合える関係性が家族の中にあるか、
ということもまた重要になってきます。
患者と家族の関係性、患者と医師の関係性、
そして医師と家族の関係性、
こうした関係性がいいところでなされる告知や医療と
そうでない場合がどれだけ異なるかは
考えるまでもないと思います。

言わんとしていることは、死について日ごろから考えているか、
自分の愛する人たちと語り合えているか、ということです。
告知について、また、終末期医療について正解はありません。
が、日ごろから考え、語り合うということの中に
一人一人の答えが生まれてくるのではないかと思うのです。

クリスマスのおめでたい時に何というテーマについて書くのか、と
怪訝に思う方もいらっしゃるかもしれないけれども、
クリスマスだからこそ、愛する人たちと今、この瞬間、
生を分かち合っているということの奇跡を考えてみたいと思うのです。
生きているということの奇跡、
今いる人とめぐり会えたということの奇跡、
それは死について考える時、より一層尊いものとなると思うのです。

今、生きているという奇跡に乾杯。
メリークリスマス。w

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